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第18話 揺れる天秤

 母は、想像より小さく見えた。


 病室のベッドに横たわる恵美は、点滴の管を腕につけたまま、由紀が入ってきた瞬間、少し驚いたような顔をした。

「来たの」とだけ言った。

 咎めるでも、喜ぶでもない、ただそれだけの一言だった。

 その声は、由紀が覚えていたよりも低かった。


 椅子を引いて、母の隣に座った。

 何を話せばいいか分からなかった。

「元気?」は明らかに違う。

「心配した」は、十年間の不在を無視した台詞になる。

 しばらく黙って、母の手を見ていた。

 点滴の針が刺さっている甲の皮膚が、由紀の覚えているものより薄く見えた。

 皺が増えていた。

 当たり前だ、十年経ったのだから。

 でも、その皺を「知らない」感覚があって、胸が痛かった。


「仕事は、大丈夫なの」と恵美が聞いた。

「大丈夫」と答えた。

 嘘だった。

 でも今夜は嘘でいいと思った。


 二泊して東京に戻った。

 母の容態は安定していた。

 回復には時間がかかるが、後遺症の心配は今のところないと医師が言った。

 由紀は病室でほとんど言葉を交わさなかった。

 健太が「来てくれてよかった」と言い、父が「飯食って帰れ」と言い、由紀は「また来る」と言った。

「また来る」——それが、実家で口にした中で、一番大切な言葉だった気がした。


 東京に戻ってから四日、ずっと保留にしていた柴田へのメールを、開いては閉じていた。

 柴田からは一度だけ返信が来ていた。

「ご家族のこと、お大事にどうぞ。落ち着かれたら、ぜひ一度お話しさせてください」。

 丁寧な一文で、プレッシャーはなかった。

 それがかえって、由紀の心を揺らした。

 断りにくい誠実さがあった。


 今、二つのことを同時に考えていた。

 一つは、オファーを受けるかどうか。

 もう一つは、今の会社を辞めるかどうか。

 この二つは別の問いのように見えて、実は同じ一つの問いだった。

「これからどこに立つのか」という問い。

 オファーを受ければ、東京にいる理由ができる。

 地位も収入も戻る。

 でもそれは、今まさに向きを変えようとしている自分の足を、もう一度東京側に縫いつけることを意味する。

 受ければ、帰れなくなる。

 帰れなくなることは、今の由紀にとって、どういう意味を持つのか。


 改めて考えた。

 東京での成功が欲しいかと言えば、欲しい。

 今でも欲しい。

 玲奈に奪われた企画を取り戻したい気持ちも、まだある。

 堂島に「役立たず」のように扱われた悔しさも、消えていない。

 エスプリ出版に移って、業界の中で「やっぱり由紀さんだ」と言われる未来は、今でも魅力的だ。


 でも、とも思う。

 その未来の先に、何があるのか。

 エスプリ出版で結果を出して、次の会社で、またその次で——由紀はどこへ向かっているのか。

 ゴールはどこなのか。

 十年前に「東京で何者かになる」と決めた時、由紀はゴールの姿を具体的に描いたことが、一度もなかった。

「もっと上へ」が目標で、「もっと上」の先が何なのかは、考えたことがなかった。


 母の病室で、恵美の薄くなった手の甲を見た時、由紀は「十年後の自分」を初めてはっきりと想像した。

 十年後も東京で、もっと上の肩書きを持って、でも実家にはやはり帰れていない自分。

 健太はまた一人で何かを抱えていて、両親は少しずつ小さくなっていく。

 そのどこにも、由紀の居場所がない。

 それを「成功した未来」と呼べるのか。

 呼べない、と気づいた時、天秤の傾きが変わった。


 涼子の言葉が、また頭に浮かんだ。「自分を小さく使いすぎてる」。

 その一言は、仕事を拡大しろという意味ではなかったと、今は分かる。

 自分の本当のサイズを、ずっと誤魔化してきたということだ。

