第22話 空回りの善意
由紀は努力していた。
本当に、心から、努力していた。
それだけは確かだった。
広報課に通い始めて二週間。
由紀はできるだけ自分のペースを抑えるようにしていた。
原稿を一時間で仕上げても、すぐに「どうですか?」と言わず、デスクに置いておく。
打ち合わせで意見が出なくても、すぐに整理して方向性を示そうとせず、お茶を飲みながら雑談に合わせる。
「東京のやり方を持ち込まない」。
それが自分への指示だった。
でも、やらかしてしまった。
最初の失敗は、地域の敬老会の取材だった。
会場は公民館で、お年寄りが三十人ほど集まっている。
広報課の担当職員・村上さんが主に話を聞いて、由紀はメモを取る役だった。
和やかな雰囲気で進んでいたが、途中で、参加者の一人から「最近、スーパーが遠くなって、買い物がしんどい」という話が出た。
村上さんが「大変ですね」と頷く。
他の参加者も「ほんとに、バスも減ったし」「うちは息子が送ってくれるけどね」と続く。
その空気は、由紀には「解決待ち」に見えた。
困っている、だから何かできるはずだ。
その論理が由紀の中で自動的に動き始めた。
東京で、著者の相談を受けた時、問題を見つけたら即座に出口を示してきた。
それが由紀の仕事の型だった。
メモを取りながら、つい口を開いた。
「あの、移動販売の仕組みとか、行政に相談したことはありますか。近年、導入している自治体も多くて、予算の補助制度もあると聞いたんですが」
一瞬、場が静まった。
村上さんが「そうですね、検討中ではあるんですが」と引き取って、話題を元に戻したが、その場の空気は微妙に変わっていた。
お年寄りたちが、由紀の方を少し遠い目で見ていた。
「役所の説明に来た人が来た」という空気になっていた。
さっきまでの、お茶を飲みながらのおしゃべりの延長線上にあった和やかさが、すっと薄くなっていた。
帰り道、村上さんが優しく言った。
「由紀さん、今日はありがとうございました。一つだけ……敬老会って、みなさん、解決してほしくて話してるわけじゃないことが多くて。ただ聞いてほしいんですよ。『分かってもらえた』って思えることが大事なので、提案とかアドバイスは、あまり向いてないかもしれないです」
由紀は「そうですね、失礼しました」と答えた。
頭では理解した。
でも体はまだ、なぜそれがいけないのか、飲み込めていなかった。
二つ目の失敗は、地元の商店街の取材だった。
シャッターが増えた商店街を、何軒かインタビューして回る企画だった。
最初の一軒、乾物屋の老夫婦に話を聞いた後、由紀はつい言った。
「SNSで商品の写真を発信するだけでも、遠方からのお客さんが来ることがあるんです。インスタグラムとか、やったことはありますか」
老夫婦は顔を見合わせた。
「スマホは持ってるけど、写真とか……」と奥さんが言いかけた。
「教えますよ、もし良ければ。撮り方も、発信の仕方も、そんなに難しくないので」
老夫婦は笑いながら「またの機会に」と言った。
その笑顔は、やんわりとした断りの笑顔だった。
由紀にはそれが分かった。
分かった上で、なぜ自分はあれを言ったのだろうと思った。
次の店に移動しながら、由紀は自分の中を観察した。
「役に立ちたかった」のは本当だ。
でもそれ以上に、「何か提案できる自分でいたかった」のかもしれない。
ただ話を聞くだけの自分では、ここに来た意味がない、という焦りがどこかにあった。
それが、間違ったタイミングで口を開かせた。
四軒目の取材を終えた頃、由紀は口数を減らした。
話を聞いて、うなずいて、「それは大変でしたね」「続けてきたんですね」と言う。
それだけにした。
すると不思議と、取材先の人たちがよく喋るようになった。
