表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/28

第20話 止まったままの時計

 実家は、由紀の記憶より小さかった。


 玄関を入ると、昔と同じ位置に同じ棚があり、その上に同じ小さな花瓶が置かれていた。

 廊下の床が軋む場所も、脱衣所の電球がほんの少し黄みがかっているのも、変わっていなかった。

 変わっていないのに、すべてが小さく見えた。

 この家の天井は、こんなに低かったのか。

 廊下は、こんなに短かったのか。

 リビングの柱時計を見て足を止めた。

 針が、九時十七分を指したまま止まっていた。

 今は夕方の五時を過ぎた頃だ。


「あの時計、いつから止まってるの」

 昭雄は台所でお茶を淹れながら、背中を向けたまま答えた。

「さあ、だいぶ前から。電池が切れたんじゃないか」

「替えてないの?」

「替えようと思ってた」

 時計を見上げた。

 九時十七分。

 誰も替えなかった電池。

 誰も気にしなかった止まった針。

 それが、この家の十年間の何かを表しているような気がしてしばらく動けなかった。


 翌日、バスで病院を訪ねた。

 恵美は前回より顔色が良く、リハビリも始まっていた。

 病室の窓から、秋の山が見えた。

「うちの山、紅葉、始まってるね」

 そう言うと、恵美は窓の方を見てから「今年は早いかね」と言った。

 方言の抑揚が少し混じった喋り方を東京にいる間はすっかり忘れていた。

 久しぶりに耳にして、子供の頃の記憶がじわりと浮かぶ。

 この喋り方で、おやすみと言われていた。ご飯だよと呼ばれていた。


「お母さん、仕事、辞めたから。しばらくここにいる」

 言うつもりはなかった言葉が、出た。

 恵美はしばらく由紀を見ていた。

「そう」

 それだけだった。

 咎めも、驚きも、「あらあら」という過剰な反応もなかった。

 ただ、由紀の目を一度だけまっすぐ見てから、また窓の方に視線を戻した。

 その横顔に、由紀は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。


 しばらく二人で、山の紅葉を眺めた。

 話さなくていいのかと思ったが、恵美は黙ったままで、そのことが却って楽だった。

 言葉で埋めなくてもいい沈黙が、この二人の間にもあるのだと、今日初めて知った。

「痛くない?」と聞いた。

 リハビリのことだった。

「痛いよ。でも先生が、やった方がいいって言うから」

「頑張ってるんだね」

「頑張るしかないでしょう」

 恵美はそう言って、少し笑った。

 強がりとも、事実とも取れる笑い方だった。

 由紀は、その笑い方を、今初めて見た気がした。

 いや、ずっと見てきたはずだった。

 ただ、由紀が見ていなかっただけだ。


 病院の帰り道、バスを待ちながら、停留所のベンチに座った。

 東京のあのホームのベンチとは違って、ここのベンチは木製で、端が少し朽ちかけている。

 誰もいなかった。

 バスは一時間に一本で、次の便まで四十分ある。

 東京にいた頃なら、絶対に耐えられないと思っていた待ち時間。

 でも今、ただ、その四十分をそのまま受け取った。


 この四十分の間、ずっと、母の横顔を思い返していた。

 恵美の髪は、由紀の知っていた頃より、ずっと白くなっていた。

 指の関節が少し膨らんでいるのは、もしかしたら以前からだったのかもしれない。

 点滴の痕が腕に残っていた。

 その一つ一つが、由紀が見ていない間に刻まれたものだった。


 母に何かを返せていたか、と自問した。

 答えは出なかった。

 出るわけがなかった。

 十年間、実家に帰らなかった。

 電話は出なかった。

 お金を送ったこともなかった。

「仕事が忙しい」という言葉で、すべてを処理してきた。

 それは嘘ではなかった。

 でも、それだけではなかった。

 帰れば崩れそうな何かがあったから、帰らなかった。


 その「何か」とは、つまり東京での自分の正しさを確かめ続けることへの、執着だったのだと思う。

 帰るたびに、「まだ何も成し遂げていない自分」を突きつけられる気がしていた。

