第23話 星降る夜の浜辺
「今夜、空が綺麗だから、来てみるか」
拓海からそう言われたのは、広報課での仕事が終わった金曜の夕方だった。
由紀が「どこへ」と聞くと、「川べり」とだけ答えた。
川沿いの砂浜は、由紀の子供の頃の遊び場だった。
夏に石を投げたり、秋に枯れ葉を踏んだり、何度も来た場所のはずだった。
ただ、夜にここに来たのは初めてだった。
街灯のない場所で、空が想像以上に暗かった。
目が慣れるまでの間、由紀は少し怖いような気持ちになった。
怖い、というより、暗さに慣れていないのだ。
東京では、夜でも空は明るかった。
ビルの灯り、信号の光、コンビニの白い看板——それらが重なって、東京の夜は「暗くない夜」だった。
暗い夜というものを、由紀はほとんど知らなかった。
砂浜に腰を下ろして、しばらく待った。
拓海は何も言わずに隣に座って、缶コーヒーを一本由紀に渡した。
由紀は受け取りながら、上を見た。
目が慣れてくると、少しずつ、星が現れてきた。
一つ、二つ、三つ・・と数えているうちに、由紀はもう数えられなくなった。
いつの間にか、頭上が星で埋まっていた。
端から端まで、どこを見ても星がある。
空の黒さが、星の白さを際立てている。
東京では、空に星があることは知識として知っていた。
でも、こんなふうに見上げた空が、端から端まで星で覆われているのを、生まれてから今夜まで、見たことがなかったと気づいた。
本当に、一度もなかった。
東京の夜は、ネオンと街灯と、建物の輪郭だけで出来ていた。
星は、その隙間のどこかに存在するはずのものとして、由紀の意識の中に、ずっとそのままになっていた。
「あの、四つの星が四角に並んでるの、分かるか」
拓海が指さした。
由紀は目で追った。
確かに、少し大きめの星が四つ、ゆるく四角形を作っている。
「秋の四辺形。ペガスス座の体の部分だ。ペガスス、知ってるか」
「天馬、でしょ。ギリシャ神話の」
「そう。英雄ペルセウスが、海の怪物を倒した時に、その血から生まれたとも言われてる。血から馬が生まれるって、荒唐無稽に聞こえるけど、何か壮絶なものを倒した後にしか生まれない力がある、みたいな話だと思って読むと、面白いんだよな」
由紀は、その四角形をぼんやりと見上げた。
あの星が繋がって、翼ある馬になる。
誰かがそう決めた。
誰かが夜空を見上げて、星と星の間に線を引いて、そこに物語を見た。
「あっちが、アンドロメダ座」
拓海は四角形の右上の星から、斜めに弧を描くように指を動かした。
「ペルセウスに助けられた王女。鎖に繋がれて、海の怪物の生け贄にされそうだったのを、ペルセウスが助けに来た。星座になった後も、ペルセウスとアンドロメダは隣同士に並んでいる。ずっと」
「ずっと、かあ」
由紀は呟いた。
「ずっと隣に並んでいる」という言葉が、今夜は妙に沁みた。
翔太はもういない。
ここに帰ってからの由紀の隣には、誰もいない。
でも、この空の星たちは、神話の中の人物として、永遠に隣り合っている。
それが寂しいような、羨ましいような、ほんの少し可笑しいような、複雑な気持ちだった。
「こっちが、カシオペア」
拓海は北の空に指を向けた。
W字形に並んだ五つの星が、すぐに見えた。
「アンドロメダの母親。自分の娘が世界で一番美しいって自慢しすぎて、海神の怒りを買った。その罰として、北の空を永遠に回り続けてる。落ちることも、完全に沈むこともできずに」
「結構、理不尽な罰だね」
「神話って、大体そういう話。でも、永遠に空を回り続けてる、ってことは、常にどこかから見えてる、ってことでもある。北極星に近いから、一年中見えるんだよな、カシオペアは」
由紀はW字形の星を見た。
永遠に落ちることのできない星。
