第35話 両親の笑顔
日曜日の夕方。
実家の台所にはトントンとトントンと、軽やかな包丁の音が響いていた。
まな板の上で、母の恵美が採れたてのシイタケと白菜を手際よく切っていく。
母はすっかり体調を持ち直してきていた。
数ヶ月前に小さく見えた母の背中が、今はしゃんと伸びていた。
「由紀、そっちの焼き豆腐も一口大に切ってくれる?」
「はーい。これくらいでいい?」
「ええ、ちょうどいいわ。今日はお肉も少し奮発したのよ」
母が嬉しそうに目元を和ませる。
台所には、昆布と醤油の甘辛い出汁の匂いが漂っていた。
今夜の夕飯は、母の完全快気祝いを兼ねたすき焼きだった。
豪勢な高級料亭の料理ではないけれど、実家で大きな土鍋で家族四人がつつく鍋。
「由紀、包丁使いがずいぶん手慣れたわね」
母が切った野菜を大皿に盛り付けながら、感心したように由紀を見た。
「そう? 源さんの店で野菜の泥落としとか雑用やってたからかな」
「ふふ、源田さんから聞いたわよ。『あのネエちゃん、最初は腰が引けてたが、今じゃ手際よく土間を掃除していく』って。・・東京にいた頃は、お母さんが地元の野菜や煮物を宅急便で送ろうとしても『一人暮らしだし忙しいからいらない』って断ってばかりだったでしょ。だから、こうして一緒に台所に立って料理ができるなんて、夢みたいだわ」
母の何気ない言葉に、由紀は一瞬手を止めた。
東京時代、母から「野菜送ろうか」「体調はどう?」と連絡が来るたび、由紀はどこか疎ましく感じていた。
「忙しいからいい」と冷たくあしらっていた。
実家からの荷物を受け取ると、「東京で一人立ちできていない自分」を突きつけられるような気がしていた。
そんな自分の身勝手な自意識の裏で、母がどれほど切ない思いをしていたか、今になって痛いほど分かった。
「お母さん・・あの時は、意地ばかり張っててごめんなさい」
「いいのよ、過去のことなんだから。こうして今、一緒に美味しいすき焼きが食べられるんだから、それで十分よ」
母は優しく微笑み、由紀の肩をポンと叩いた。
居間の方からは、テレビの相撲中継の歓声と、父の昭雄がぬる燗をつけるために湯を沸かす微かな音が聞こえてくる。
ガラガラと玄関の引き戸が開き、「ただいまー」と健太の声が聞こえた。
「健太、お帰り。ちょうど今、準備ができたところよ」
「お、いい匂い。すき焼きか!」
ジャージ姿の健太が居間に入ってきて、手際よく座卓の上に鍋敷きを置く。
東京にいた頃、由紀の休日は静まり返ったアパートで、一人で冷めたデリバリーの弁当を食べるか、ダラダラとベッドの中で過ごすのが当たり前だった。
家族がそれぞれの手を動かし、同じ夕飯の時間に向かって部屋の中を行き交う。
そんな当たり前の日常の風景が、いまの由紀には何よりも愛おしく思えた。
「よし、じゃあ、お母さんの退院と完全復活のお祝いと、由紀の広報誌の大成功を祝って・・乾杯だな」
居間の座卓の中央に据えられた土鍋から、白い湯気が立ち上っていた。
父の昭雄が、珍しく自分からビール瓶を持ち、みんなのグラスに手酌で注いでいく。
父の手は少し震えていたが、その表情には照れくさそうな笑みが浮かんでいた。
「乾杯!」
小さなグラスが四つ、カチンと重なり合った。
「いただきます!」
健太が真っ先に割り箸を割り、甘辛いタレで煮込まれた牛肉を溶き卵にくぐらせて口に放り込んだ。
「うまっ! やっぱり母さんのすき焼きが一番だな」
「もう、健太ったら。お肉ばかり食べないで、ネギとシイタケもちゃんと食べなさい」
「わかってるって。後で食べるの」
「ダメよ、先に野菜も食べなきゃ」
母と健太のお決まりのやり取りに、由紀と思わず口元を緩めた。
由紀も取り皿に盛られた牛肉と白菜を口に運んだ。