 それが嫌で、帰れなかった。

 でもその間、両親は老いていた。

 健太は一人で家を支えていた。

 由紀だけが、自分の問題を抱えて、遠くにいた。

 その「何か」が何だったのかを、今、ゆっくりと確かめている。


 夕方、実家に戻ると、健太が台所で夕食を作っていた。

「手伝う」と言うと、健太は少し間を置いてから「じゃあ、ご飯だけ炊いといて」と言った。

 その短い間に、どんな感情が詰まっているのか、由紀には分からなかった。

 責めているのでも、排除しているのでもなかったと思う。

 ただ、これまでずっと一人でやってきた台所に、急に姉が入ってきた時の、小さなぎこちなさだった。


 米を研ぎながら、隣で健太が味噌汁を作る音を聞いていた。

 鍋の中の出汁が沸く音、包丁のリズム、換気扇の低い音。

 台所の音は子供の頃から同じだった。

 ただ、今は健太がその音を作っていた。

「いつも、一人で作ってたの」

「うん。まあ」

「大変だったね」

「別に、慣れたし」

 健太は答えながら、鍋の中をかき混ぜた。

「慣れた」という言葉の中に、「慣れるしかなかった」が入っているかもしれないと感じたが、それ以上は聞かなかった。

 今夜は、聞かなくていいと思った。


 夕食は、味噌汁と、鮭の塩焼きと、ほうれん草のお浸しだった。

 シンプルで、余計なものがない献立だった。

 東京でいつも食べていたものとは全然違う。

 でも、一口食べて、由紀はしばらく箸を止めた。

 旨い、という感覚より先に、体が安心するような感触があった。

 これはどこかで感じた味。

 子供の頃、毎晩この食卓に座って食べていた、あの感触。

「健太、上手くなったじゃん」

「……まあ、十年やってれば」

 また、その一言に何かが詰まっていた。

 でも健太の表情は、さっきよりほんの少し、柔らかかった。


 食事が終わった後、リビングに戻り、もう一度柱時計を見上げた。

 針は、まだ九時十七分のままだった。

 コンビニで単三電池を買ってくればよかったと思いながら、それを今夜はしなかった。

 止まったままの時計が、この家に在り続けている。

 誰も急がなかった。

 誰も直さなかった。

 でも、この家は今も動いていた。

 食事があり、風呂があり、明日がある。

 時計が止まっていても、時間は流れていた。


 電気を消して、子供の頃と同じ部屋に入った。

 押し入れには、昔の教科書がまだ残っていた。

 机の上に、自分が貼った古いシールの痕がある。

 十八歳で出ていった日のまま、この部屋は待っていた。

 押し入れを少し開けてみると、高校時代に書いた文集が出てきた。

 題名は「将来の夢」だった。

 ページをめくると、高校二年の字で「東京の出版社に就職して、本を作りたい」と書いてある。

 その夢は、確かに叶えた。

 でも、その夢の先に、どこへ行くつもりだったかまでは、書いていなかった。

 十六歳の由紀も、三十三歳の由紀と同じで、ゴールを決めていなかった。


 文集を元に戻して、布団に入った。

 天井を見上げた。

 電球のカバーの中に、小さな虫の影がある。

 この天井を、子供の頃どれほど眺めたか分からない。

 宿題をさぼって眺めたり、喧嘩した翌日の朝に眺めたり。

 今夜は、その天井を、三十三歳の自分が眺めている。


 布団の中で、この十年間のことを、今夜は後悔しようと決めた。

 責めすぎても仕方がない。

 でも、一度くらいはちゃんと悔いないと、前に進めない気がした。

 十年間の不在を、一晩で帳消しにはできない。

 でも、今夜ここにいることは、本当のことだった。

 明日また、病院に行く。

 それも本当のことだ。

 本当のことを、一つずつ積み上げていくしかない。


 リビングから、かすかに柱時計の存在感がある。

 時計は動いていない。

 でも、今夜、電池を替えに行こうと思った。

 明日、コンビニで買ってこよう。

 それが、由紀にできる最初の小さなことだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