理不尽な罰を受けながら、それでも一年中空にある。
見方によっては、それは星の中で最も安定した存在だとも言えた。
空が、由紀の知らない言葉で満ちていた。
「あの、ひときわ明るい星は?」
「木星。今の季節は明るくて目立つ。あれは惑星だから、星座を構成しない。ただ、その時々で見える場所が違う。今夜は、やぎ座あたりにいる」
「惑星って、迷う星って書くじゃない」
「そう。古代の人が、決まった場所に留まらずに動く星を不思議に思って、そう呼んだ。でも、実際には惑星は法則通りに動いてる。迷ってるように見えて、迷ってない」
その言葉を聞いた時に、何かがずれた。
迷っているように見えて、迷っていない・・それは、今の自分に当てはめられる言葉じゃないか。東京から逃げてきたように見えて、実は向かうべき方向へ動いているとしたら。
どのくらいの時間が過ぎたか分からなかった。
拓海が言葉を続けるたびに、由紀は黙って空を見ていた。
砂浜の石が少し冷たかった。
川の水音が、遠く低く続いていた。
風がほとんどなく、空だけが際限なく広がっていた。
拓海がまた口を開いた。
「あの、一際白く靄みたいに見えるの分かるか。南の方に斜めに流れてる」
「うん、なんか、雲みたいなやつ?」
「天の川。銀河系の中心方向を見てる。あの光の一粒一粒が全部、星なんだよ。遠すぎて一つ一つは区別できないから、靄に見えてる」
由紀は目を凝らした。
確かに、空の一部がほんの少しだけ白みを帯びている。
言われなければ、ただの薄い雲かと思っていた。
でもあれは全部、星の光だ。
数え切れないほどの星の集まりが、あの白さを作っている。
「天の川って、神話では何だったっけ」
「色々あるけど、ギリシャ神話ではヘラが赤ん坊に乳を与えた時に、こぼれた乳が空に飛び散ってできた、って言われてる。ガラクシアス、銀河という言葉の語源がそこにある」
「乳から星になったのか」
「神話って、身近なものから宇宙を説明しようとしてる。遠い星も、人間の体と繋がってる。そこが好きで」
その言葉が静かに沁みた。
遠い星も、人間の体と繋がっている。
東京でずっと仕事をしていた頃、由紀は宇宙のことも、星のことも、一度も考えたことがなかった。
今夜ここで、初めて、自分のいる場所の大きさを、わずかだけ感じていた。
由紀の目から、涙がこぼれた。
泣きたかったわけではなかった。
悲しかったわけでも、嬉しかったわけでも、なかった。
ただ、これほどの空が、ずっとここにあったのだと気づいた瞬間に、何かが溢れた。
十五年間、東京のネオンの下で、由紀はこの空の存在を忘れていた。
子供の頃、あんなにも当たり前にあった空が、こんなにも遠くに行ってしまっていた。
いや、遠くへ行っていたのは、空ではなく由紀自身だった。
この空は毎晩ここにあった。
この川の音も、この砂の冷たさも、ずっとここにあった。
由紀だけが、見ることをやめていた。
「何もない田舎」と決めつけて、ここを出ていた。
でも、何もなかったわけではない。
由紀が見ていなかっただけだ。
拓海は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。
ただ、隣に座っていた。
しばらくして、由紀は小さな声で言った。
「こんな空、東京では見たことなかった」
「そうか」
「こんなのが、毎晩ここにあったんだね」
「ある。毎晩」
拓海はそれだけ言って、また空を見上げた。
由紀も空を見上げた。
「何もない田舎だ」と思っていた場所に、毎晩、この空があった。
誰も見せてくれなかったわけではない。
由紀が見ようとしなかっただけだった。
それが今夜、初めて、涙になった。
悲しみではなく、見損なっていたものへの、静かな詫びのような涙だった。