由紀が「問題を解決しに来た人」ではなく、「話を聞きに来た人」に見えてきたのだろう。
同じ人間が、同じ場所にいるだけで、空気がまったく変わった。
「ただ聞く」。
たったそれだけのことが、こんなに難しいとは、由紀はこの年まで知らなかった。
その日の昼、由紀は広報課の食堂で一人、定食を食べながら、拓海からのLINEを読んでいた。
『今日、どうだった?』
『……またやった気がする。アドバイスしすぎた』
しばらくして返信が来た。
『何を言ったの』
『移動販売の話と、インスタの話』
既読がついて、三十秒ほどしてから返信が来た。
『ああ』
その二文字の「ああ」が、由紀には全部だった。
問題は、言ったことが間違いではないことだった。
移動販売は実際に検討価値がある。
SNSで集客した農家は現実にいる。
由紀のアドバイスは、正論だった。
でも正論が、場の空気を止めた。
なぜか。
しばらく考えた。
答えは一つだった。
タイミングと場所、TPO。
敬老会のお年寄りは、解決を求めていなかった。
乾物屋の老夫婦は、今すぐ何かを変えようとは思っていなかった。
彼らが望んでいたのは、自分たちの話を「そうだね」と聞いてもらうことだけだったかもしれない。
そこに由紀が「解決策を持って」登場したから、空気が固まった。
善意が、相手の話す場所を奪った。
「正論を言うタイミングと場所を選べ」。
これは東京でも当たり前に言われることだ。
由紀もよく知っている。
でも、知っていることと、できることは違う。
由紀の中には、問題を見つけたら即座に改善案を出す、という十年間の筋肉が染み付いていた。
編集者として、著者の原稿の問題点を一秒でも早く指摘してきた。
会議で、判断を出せない場面があれば即座に引き受けた。
その筋肉が、ここでは空回りしていた。
ただ聞けばいい場面で、解決しようとする。
ただ寄り添えばいい場面で、改善を提案する。
それは「親切」ではなく、「相手のペースを踏みにじる行為」だったのかもしれない。
そのことを、誰かに教えられたのではなく、今日、空気が固まる瞬間を何度も体で感じることで、初めて理解し始めていた。
その夜、実家の夕食の後、昭雄と二人でテレビを見ていた。
特に話すこともなく、ただ並んで座っていた。
昭雄はリモコンをいじりながら、時々「ふうん」と言う。
由紀もそれに合わせて、時々「そうね」と言う。
何かを解決しようとしていない時間が、こんなに静かだとは思わなかった。
ふと由紀は、昭雄とこうして並んで座ったのが、いつぶりなのかを考えた。
高校生の頃までは、毎晩こうしてテレビを見ていた気がする。
大学受験の年も、夜遅くに居間に降りてきて、昭雄と無言で見ていたことがあった。
あの頃は、この静かさが息苦しかった。
今は、この静かさにほっとしている。
昭雄が急に言った。
「お前、最近、疲れてるか」
「疲れてるというか……うまくいかないなと思うことが多くて」
「何が」
「自分のやり方が、ここと合わない気がして。仕事の話とかじゃないんだけど、なんか、人の話を聞いてるつもりなのに、つい余計なことを言ってしまって」
昭雄はしばらくテレビを見てから言った。
「お前はむかしから、なんでも早すぎる」
由紀は何も言わなかった。
「早すぎる」は、褒め言葉でも、咎めでもなかった。
ただ、父が三十三年間見てきた娘のことを、一言で言っただけだった。
「子供の頃もそうだったよ。答えが分かったら、すぐ言いたくなる。待てない。それがお前の良いとこでもあるけど、ここじゃ少し損するかもな」
由紀は昭雄の横顔を見た。
普段はほとんど娘の仕事に口を出さない父が、今夜、こんな話をしている。
それが少し意外だった。
意外で、でも、嬉しかった。
それが、今夜一番、由紀に刺さった言葉だった。