甘辛いタレの味と、シャキシャキとした白菜の甘み、柔らかいお肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「・・すごく美味しい、お母さん」
「そう? よかったわ。由紀、東京にいた頃より少しふっくらして健康的になったわね。帰ってきたばかりの頃は、顔色も悪くて心配だったのよ」
父の昭雄は相変わらず無口だったが、鍋の中から一番柔らかそうな煮込まれたお肉や豆腐を、自分の取り皿ではなく、黙って由紀や健太の取り皿へと箸でひょいひょいと乗せてくれた。
「お父さん、自分も食べなよ」
健太が苦笑すると、父は「俺は野菜で十分だ」とボソリと呟き、照れ隠しにビールを煽った。
不器用だが、温かい父親の優しさがそこにあった。
「そういえばさ、姉ちゃんが東京へ行ってから、家の中のテレビのチャンネル争いがなくなったんだよな」
健太が懐かしそうに笑った。
「昔は日曜の夜、姉ちゃんがドラマ見たいって言って、俺がアニメ見たいって言って、よく喧嘩したろ。姉ちゃんがいなくなってから、チャンネルの奪い合いもなくなって静かになりすぎちゃってさ。あの時は正直、喧嘩相手がいなくて物足りなかったんだよな」
「健太・・そんなこと覚えてたの?」
「覚えてるよ。俺、いつも姉ちゃんに負けて部屋追い出されてたんだからな」
その声にみんなが笑った。
東京時代、由紀は体型維持と効率のために、朝はブラックコーヒー一杯、昼はコンビニのサラダ、夜はウイスキーの水割りだけという生活を続けていた。
痩せこけた体でブランド物の服を着て、自分を「洗練された都会人」に見せかけようとしていた。
だが、いまこうして家族と一緒に温かい手料理を食べ、他愛もない昔話で笑い合っている自分の方が、ずっと人間らしく生きていると思えた。
パチパチと土鍋の中で出汁が煮立つ音が聞こえる。
テレビではバラエティ番組の笑い声が流れており、父は黙ってビールを飲みながら、時折鍋に箸を伸ばしていた。
大げさなイベントも、特別なプレゼントもない。
同じ屋根の下で、同じ温かい料理をつつき、他愛もない会話を交わす。
どこにでもある普通の家族の夕食風景・・。
この普通の風景に辿り着くまで、家族は十五年という長い遠回りをしてきた。
由紀が18歳で上京し、東京の狂乱の中で家族を遠ざけ、健太が一人で実家と両親を背負い、母が倒れ、由紀がボロボロになって帰ってくるまで。
そのすべての傷とすれ違いが、この湯気立つ土鍋を囲む時間の中で、少しずつ、穏やかに溶かされていく気がした。
食事が一段落すると、健太が食器を台所へ運び、由紀がお茶を淹れた。
香ばしいほうじ茶の香りが居間に漂う。
母がお煎餅の袋を開け、「由紀の書いた広報誌ね、近所のおばちゃんたちが『何度も読み返してる』って言ってくれたのよ」と、嬉しそうに由紀を見た。
「本当? お母さん」
「ええ。源さんの記事だけじゃなくて、あの無人駅の時刻表のページね。みんな『言われてみれば、あの来ない汽車を待つ時間って悪くないわよね』って笑ってたわ」
母の言葉に、健太も「俺の役場の同僚も、あの表紙の星空の写真をスマホの壁紙にしてたぞ」と口を挟んだ。
由紀が微笑みながらお茶を飲んでいると、座卓の奥で静かに日本酒の盃を傾けていた父の昭雄が、ぽつりと口を開いた。
「良い記事だった」
いつもは「腹減ったろ」「気をつけていけ」くらいしか喋らない父の言葉に、居間の空気が一瞬だけ静まり返った。
父は少し赤い顔をして、手に持った盃を見つめたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「お前が十五年前に東京へ行くって言った時・・俺は本当は、反対したかったんだ」
由紀はハッとして、父の横顔を見つめた。
