第34話 交差するレール
役場での一日の仕事が終わり、すっかり日が暮れた頃、拓海が由紀のデスクの横に立ち、キーホルダーを指先でチャリリと鳴らした。
「由紀、今夜ちょっと時間あるか? 連れていきたい場所があるんだ」
「え? どこ?」
「いいから来いって。防寒着、一枚羽織っていけよ」
拓海の運転する軽トラックに乗り込むと、車は街の灯りを離れ、山あいの暗い舗装路を滑るように進んでいった。
助手席の窓を少しだけ開けると、夜の冷たい外気とともに、川のせせらぎと濡れた草木の匂いが吹き込んでくる。
「ねえ、どこへ行くの? 荷台に何か色々積み込んでたけど」
「ふふ、着いてからのお楽しみだ。地元の酒造の『雪解けの原酒』も仕込んできたからな」
拓海が横顔でイタズラっぽく笑う。
かつて十五年前、この道を走っていた頃は、街灯の少ない暗い夜道がただ不気味で、「早くこんな暗闇から抜け出したい」としか思っていなかった。
だが今、車窓から見えるポツリポツリと点在する家々の灯りには、そこで人が暮らし、温かい夕飯を食べ、家族で語り合っているという愛おしい気配が宿っていた。
十五分ほど走り、車が停まったのは、大きな川の堤防の脇だった。
エンジンを切ると、辺りは深い静寂に包まれた。
車のドアを開けて外に出ると、ざざざ、と砂利を踏む足音が静かに響く。
由紀は息を呑んで周囲を見回した。
見覚えのある風景だった。
ここは数ヶ月前、田舎の人間関係や無力感に苛まれ、空回りの善意で孤立しかけていた由紀を、拓海が連れ出してくれたあの川べりの砂浜だった。
「ここ・・あの時の」
「ああ。広報誌の完成と大反響の、二人きりの『祝い上げ』だ」
拓海は軽トラの荷台から折りたたみ式のローチェア二つと、小さなキャンプ用の焚き火台、それに地元の酒造で作られている地酒の四合瓶とぐい呑みを二つ取り出した。
「拓海、本格的ね」
「まあな。あの時は由紀が泣いてばかりで酒どころじゃなかったからな。今日はちゃんと乾杯しようぜ」
拓海の手慣れた手つきで薪を組み、火を熾す。
やがて小さな赤黄色の炎が立ち上がり、乾いた薪がパチン、パチンと心地よい音を立てて爆ぜ始めた。
小さな炎が、二人の顔と周囲の砂浜を柔らかい橙色に照らし出した。
「はい、祝杯だ」
拓海がぐい呑みにトクトクと透明な地酒を注ぎ、由紀に手渡した。
「ありがとう」
二人は小さなぐい呑みをカチンと合わせた。
「広報誌の大成功と、由紀の新しいスタートに。乾杯」
「乾杯!」
お酒を口に含ませると、米の豊かな甘みと芳醇な香りが口いっぱいに広がり、冷えた喉をじんわりと温めていく。
「美味しい・・こんなに美味しいお酒、久しぶりだわ」
「だろ? この山の雪解け水で作られた地酒だ。東京の高級なワインにも負けないだろ」
拓海は焚き火に新しい薪をくべながら、ふっと笑った。
由紀はぐい呑みを手で温めながら、ふと東京時代、元恋人の翔太と過ごしていた夜のことを思い返していた。
西麻布や銀座の洗練されたフレンチやイタリアンで、高価なワイングラスを傾けていた日々。
表向きは優雅で華やかな時間だったが、そのテーブルの上で交わされていたのは、常に「次にどんな大型企画を立ち上げるか」「どんな人脈を作って自分の価値を高めるか」という、計算と緊張に満ちた会話ばかりだった。
翔太からのプロポーズもまた、「お互いの価値を高め合うパートナーシップ」というビジネスの合併のようなものだった。
そこには、互いの弱さや泥臭い痛みを分かち合う余白など、最初から存在しなかった。
だが、いま目の前にあるのは、川べりの砂浜で直火の焚き火に当たりながら、小さなぐい呑みで飲む地酒。
気取る必要も、見栄を張る必要も何もない。
泥まみれの手で汗を流し、傷つきながらも地に足を打って生きている者同士の、素顔の温もりがここにはあった。
二人は火の暖かさを感じながら、しばらく無言で夜空を見上げた。
頭上に広がるのは、息を呑むほど美しい満天の星空だった。
群青色のキャンバスに、白銀の星々がまるで降るようにびっしりと瞬いている。
数ヶ月前、初めてこの場所でこの星空を見た時、由紀は自然の圧倒的な美しさと自分のちっぽけさに涙をこぼした。
あの頃の自分は、東京で傷つき、プライドを打ち砕かれ、どこへ行けばいいのか分からず立ち尽くしていた。
だが、今見上げる星空は違っていた。
星々は変わらずそこに輝いているが、いま由紀の胸にあるのは悲しみでも虚しさでもない。
この町で泥に塗れて生き抜き、自分の居場所を見つけたという、揺るぎない充足感だった。
「拓海」
由紀が静かに呼びかけた。
「ん?」
「あの時・・拓海がこの場所で星座の話をしてくれなかったら、私、きっとまた東京へ逃げ出そうとしてたと思う。自分を嫌って、この町を拒絶したまま、どこかで野倒れになってたかもしれない」
拓海はぐい呑みを傾け、焚き火の炎を見つめたまま言った。
「逃げるわけないさ。お前は昔から、意地っぱりで根性だけはあったからな。・・それに、俺もお前を帰すつもりなんてなかったよ」
「え・・?」
由紀が驚いて拓海を見ると、拓海は照れくさそうに横を向いた。
