第36話 ホームにて、そして駅舎へ
柔らかい春の風が、無人駅のホームを吹き抜けていく。
駅前の古木に咲き始めた淡いピンク色の桜の花びらが、ハラハラと舞い散り、錆びついた線路の上に静かに落ちた。
由紀は、首から一眼レフカメラを下げた拓海とともに、日当たりのいいホームのベンチに腰掛けていた。
使い古されたベンチの木肌は、長年の風雪に耐えて丸みを帯び、ひんやりとしながらもどこか温かい感触を由紀の身体に伝えてくる。
手元には、新年度のスタートを飾る広報誌「春の駅舎と人々の旅立ち」特集の取材ノートが開かれていた。
壁に貼られた色褪せた時刻表を見上げる。
『上り:7時、9時、13時、16時、19時、21時』
一日、たったの六本。
十八歳の春、片道切符だけを握りしめて上京した日、由紀はこの同じホームから列車に乗り込んだ。
振り返ることもなく、こんな田舎には二度と帰らないと意地を張り、前だけを見つめていたあの頃。
そして数ヶ月前、東京で仕事も恋もプライドも失い、傷ついて逃げ帰ってきた日。
由紀はこの時刻表を見上げて、「なんて不便で、寂れた、死につつある町なんだろう」と絶望的な思いを抱いていた。
三分間隔で電車が来る東京のスピードに慣れきっていた由紀にとって、この一日六本という数字は、町から人が失われていく残酷なカウントダウンにしか見えなかった。
だが、いま目の前にある時刻表は、まったく違った色彩を帯びていた。
本数が少ないからこそ、一本の電車を待つ一時間、二時間の間に、見知らぬ人同士がベンチでみかんを分け合い、挨拶を交わし、日向ぼっこをして過ごす。
時間を機械的に「消費」するのではなく、人と人が温もりを「共有」するための空白の時間。
不便さの中にこそ、人間が人間らしく息をする本当の豊かさがあったのだと、今の由紀は知っていた。
「由紀、次の13時の汽車、もうすぐ来るぞ」
拓海がカメラのレンズを覗き込みながら言った。
「うん。・・なんだか、あっという間だったね、この数ヶ月」
「そうだな。由紀が泥まみれになって金物屋に通い詰めてたのが、なんだかずっと昔のことみたいだ」
拓海がイタズラっぽく微笑むと、由紀も照れくさそうに笑った。
遠くで、カンカンカン、と踏切の音が長閑に鳴り始めた。
山あいのカーブから、二両編成の古いローカル列車が、ガタゴトと穏やかな金属音を響かせながらホームへと滑り込んでくる。
プシュー、とエアーの抜ける音とともにドアが開いた。
降り立ったのは、ほんの数人のお年寄りと、制服を着た地元の高校生たち。
そして・・最後に、大きなスーツケースを片手に引きずりながら、ゆっくりとホームへ降り立つ一人の若い女性の姿が見えた。
年齢は二十代前半くらいだろうか。
仕立てのいい、だが少しシワの寄ったトレンチコートを着て、両手で抱えるように持ったボストンバッグを握りしめている。
その瞳には、見知らぬ場所に降り立った不安と、長旅の疲労と、そしてどこか都会で傷つき打ちのめされたような、切ない翳りが宿っていた。
由紀は息を呑んだ。
その女性の姿に、かつての自分自身の面影が鮮やかに重なった。
十八歳で「こんな田舎にはいられない」と強がって上京した日の自分。
そして、東京で仕事も恋も信じていた人間関係もすべて失い、ボロボロになって居場所をなくし、暗い部屋で一人膝を抱えていたあの頃の自分。
東京のホームで出会った家出少女のミカや、春にこの町を出ていく母校の高校生たちの姿とも重なっていた。
女性は大きなスーツケースを引きずりながら周囲を見回していた。
どこへ向かえばいいのか分からなさそうに、立ち止まったままで。
古い木造の駅舎と、新緑を抱く山々に囲まれた静かな風景を見つめるその瞳には、かつての由紀と同じように「自分はどこへ行けばいいのだろう」「こんな場所で生きていけるのだろうか」という迷いが溢れているように見えた。
由紀は静かにベンチから立ち上がった。
足音が聞こえたのか、女性がハッとしたように振り向き、由紀と視線が交差した。
女性は、体を少し強ばらせた。
由紀は柔らかく、あたたかい微笑みを浮かべた。
作られた営業スマイルではなかった。
泥に塗れて生き直す中で手に入れた、穏やかな笑顔だった。
「こんにちは。良いお天気ですね」
由紀が静かに声をかけると、女性は一瞬ポカンと目を見開いた。
由紀が彼女に向けた言葉は、単なる見知らぬ旅人への挨拶ではなかった。
それは、15年前の自分へ、そして傷つき迷っていた過去の自分へ向けた、許しと抱擁の言葉でもあった。
由紀の温かい眼差しと、飾らない作業着のようなジャケットが羽織られているのを見て、女性の肩の力がふっと抜けたようだった。