「大きく見せること」に使ってきたエネルギーを、もっと別のことに使えばよかった。

「誰かに認められること」に使ってきた時間を、もっと「誰かのために動くこと」に使えばよかった。

 それが涼子が感じていた、由紀の「もったいなさ」だったのかもしれない。


 その夜、ノートを一冊開いた。

 手書きで、二つの欄を作った。

「受ける理由」と「受けない理由」。

 書き出してみると、「受ける理由」の方がずっと多かった。

 収入、地位、業界での復権、自分の価値の証明、今の会社への意趣返し——どれも、本当のことだった。

 ページの半分以上が、受ける理由で埋まっていく。

 見れば見るほど、「受けない方がおかしい」と思えてくるほどの量だった。


 それでも、ペンを止めたまま、しばらくそのノートを眺めた。

 数が多い方が正しいわけではない。

 一行の重さは、数とは関係がない。

 そう思いながら、「受けない理由」の欄に、最後に一行だけ書いた。

『このままでは、また帰れなくなる』


 その一行をしばらく眺めた。

「帰る」という言葉が、初めて、「負け」ではなく「次」という意味を持ち始めていた。

 故郷に帰ることは、東京での敗北宣言ではなく、自分がまだ辿り着けていない何かへ、向かいなおすことだ

 ——その感覚が、実家で二泊を過ごしてから、由紀の中に確かに根を張り始めていた。


 翌日、柴田に返信を送った。

『ご丁寧にお待ちいただき、ありがとうございます。大変ありがたいお話ですが、今回は辞退させていただきたく存じます。今の自分が向かうべき場所が、少し変わってきたように感じております。またいつかどこかでご一緒できる機会があれば、その時はぜひよろしくお願いいたします』

 送信ボタンを押した後、由紀は深く息を吐いた。

 今度は、この前の朝のような「ほどける」感覚ではなかった。

 もっと静かな、もっと自分自身に向き合うような感覚だった。

 これが正しいのか、と問う声は、もうなかった。

 正しいかどうかより先に、「これが今の自分だ」という感覚の方が、大きかった。


 由紀はこれまでの人生で、「正しいかどうか」を常に判断基準にしてきた。

 仕事の選択も、翔太との関係も、故郷への態度も。

 でも「正しいかどうか」は、誰かの物差しで測った話だ。

 由紀自身の物差しで測った時、何が「正しい」のかを、この三か月、初めてゆっくり考えてきた。

 その答えが、今日の返信だった。


 その三日後、退職届を書いた。

 手が震えなかったことに、少し驚いた。

 十年間在籍した会社への退職届を、こんなにも静かな手で書けるとは思っていなかった。

「宮沢由紀」という名前を書きながら、由紀はこの会社に入った最初の朝を思い出していた。

 新品のスーツで、三色のインデックスシールを文房具屋で買って、これからここで何かを作るのだと胸を高鳴らせていた自分。

 あの朝の自分と、今夜の自分は、同じ人間のはずだった。

 でも何かが、決定的に違った。

 あの頃の由紀が求めていたのは「認められること」で、今夜の由紀が向かおうとしているのは、まだ名前もない何かだった。

 名前がないからこそ、怖くもあり、自由でもあった。


 書き終えて、封筒に入れながら、一度だけ、窓の外の東京の空を見た。

 曇っていた。

 雨になるかもしれない空だった。

 それでも由紀は、傘を持っていけばいい、とだけ思った。


 退職届を提出した日の夕方、いつものホームに立ち寄った。

 マリアさんの軒先に、今夜もかすみ草が並んでいた。

 由紀は一束買いながら、「少し、変わったことがあって」と言った。

 マリアさんは「良い変わり方?」と聞いた。

 少し考えてから「たぶん」と答えた。

 マリアさんは笑って、「たぶん、で十分よ」と言った。

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