第19話 変わらない駅舎
新幹線が東京駅を出た瞬間、由紀の中で何かが切り替わった。
乗る前まで、由紀は落ち着いていた。
退職届を出して、荷物を段ボールに詰めて、マンションの解約手続きをして。
やることに追われている間は、自分が何をしているかを深く考えずに済んだ。
でも今、シートに体を沈めて、窓の外にビル群が流れ始めたとき、胃が静かにざわついた。
これは緊張だ、と思った。
三十三歳にもなって、帰省で緊張している。
笑えない話だが、笑えなかった。
窓の外を、東京の灰色が流れていく。
高架橋、ビルの屋上、給水タンク、走り続ける高速道路。
この十年間、「完璧なダイヤグラム」の一部だと思っていた景色たちが、今は遠ざかっていく背景でしかない。
不思議と寂しくはなかった。
ただ、「ああ、ここに十年いたんだ」という、静かな事実の確認があるだけだった。
由紀はシートに背を預け、目を閉じた。
頭の中に、いくつもの顔が浮かぶ。
地下の資料管理室で最後に蛍光灯を消した時の、あの天井の色。
マリアさんがかすみ草を手渡してくれた夜の、駅前の空気の匂い。
ミカが改札の向こうへ消えていく時に振り返った顔。
涼子が「自分を小さく使いすぎてる」と言った時の、まっすぐな視線。
そして健太の、あの揺れた声。
これだけのものを、この数か月で受け取っていた。
全部失ったと思っていた時期に、一番多くのものを受け取っていた。
それは不思議なことのようで、考えてみれば当たり前だった。
余裕がなければ、受け取れない。
持ちすぎていれば、差し出されたものに気づかない。
すべてを失って、やっと手が空いた時、初めて誰かのものを受け取れるようになっていた。
由紀は目を開けて、ふと手元のバッグの中を見た。
かすみ草の小さな束が入っている。
昨夜、マリアさんに「少し変わったことがあって」と言ったら「旅のお守りに」と持たせてくれた。
花は少し萎れ始めているが、それでも白い粒が、確かにそこにある。
その花を見ながら、「主役にはなれないけど、あると全然違う」というマリアさんの言葉を思い出した。
今の自分は、まさにそういう状態かもしれない。
華やかな場所を離れて、誰かの隣にそっと咲いていようとしている。
新幹線の速度が少しずつ落ちて、乗り換えの駅に着く頃には、窓の外の景色がぜんぜん違うものになっていた。
田んぼの緑と、山の稜線と、川沿いの集落。
東京の密度とは全く違う、空の広さがある。
由紀は、子供の頃この景色を「何もない」と感じていたことを思い出した。
でも今は、「広い」と思った。
ただ、広い。
それだけのことが、由紀の肺に、少し深い息を吸わせた。
大きな空が当たり前にある場所。
それを、由紀はずっと「つまらない」と思っていた。
ローカル線に乗り換えた後は、乗客が一気に減った。
由紀の車両には、三人しかいない。
一人は農作業帰りらしき年配の男性で、膝の上に野菜の入った袋を置いて目を閉じている。
もう一人は高校生で、イヤホンをして窓の外を見ている。
東京では絶対に意識しなかった、一両ぼっちのような静けさ。
列車のジョイント音が、一定のリズムで続く。
由紀はこのローカル線に、最後に乗ったのがいつだったか、思い出せなかった。
十八歳で上京する時に乗ったのが最後だとすれば、十五年ぶり。
あの時は、このジョイント音が早く終わってほしかった。
早く東京に着きたかった。
今は逆に、このリズムがずっと続いてもいいと思っていた。
着いた先に、何があるのかを、少しだけ先延ばしにしたかったのかもしれない。
目的の駅が近づくにつれ、由紀の胸がまた締まってきた。
何を言えばいいんだろう。
父に何を言えばいいのか、まったく分からなかった。
「ただいま」は、十年間帰らなかった娘が言っていい言葉なのか。
