第21話 違う時間の流れ
市役所の広報課に、由紀の机が一つ用意された。
拓海の紹介だった。
幼馴染でもある拓海は地域振興課に勤めていて、広報誌の制作で手が足りていないところに、由紀が「ものを書く仕事をしていた」と知って、課をまたいで話をつけてくれたのだという。
由紀は初日、九時前に着いた。
東京では当たり前だった習慣が、ここでは少し浮いていた。
ほとんどの職員が、九時ちょうどか、あるいは数分過ぎに来る。
遅刻ではない。
ただ、「早く来る理由がない」という感じの、のんびりした時間の始まり方だった。
由紀に与えられた最初の仕事は、今期号の広報誌のインタビュー記事の原稿起こしだった。
話を聞いてきた相手は地元の農家で、すでに担当職員が録音を取ってあるとのことだった。
由紀は録音データを聞きながら、一時間で素案を書き、赤を入れ、形にした。
「早いですね」
隣の席の若い職員が驚いたように言った。
「これ、いつもどのくらいかけてるんですか」
「うーん……半日、もしかしたら一日くらい?」
由紀は何も言わなかった。
できるだけ、顔に出さないようにした。
でも内心では、「半日?」という言葉が引っかかっていた。
インタビューの録音は二十分、原稿は千字以下だ。
これに半日かかる理由が、由紀には分からなかった。
午前中に、もう一つ気づいたことがあった。
メールで聞けば三十秒で済むことを、担当職員が直接席まで歩いて行って話しかけていた。
一件だけならまだいい。
ただ、それが一日中、何度も繰り返されていた。
由紀は「なぜメールしないんだろう」と思ったが、よく見ると、行き来する中で笑い声が生まれていたり、別の話題が出てきたりしていた。
コミュニケーションのついでに、仕事の話をしている。
仕事のついでに、コミュニケーションをしているのではなく。
その順番が逆に見えた。
違和感は、その後も続いた。
広報誌の全体的な方向性を決める打ち合わせが、週に一度あるとのことで、由紀は初めてそれに参加した。
会議室ではなく、給湯室のテーブルに四人が集まり、お茶を飲みながら話し合う。
議題はなく、「今月、何を取り上げましょうか」という会話が延々と続いた。
由紀が「今号のターゲット読者と、伝えたい優先順位を整理しませんか」と提案すると、全員が少し困ったような顔をした。
「まあ、広報誌って、特定のターゲットというよりは、町の方全員に読んでいただくものですから」
課長がそう言った。
間違いではない。
でも由紀には「だからこそ優先順位が必要だ」という感覚があった。
全員に届けるためには、何を軸にするか決めた方が結果的に刺さる、というのは編集の基本だ。
その「基本」が、ここでは共通言語ではなかった。
由紀は提案を引っ込めた。
場の空気が少し揺れたのを感じたから。
話し合いはそのまま続いて、「お祭りの特集をやりましょうか」という話で落ち着いた。
決め方が何となく、というのが、由紀には落ち着かなかった。
でも、「何となく」で決めてきた積み重ねの上に、この広報誌が何十年も続いてきた事実もある。
昼休みに、拓海が声をかけてきた。
「広報課、どうだ?」
「……なんか、思ってたのと違って」
「どのへんが」
「全部、ゆっくりすぎる。仕事の判断も、決め方も。なんか、私だけが別の速度で動いてる気がして」
拓海は缶コーヒーをもう一本買って、由紀に渡しながら言った。
「それ、ここじゃ普通よ。別に、みんな怠けてるわけじゃなくて、手順が違うんだよ。ここで何かを進めるには、まず人と関係を作って、根回しして、顔を立てて、それからじゃないと動かない。それが東京と一番違うとこだと思う」
「非効率だよ、それ」
「そうかもな」
拓海はあっさり言った。
それから、少し考えてから続けた。
「でも、非効率でも、誰かを傷つけない方法として選んでる部分もあると思う。地方の組織って、人間関係が濃いから、無視して押し通すと、後でずっと残るんだよ。東京みたいに、合理的に切り捨てて次に行く、ってのが難しい規模感の社会だから」
「切り捨てる、ね」
「由紀には失礼な言い方だったか。でも、東京はそうじゃん。気に入らなけりゃ引っ越せる、職場変えられる、人間関係リセットできる。ここはそうじゃない。隣の人が、二十年後も隣にいる」
由紀は反論しようとして、やめた。
思い当たることがあった。
東京で「信頼していた後輩」が、いとも簡単に由紀を踏み台にしたのは、関係をリセットできる環境があったからではないのか。
翔太が「合理的」に由紀と別れられたのも、東京という都市が「次」を用意してくれているからではないのか。
由紀はそれを「東京の自由」だと思っていた。
でも今、拓海の言葉を聞くと、「東京の薄さ」という見方もできるかもしれないと思った。
その言葉を聞きながら、自分の反応が「でも非効率は非効率だ」で止まっていることに気づいた。
拓海の話を「そうかもしれない」と受け取る前に、まず「でも」で始める自分がいた。
それは東京で十年間磨いた反射だった。
「最適解を素早く出す」ことを生存戦略にしてきた人間の、身体に刷り込まれた癖。ここではその癖が、むしろ邪魔をしているのかもしれなかった。
午後、由紀は窓の外を見た。
市役所の前の通りに、バスが一台停まっていた。
この路線、一時間に一本しかないことを、昨日、バス停の時刻表で確認していた。
東京なら三分ごとに来るものが、ここでは一時間に一本だ。
その時刻表を見た時の自分の感覚を思い出した。
「不便だな」と思った。
それだけだった。
「なぜ不便なままなのか」「なぜ誰も声を上げないのか」という視線が、ごく自然に出てきた。
でも、それは「東京の目線」だと、今更ながら気づく。
一時間に一本でも、そのバスが来ることで、誰かの一日は成り立っている。
バスを待つ時間に、停留所で誰かと立ち話をする人がいるかもしれない。
「不便さ」の中に、別の何かが息づいているかもしれない——それを、由紀は最初から消してかかっていた。
退勤間際、広報課の課長が由紀の机に来た。
「由紀さん、今日はありがとうございました。仕事の速さには助かりましたが、次の打ち合わせでご提案いただいた『ターゲット』の話、うちの広報誌でどう活かせるか、もう少し一緒に考えてもらえますか。みんな、新しい視点をどう使うか、戸惑ってるだけで、拒否してるわけじゃないので」と言った。
丁寧な言い方だった。
でも由紀には「遠慮がちな言い方で、実は困ってる」というニュアンスが読めた。
迷惑だったかもしれない、今日の自分は。
自分が育った場所を、よそ者の目で見ている。
その事実が妙にむず痒かった。
よそ者でもなく、かといってちゃんとした内側の人間でもなく、どちらの言葉も自分のものとして使えない、中途半端な場所に立っているような。
帰宅する前、由紀はコンビニで電池を買った。
実家に戻って、柱時計の裏を開け、乾電池を替えた。
カチッ、という音がして、針が動き始めた。
夕方の五時三十二分。
針はそこから動き続ける。
昨日まで止まっていた分を取り戻すことはできないが、今から先のことは刻める。
健太がそれを見ていた。
「時計、直したの」
「電池替えただけ」
「ずっと止まってたやつ」
「うん」
健太は少し間を置いてから、「ありがとな」と言った。
礼を言われることだとは思っていなかった。
でも、その一言が、今日一日で受け取った言葉の中で、一番軽くて、一番重かった気がした。
実際には、一日がまだ始まったばかりのような、小さな音だった。




