第33話 雪解け
市役所の正面玄関をくぐると、いつもの硬質な廊下の空気が、どこか柔らかく温かいものに変わっている気がした。
「おはよう、由紀さん!」
すれ違った農林水産課のベテラン職員が、満面の笑みで声をかけてきた。
「おはようございます、佐藤さん」
「いやあ、今月号の広報誌、うちの地区の農家連中も大絶賛だよ! 『源さんの記事を読んで泣いた』って言ってる奴もいてさ。今度の秋収穫祭、うちの課の取り組みもぜひ由紀さんの言葉で取材してくれないか?」
「えっ、本当ですか? ぜひ喜んで!」
由紀が笑顔で答えると、佐藤さんは「頼んだよ!」と力強く肩を叩いて去っていった。
地域振興課の執務室に入ると、今度は向かいの福祉課の女性職員が「由紀さん、これ実家のミカン、持ってきたから食べて」とデスクに袋を置いてくれた。
さらに、かつて由紀が「根回しが遅い」「そんな方法じゃ納期にも間に合わないし費用対効果が出ません」と冷酷な正論をぶつけ、会議室を気まずい空気にしてしまった課長までもが、温かいお茶を飲みながら目を細めて話しかけてきた。
「宮沢さん。君が来てくれて、この役場も街も、少しずつ変わり始めた気がするよ。最初は東京のやり方を押し付けられるんじゃないかと身構えていた者もいたが・・君が誰よりも泥まみれになって現場を歩く姿を見て、みんな納得したんだな」
「課長・・」
「それにさ」と、近くの席の同僚がクスッと笑いながら口を挟んだ。
「宮沢さん、帰ってきたばかりの頃はいつも眉間にシワ寄せてピリピリしてて正直怖かったけど、最近はすごく良い顔になったよね。表情が柔らかくなったっていうかさ」
由紀は照れくささに胸の奥がキュッと締め付けられるような感触を覚えた。
帰郷したばかりの頃、由紀はこの役場の中でも完全に浮いていた。
東京の大手出版社で培った「論理」と「効率」を振りかざし、根回しや人間関係を重んじる地方のやり方を「遅れている」と見下していた。
だが、それは他者を見下していたのではなく、自分自身が東京で失敗した傷を隠すために、「私は有能な元ディレクターだ」という重い鎧を誇示していただけに過ぎなかった。
心の周りに「見えない壁」を作り、周囲を警戒してハリネズミのように針を立てていた。
その重い鎧を脱ぎ捨て、不格好な作業着を着て源さんの店で汗を流し、泥まみれになって人と向き合った。
その姿を、役場の人々はずっと静かに見守ってくれていたのだ。
氷が溶けるように、周囲との間にあった壁が少しづつ消え去っていた。
昼休み。
由紀は一人、商店街へと散歩に出かけた。
春の柔らかい日差しが、古いアーケードの隙間から差し込み、舗装された道路をまだらに照らしている。
「あら、由紀ちゃん! ちょっと寄りなさいよ!」
肉屋の軒先から、割烹着を着た名物おばちゃんが手を振っていた。
由紀が歩み寄ると、紙に包まれた揚げたてのコロッケを「はい、お昼の足しにしな!」と強引に手に握らせてくれた。
「おばちゃん、いいの? お金払うわ」
「いいのよ、硬いこと言わないの! それより、広報誌読んだわよ。源さんの頑固な顔が載ってて笑っちゃったけど、文章が本当によくってねぇ。うちの店も昔は賑やかだったこと、思い出して胸が熱くなっちゃった。由紀ちゃん、本当にいい仕事したね」
「ありがとう、おばちゃん・・」
コロッケの熱さと油の香ばしい匂いが、手を通してじんと伝わってきた。
さらに商店街を進むと、今度は豆腐屋の店主が「由紀ちゃん! 今度うちの出来立ての寄せ豆腐食いに来いよ」と声をかけてくれ、奥の古本屋の店主が暖簾をくぐって顔を出した。
「由紀ちゃん、ちょっといいかい」
父・昭雄の昔からの将棋仲間でもある古本屋の店主が、眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
「今朝一番にな、お前のおやじの昭雄がうちに来てさ。『うちの由紀が書いた広報誌、読んでくれたか』って、自慢げに冊子を置いていったんだよ。あの昭雄が、鼻高々に娘の自慢をして回ってるんだ。お前、本当に親孝行したなぁ」
「父さんが……?」
由紀は驚きで胸がいっぱいになった。
家にいる時は無言で酒を飲み、広報誌についても一言も感想を言わなかった父が、陰で自分の書いた記事を自慢して回っていたなんて。
目元がじわじわと熱くなっていくのを止められなかった。
街の誰もが、由紀を「由紀ちゃん」と呼ぶ。
そこには、かつて向けられていた「東京で失敗して逃げてきた娘」という冷ややかな好奇の目は微塵もなかった。
この街で生き、この街の人々の声に耳を傾ける「身内」として、温かく包み込まれている実感があった。
由紀はコロッケを頬張りながら、ふと立ち止まった。
サクサクとした衣の食感と、ホクホクとしたジャガイモの甘みが口いっぱいに広がる。
東京時代、由紀の昼食はいつもデスクの上だった。
1分でも早く次の原稿をチェックするため、コンビニの冷たいおにぎりやサンドイッチを、味も分からずに胃袋に流し込むような毎日だった。
マンションの隣に誰が住んでいるかも知らず、すれ違う人々と目を合わせることもない無機質な都市の冷たさ。
それに比べて、いま自分の周りにあるこの温もりはどうだろう。
買い物のついでに挨拶が交わされ、揚げたてのコロッケが手渡され、身内の自慢話が広がり、誰かの仕事の苦労をみんなで労い合っている。