「お前は昔から器用で、勉強もできて、自慢の娘だった。だからこそ、こんな何もない田舎に閉じ込めておくのは可哀想だと思った。東京へ行けば、お前の才能がもっと伸びるんじゃないかって・・そう思って、見送ったんだ」
父の低い声が、静かな居間に響く。
「だけどな・・お前が東京へ行ってから、電話の一本もしてこなくなってさ。母さんも俺も、毎日『由紀はちゃんとご飯を食べているか』『辛い思いをしていないか』って、そればかり心配していた。・・寂しかったよ、本当は」
父の一言に、隣にいた母の恵美が小さく頷き、クスクスと笑いながら口を挟んだ。
「お父さんったらね、由紀が18歳で東京へ発ったあの日の夜、この居間で一人で日本酒飲みながら泣いてたのよ。『由紀が行っちゃった』ってねぇ」
「コラ! 余計なことを言うな!」
父が顔を真っ赤にして慌てて制すると、健太と由紀が思わず吹き出した。
「お父さん、泣いてたの?」
「・・酒が目に入っただけだ!」
照れ隠しに大声を出す父の姿に、居間が温かい笑いに包まれた。
父は咳払いをし、真剣な目つきで由紀を見つめた。
「東京でどんなに凄い仕事をしていたとしてもな、お前が笑っていなけりゃ、意味がないんだ。だからな・・お前がボロボロになって帰ってきた時、俺は悲しかったけれど、同時に・・本当はすごく嬉しかったんだよ」
父の手が微かに震えていた。
「お前がこの家に帰ってきてくれて、またこうして一緒にお茶を飲めていることが・・俺は、本当に嬉しいんだ」
由紀の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
涙が視界を滲ませていく。
東京で「何者かにならなければ」「成功しなければ」と自分を追い詰め、実家からの電話を拒絶していた15年間。
実家に帰れば「まだ成功していない自分」を責められると思い込んでいたのは、全部自分の勝手な被害妄想だった。
両親は、由紀が成功しているかどうかなど、一度だって気にしていなかった。
ただ、生きて、笑って、元気に帰ってきてくれることだけを、ずっと待っていてくれた。
隣に座っていた健太が、ふっと柔らかく笑い、由紀の肩を軽く叩いた。
「そうだよ、姉ちゃん。父さんも母さんもさ、姉ちゃんが帰ってきた日、夜遅くに二人で『由紀が帰ってきた』って嬉しそうに話してたんだぜ」
健太は照れくさそうに頭を掻き、まっすぐに由紀を見た。
「最初は俺も気まずかったし、トゲのある言い方もしちゃったけどさ・・もういいんだ。姉ちゃんがこの家で、この町で、笑って生きていてくれればさ。・・姉ちゃん、本当に、おかえり」
気まずさの欠片もない、素直で温かい健太の「おかえり」だった。
由紀は溢れ出る涙を拭うこともせず、何度も何度も頷いた。
「・・うん。ただいま、健太。お父さん、お母さん・・ただいま」
声が震えていたけれど、その顔には心からの感謝の笑顔があった。
父は照れくさそうに「おう」と短く頷き、盃の酒を一気に飲み干した。
母は優しく微笑みながら、由紀の背中を撫でてくれた。
夜が更けていき、テレビからは静かな夜のニュース番組の音が流れていた。
居間の隅では、古い柱時計がボーン、ボーンと、変わらない重く温かい音で八時を告げていた。
家族四人が、同じ部屋で、同じ温もりを分け合いながら、静かに時間を重ねていく。
それは、どこにでもある、なんの変哲もない家族の夜の風景だった。
だが、由紀にとってこの時間は、東京でのどんな華やかな賞賛よりも、どんな成功よりも、かけがえのない宝物だった。
自分には、帰る場所がある。
自分を無条件で受け入れ、愛してくれる家族がいる。
その確かな温もりが、これからの由紀の足元を、強く、温かく照らし続けていた。