「・・こんにちは」
女性の口から、小さな、安堵したような返事がこぼれた。
「大きな荷物ですね。何かお探しですか? 町案内なら、私たちができますよ」
由紀が優しく問いかけると、女性の目元にじんわりと湿り気が差した。
「・・あの、私・・東京から来まして。ちょっと・・疲れてしまって」
「そうでしたか。遠くからようこそ」
由紀は女性の持つ大きなスーツケースの取っ手を、そっと手伝うように支えた。
「この町には、最先端のビルも、賑やかなお店も何もありません。でも・・美味しいお水と、温かいご飯と、綺麗なお星様なら、たくさんありますよ。ゆっくりしていってくださいね」
女性は一瞬言葉を詰まらせた後、深々と頭を下げた。
「・・ありがとうございます」
その小さな感謝の言葉には、長い彷徨の末に、自分を拒絶しない温かい場所にようやく出会えたという深い安堵が満ちていた。
拓海がその光景を、ファインダー越しに静かに切り取った。
カシャリ、とシャッター音が春の空気に響く。
二両編成のローカル列車が、再びガタゴトと音を立てて発車していった。
離れていく汽車の後姿を、春の風と桜の花びらが包み込んでいく。
女性を駅前のタクシー乗り場まで送り届けて見送った後、由紀と拓海は再び誰もいなくなった無人駅のホームに戻ってきた。
茜色に染まり始めた空から、柔らかい夕光がホーム全体をオレンジ色に染め上げていた。
「いい写真が撮れたよ、由紀」
拓海がカメラの液晶画面を見せながら言った。
画面の中には、大きなスーツケースを持った女性に、優しく微笑みかける由紀の姿が映っていた。
その背後には、満開に近づく桜と、力強く立つ山々の姿があった。
「拓海・・ありがとう」
「あの子もきっと、この町で少し休めば、また自分の足で歩き出せるようになるよ。・・由紀がそうだったみたいに」
「うん」
由紀は茜色の線路を遠くまで見つめた。
この町は、過疎化という大きな現実的な課題を抱えている。
一日六本の汽車の本数が急に増えるわけでもないし、シャッター商店街が魔法のように大賑わいに戻るわけでもない。
だが、ここには源さんのように頑固に暖簾を守り続ける人がいて、拓海のように現場で泥を被りながら住民の日常を守る人がいて、健太のように家と親を守り続けてくれた人がいる。
そして、傷ついた誰かが帰ってきた時、「おかえり」と言える温かい場所がある。
由紀は胸の奥に、確かな熱を感じていた。
東京時代、由紀にとって言葉とは「他人に勝つため」「PVを集めるため」の記号でしかなかった。
だがいま、自分には書きたい言葉がある。
この町で泥に塗れて生きる人々の情熱を、人と人とを繋ぐ温もりを、傷ついた誰かの帰る場所を、広報誌という器を通して世界へ届け続けること。
それが、プライドを捨てた由紀の、新しい「生きる仕事」だった。
かつて、東京で挫折してこの町に降り立った時、由紀はここを自分の人生の「終着駅」だと思った。
夢破れ、勝ち組のレースから脱落し、何もできなくなった人間が辿り着く、行き止まりの場所なのだと。
それは大きな間違いだった。
効率や虚栄のプライドを捨て、この町の土に触れ、人の生き様を言葉で紡ぐ中で、新しい自分に生まれ変わった。
ここは、敗北者が行き着く終着駅などではない。
傷ついた人間が本当の自分を取り戻し、新しい人生へと足を踏み出すための、かけがえのない「始発駅」だった。
「拓海」
「ん?」
「私、この町でずっと言葉を書いていくわ。出ていく若者たちにも、傷ついて戻ってくる人たちにも・・いつでもここに『帰る場所がある』ってことを伝えるために」
拓海は由紀を見つめ、力強く深く頷いた。
「ああ。俺も一緒に、この街の灯りを守り続けるよ。・・行こうぜ、由紀ディレクター」
「ふふ、うん!」
二人は背を向け、古い木造の駅舎へと向かって歩き出した。
駅舎の改札を抜けると、夕暮れの街並みが静かに二人を包んでくれた。
実家では今頃、母と父と健太が夕飯の準備をして待っているだろう。
源さんの店からは、今日も香ばしいお出汁の匂いが漂っているだろう。
腕に抱えた取材ノートには、これから出会うたくさんの人々の、温かい生き様を書き留めるための白紙のページが広がっている。
春の風が、由紀の髪を優しく揺らして吹き抜けていく。
自分の足で立つ地面の感触を、一歩一歩確かめるように踏みしめながら、由紀は新しい未来へ向かって、ゆっくりと歩みを進めていた。
電車は少ないけれど、彼女の進む線路には、もう迷いも暗闇もなかった。
ここは、人生の新しい始発駅なのだから。
完