効率やロジックという物差しでは計れない、人間が人間として息をするための温かい血の通った時間が、ここには流れていた。
午後、広報誌の次号のロケハンを兼ねて、由紀は拓海とともに街の郊外にある川べりの堤防を歩いていた。
堤防の斜面には、菜の花が満開に咲き誇り、甘い春の香りが風に乗って運ばれてくる。
眼下を流れる川には、山々からの雪解け水が満々と湛えられ、キラキラと太陽の光を反射して輝いていた。
遠くで、シャラシャラと心地よい水音が耳に届く。
「はい、喉乾いただろ」
拓海がポケットから温かい缶コーヒーを取り出し、由紀に手渡してくれた。
役場の夕暮れ時に渡してくれたのと同じ、少し香ばしい缶コーヒーだ。
「ありがとう、拓海」
由紀は足を止め、川の向こうに連なる深い山々の稜線を見上げた。
新緑の芽吹きを迎えた山々は、力強い生命の色彩に満ちあふれていた。
「・・綺麗だなあ」
由紀の口から、感嘆のつぶやきが自然とこぼれた。
隣を歩いていた拓海が、缶コーヒーのプルタブを開けながら足を止めた。
「珍しいな、由紀がそんなこと言うなんて」
「え?」
「だって高校生の頃の由紀はさ、『山なんて緑の壁だし、川はお堀みたいで大嫌い』って言ってたろ。こんな田舎の景色なんて、二度と見たくないって顔してた」
拓海の言葉に、由紀は苦笑した。
「そうね・・本当にそう思ってた。あの頃の私には、この山も川も、自分を閉じ込めて外の世界へ行かせないための『檻』にしか見えなかったから」
由紀は風に揺れる髪を耳にかけながら、遠くの稜線を見つめた。
「でも、違ったのね。山も、川も、あの無人駅も・・何も変わってなかった。私を閉じ込めようとしてたわけじゃなくて、ずっと同じ場所で、静かに私を受け止めてくれていただけだったんだわ。・・変わったのは、私の方だったのね」
拓海は優しく目を細め、堤防の草の上にどっかりと腰を下ろした。
「そうだな。景色は最初からずっと綺麗だったよ。由紀が自分の目を塞いでた鎧を外したから、本当の姿が見えるようになったんだ」
拓海はそう言うと、空を見上げた。
「これからの季節、もっと綺麗になるぞ。山はもっと濃い緑になって、夜には川べりにホタルが飛び交う。秋になれば山全体が真っ赤に燃えて、冬には一面の銀世界だ。・・都会にはない、季節の息遣いがここには全部ある」
「うん・・楽しみだな」
由紀も拓海の隣に腰を下ろし、膝を抱えた。
風が菜の花の香りを運んできて、二人の頬を撫でていく。
もうどこへも逃げる必要はないのだという、静かで力強い確信が胸に満ちていた。
競争に追われることも、誰かと自分を比較して焦ることもない。
ただ、季節の移ろいとともに時間を重ねていくことの贅沢さを、由紀は生まれて初めて心から噛み締めていた。
自分を苦しめていた「見えない壁」は、もうどこにも存在しなかった。
夜。
実家の二階の自室。
机の上で、広報誌の次号の企画ノートを開きながら、由紀はペンを走らせていた。
次号のテーマは「この街の職人たち」。
豆腐屋の親父さんや、伝統の木工細工を作る高齢の職人たちの生き様を追いかける企画。
トントン、とノックの音がして、ドアが開いた。
母の恵美が、お茶とお煎餅を載せたお盆を持って入ってきた。
病気からすっかり持ち直した母の顔には、以前のような無理した強がりではなく、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「由紀、夜遅くまでご苦労様。お茶淹れたわよ」
「お母さん、ありがとう。起きてて大丈夫なの?」
「ええ、もうすっかり体調もいいのよ。・・それより由紀、今日スーパーに行ったらね、みんなから『由紀ちゃんの広報誌、本当に素晴らしいね』って褒められてねぇ。お母さん、なんだか誇らしくなっちゃった」
母はそう言って、嬉しそうに目元をほころばせた。
「お父さんもね、口には出さないけど、居間で何回も広報誌を読み返してるのよ。健太も『姉ちゃんはすごい』って言ってるし・・」
「お母さん・・」
由紀は母の手を包み込むように握った。
「私、この町に帰ってきて本当によかった。最初は迷惑ばかりかけて、自分勝手に飛び出していったのに・・みんな優しく受け入れてくれて」
母は首を振って、由紀の手を優しく握り返した。
「ううん。あなたが帰ってきてくれて、この家にまた温かい風が吹き始めたのよ。・・おやすみ、由紀。無理しないでね」
「うん、おやすみなさい、お母さん」
母が部屋を出て行った後、由紀は窓を開けた。
春の夜風が吹き込み、カーテンをふわりと揺らす。
遠くの裏山からは、雪解け水が川へと注ぎ込むシャラシャラという水音が、かすかに響いてきていた。
長かった、凍てつくような冬が完全に終わりを告げたのだ。
東京での挫折、傷ついたプライド、家族とのすれ違い・・凍りついていた心が溶け去り、いま、由紀の胸の中には温かい春の小川のような、穏やかな安堵感が満ちあふれていた。
ここが、私の生きる場所。
ここで、私は誰かの人生を言葉で紡ぎ、人と人をつないで生きていく。
由紀はそっと胸に手を当て、深く満ち足りた息を吐き出すと、静かに明かりを消した。
柱時計のボーン、ボーンという温かい音が、安らかな眠りへと由紀を誘っていた。