「・・本当はさ、高校を卒業してお前が東京へ発った日、俺も無人駅のホームの影で見送ってたんだよ」
「拓海が・・?」
「おう。お前は大きなスーツケース転がして、前だけ見て改札を通っていったろ。格好いいなと思う反面、遠くへ行っちゃうんだなって寂しかった。俺もさ・・二十代の頃は、正直迷ってたんだよ」
拓海がポツリと本音を漏らした。
普段はめったに弱音を吐かない拓海の声に、由紀は息を呑んだ。
「地元の市役所に勤めてさ。同級生たちが次々と東京や大阪へ出ていって、都会の華やかな暮らしをSNSなんかに載せてるのを見るたび、胸の奥がザワザワした。『俺はこの狭い町で、死ぬまで道路の舗装や街灯の交換だけやって終わるのかな』って、焦った時期もあったんだ」
拓海は焚き火の火を弄びながら、遠い目をした。
「でもな、二十代の半ば、夜の現場作業の帰りにこの川べりで一人で星を見上げたんだ。その時、気づいたんだよ。都会へ行った奴らがどんなに凄い仕事をしていようが、俺はこの町で生きてる年寄りたちの日常を守ってるんだって。この星空の下で、誰も気づかないような小さな困りごとを解決していくことが、俺の誇りなんだってさ」
拓海の言葉には、この地にしっかりと根を張って生きてきた男が持つ力があった。
「だから・・十五年ぶりに由紀が帰ってきた時、本当はすごく嬉しかった。でも、同時に怖くもあった。『東京で成功した私』っていう重い服を着て、自分を傷つけまいと身構えてるお前を見て、痛々しくてさ。・・お前が本当の自分を取り戻すまで、俺は横で付き合うって決めてたんだよ」
由紀の胸の奥が、温かい熱で満たされていく。
拓海との間に存在しているのは、東京での計算高い損得勘定の恋愛とは次元の違うものだった。
自分の不格好さも、弱さも、失敗もすべて受け止め、同じ土の上で泥まみれになりながら、互いの歩幅を合わせて共に歩んでくれる存在。
甘い恋愛感情を超えた、「この街で共に生き抜いていく」という、命の根底で引き結ばれた同志としての絆だった。
「拓海」
由紀はぐい呑みを置き、深く息を吐き出した。
「私ね、東京で全部失ったと思ってた。仕事も、人間関係も、プライドも・・全部失って、傷だらけで帰ってきたと思ってたの。でも・・違ったのね」
由紀は拓海のまっすぐな目を見つめ返した。
「全部無くしたからこそ、本当に大切なものが見えたの。拓海がいてくれて、源さんがいて、健太や両親がいて・・この町で言葉を紡ぐ仕事に出会えた。私、遠回りして本当によかった」
拓海は一瞬間を置き、ゆっくりと立ち上がった。
焚き火の逆光の中で、拓海の大きなシルエットが、まるで夜空を背負う頑丈な大木のように見えた。
拓海は由紀の前まで歩み寄ると、静かに手を差し伸べた。
「由紀」
「なに?」
「おかえり」
その言葉は、帰郷したばかりの頃に聞かされた不器用な挨拶ではなかった。
由紀の十五年間の苦闘も、挫折も、すべてを受け入れた上での、心からの深い「承認」の言葉だった。
由紀は立ち上がり、差し出された拓海の手に、自分の手をしっかりと重ねた。
拓海の手は、現場仕事で鍛え上げられ、ペンコブや小さな傷跡が無数にある、ゴツゴツと硬く温かい手だった。
そして由紀の手にもまた、源さんの金物店でサビ落としをしてついた擦り傷や爪の油痕が残っていた。
二人の手が重なり合った瞬間、強い体温と実感が、互いの身体へと流れ込んできた。
泥を被り傷つきながらも、逃げずにこの大地を踏み締めて生きてきたという納得感だった。
「・・ただいま、拓海」
由紀の目から、溢れ出る涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
だが、その顔には、これまで見たこともないような、澄み渡った満面の笑顔が浮かんでいた。
十五年前、18歳の春に別々のレールへと分岐した二人の人生。
一人は東京の眩しい光へ向かい、一人は故郷の静かな土に残った。
交わることのないはずだった二つのレールが、十五年の時を経て、この川べりの星空の下で再び交差し、同じ未来へと向かって力強く並走し始めた。
恋人という言葉では括れない。
二人は、この街で生き、この街の灯りを守り続けていく、かけがえのない「同志」となった。
二人は再びローチェアに腰掛け、焚き火に新しい薪をくべた。
爆ぜる火の粉が、夜空の星々へと吸い込まれていく。
「なあ由紀。次号の広報誌、次はどの職人を取材するんだ?」
「豆腐屋の親父さんと、奥の木工職人の源さんのお友達よ。それから・・廃校になった校舎をこれからどう活かしていくか、若者たちの受け皿作りの企画も立ち上げたいの」
「いいね。役場の予算取り、俺も一緒に根回ししてやるよ。俺たちの町を、傷ついた誰かがいつでも『帰りたい』と思える場所にしていこうぜ」
「うん! 拓海、頼りにしてるわ」
川のせせらぎの音と、星々の瞬きに見守られながら、二人は同じ夜空を見上げ、これからの街の未来について、夜が明けるまで静かに語り合い続けた。
二人の行く手に広がる線路には迷いも暗闇もなかった。