「お父さん」と呼びかけることさえ、声に出せる自信がなかった。
謝るべきか。
でも、何から謝ればいいのか。
十年間の不在を、一言で謝れる言葉など、どこにもない気がした。
「腹減ったろ」と言うかもしれない。
ふとそう思った。
子供の頃、遠足から帰っても、試合から帰っても、父はいつもそう言った。
感情を表に出すことが苦手な昭雄が、嬉しい時も心配した時も、最初にかけてくれる言葉は、いつもそれだった。
もしあの言葉が出てきたら、泣いてしまうかもしれない。
そう思って、窓の外に視線を移した。
列車が速度を落としていく。
窓の外に、見覚えのある木の並びが現れた。
昔、あの並木道の向こうに自転車を置いて、友達と待ち合わせをしていた。
あの踏切は、高校に通っていた時に毎朝待たされた踏切。
何も変わっていなかった。
変わっていないことが、由紀の胸を突いた。
自分だけが変わり続けている間、ここはずっと同じ速度で時間を刻んでいた。
ここには、由紀の知らない変化はなかった。
知らせてもらえなかった変化だけが、静かに積もっていた。
無人駅のホームに、列車が静かに滑り込む。
改札の外に、二人が立っていた。
父の昭雄と、健太。
昭雄は紺色のジャンパーを着ていて、腕を組んでいた。
健太はジーンズにパーカーで、少し背が伸びたような気がした。
記憶の中の健太より、顔つきが落ち着いている。
二人とも、由紀の姿を見つけると、目線が合ったが、どちらも動かなかった。
荷物を持って、列車を降りた。
砂利を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
十五年ぶりに嗅ぐ、故郷の空気だった。
土と、草と、どこかから漂う焚き火の匂い、それに田んぼの水が冷えた時の、秋特有の湿った冷気。
東京にはない、乾いているようで、しっとりとした季節の匂い。
それを吸い込んだ瞬間、喉の奥が熱くなるのを感じた。
泣くつもりはなかった。
でも体は、言うことを聞いてくれなかった。
昭雄はしばらく由紀を見てから、ゆっくりと口を開いた。
「腹、減ったろ」
それだけだった。
咎めの言葉も、謝罪を求める言葉も、何もなかった。
十年ぶりに帰った娘に、父が最初にかけた言葉は、それだけだった。
由紀の脳裏に、遠足から帰ってきた小学生の頃の自分が浮かんだ。
あの頃も父はそう言った。
「腹、減ったろ」。
感情を表に出すことが不器用な昭雄が、嬉しい時も、ほっとした時も、心配が解けた時も、最初にかける言葉はいつもそれだった。
目から、涙がこぼれた。
声を立てずに泣いた。
昭雄は由紀を見たまま、特に何もしなかった。
ただ、そこに立っていた。
日に焼けた、どこか照れくさそうな顔で。
健太が「姉ちゃん」と言いながら、少し距離を縮めた。
「久しぶり」と由紀は言おうとしたが、声が割れた。
「……うん」
それだけしか出なかった。
でも、それで良かったと思った。
健太が「荷物、持つ」とスーツケースの取っ手に手を伸ばした。
その手が、由紀の記憶の中の健太の手より、一回り大きくなっていた。
この手で、ずっと実家を支えてきたのだと思った。
謝りたかったが、今夜はまだ言葉にならなかった。
ただ「ありがとう」とだけ言った。
健太は「別に」と言って、スーツケースを引き始めた。
その横顔は、照れているのか、怒っているのかまだ読めなかった。
それでいい、と思った。
関係は、一夜では戻らない。
でも今夜、始まった。
駅舎の小さな木造の屋根の下、三人は少しの間、そこに立っていた。
列車は去り、ホームは静かで、秋の夕方の光が、砂利の上に長く伸びていた。
どこかで烏が一声、鳴いた。
変わらない駅舎が、変わった由紀を、ただ静かに迎えていた。




