第29話 兄弟、たどる道
ガラガラと引き戸を引くと、土間の奥から出汁と醤油の甘辛い匂いが漂ってきた。
「なんだ、遅かったな」
店内奥の小上がりに腰掛けていた源さんが、ぶっきらぼうに顔を上げた。
使い古された座卓の上には、大きめに切られた大根と豚の角煮が照り良く煮込まれた大鉢と、湯気を立てる豆腐とナメコのお味噌汁、それにどんぶり一杯の白飯が並べられていた。
「すみません、ちょっと長引いちゃって……あ、これ」
由紀が恐縮しながら小上がりに上がろうとすると、後ろから足音が響き、暖簾をくぐって健太が入ってきた。
市役所の上下ジャージ姿の健太は、土間に脱ぎ捨てられた作業靴を見て、少し驚いたように目を丸くした。
「あれ、拓海兄ちゃんもいたんだ」
「おう、健太。お前も座れ。源さんの特製角煮だぞ」
拓海が手招きすると、健太は「お邪魔します」と頭を下げ、由紀の隣に腰を下ろした。
四人で囲む小さな食卓。
源さんは「余り物だ、勝手に食え」と相変わらず無愛想だったが、大根には味がしっかりと染み込んでおり、角煮は口の中でほろりと解けるほど柔らかかった。
「……すごく美味しいです、源さん」
由紀が心から呟くと、源さんはフンと鼻を鳴らして缶ビールを煽った。
「そのネエちゃん、最初は綺麗な服着て上滑りした正論ばかり言ってたがな。この一週間、毎日サビ落としだの掃き掃除だの、文句も言わずに手伝いやがった。まあ、根性だけはあるみてえだ」
源さんの言葉に、健太がハッとしたように由紀の手元を見た。
由紀の爪の間には洗っても落ちない油汚れが残り、手の甲には小さな引っかき傷が幾つもついていた。
東京で「敏腕ディレクター」を名乗っていた頃の、完璧にお手入れされていた手とはまるで違う。
泥臭くこの町で生きようとしている姉の姿を、健太はじっと見つめていた。
「健太、お前ももっと食え。おふくろさんの看病と家のこと、お前一人で抱え込んでただろ」
拓海が健太のどんぶりに角煮を載せると、健太は照れくさそうに「サンキュ」と呟き、黙々と箸を動かした。
「母さんが急に倒れた夜な……救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた時、マジで足が震えたんだよ。父さんはうろたえるばかりだし、俺がしっかりしなきゃって必死で……。あの時、温かい飯なんて食う余裕、全然なかったな」
健太がポツリと漏らした言葉に、座卓の空気が一瞬だけしんと静まり返った。
源さんは黙って缶ビールを傾け、拓海も静かに頷いた。
「東京なんてロクな場所じゃねえがな」と源さんが煙草に火をつけながら吐き捨てた。
「こうして泥に塗れて、顔突き合わせて飯食うのなら、悪くねえだろ」
温かい食事と、飾らない会話。
東京の高級レストランで交わされていた洗練された社交辞令とは正反対の、泥臭くも温かい時間がゆっくりと流れていた。
九時を過ぎる頃、店を辞した四人は店先で解散した。
「じゃあな、拓海兄ちゃん、源さん。ごちそうさまでした」
「おう、気をつけて帰れよ。由紀、明日も八時な」
「はい! おやすみなさい」
拓海と源さんに見送られ、由紀と健太は夜の街並みへと歩き出した。
実家までは徒歩で二十分ほどの距離。
車社会のこの町では、夜の九時に歩いている人間など一人もいない。
街灯がぽつり、ぽつりと点在するだけの静かな通りに、二人の足音が重なって響いていた。
夜の冷気が、火照った頬に心地よい。
「……源さんの煮物、美味しかったね」
由紀が沈黙を破るように話しかけると、隣を歩く健太はポケットに手を突っ込んだまま「うん」と短く頷いた。
「あの頑固オヤジが人に料理振る舞うなんて、聞いたことないよ。姉ちゃん、相当気に入られてるんだな」
「気に入られてるっていうか……必死だっただけよ。最初は本当に追い返されたから」
由紀は苦笑しながら、自分の不格好な手を見つめた。
「東京にいた頃はさ、こんな泥仕事、時給換算したら無駄だって切り捨ててたと思う。でも……手を動かして、汗かいて、泥まみれになって初めて、源さんの頑固さの奥にある優しさが分かった気がする」
健太はしばらく無言で歩いていたが、やがてふっと息を漏らした。
「姉ちゃん、変わったな」
「え?」
「東京から帰ってきたばかりの時はさ、正直近づきにくかったんだよ。背広着て、綺麗な靴履いて、言葉遣いもどこか上から目線で……『私は都会で成功した人間よ』ってオーラが出ててさ。でも、今の姉ちゃんは……昔の姉ちゃんに戻ったみたいだ」
健太の言葉に、由紀の胸がチクリと痛んだ。
二人は今、古いシャッター商店街を通り抜けていた。
由紀たちが小学生の頃は、肉屋や文房具屋、駄菓子屋が並び、夕方には買い出しの主婦や子どもたちで賑わっていた通りだ。
二人がよく夏休みに十円玉を握りしめて買いに行った駄菓子屋の軒先。
今も錆びついたアイスクリームの看板が静かにぶら下がっている。
あの頃、一本のソーダアイスを半分こして分け合った甘い記憶が、由紀の脳裏を掠めた。
だが今は、大半の店のシャッターが下ろされ、オレンジ色の街灯の下で静まり返っている。
「……ねえ、健太。少し遠回りしていかない?」
由紀が足を止め、商店街の角から伸びる緩やかな坂道を指差した。
その坂道を登りきった場所には、月明かりの下で黒々としたシルエットの古い木造の建物があった。
由紀と健太が通っていた小学校。
いまは廃校となった旧校舎だ。
健太は一瞬迷うような素振りを見せたが、「いいよ」と頷き、由紀の隣に並んで歩き出した。
坂道を登るにつれ、眼下に広がる街の灯りが少しずつ小さくなっていく。
廃校のグラウンドのフェンスに身を乗り出した。
夜の風が笹音を立てて吹き抜けていった。
グラウンドの隅には、二人がよく遊んだ古い鉄棒やジャングルジムが、錆びついたまま静かに佇んでいる。
「懐かしいね……ここでよく、健太と鬼ごっこしたっけ」
「俺、いつも姉ちゃんに追いつけなくて泣いてたな」
健太が懐かしむように目を細めた。
だが、その声の奥には、どこか拾い集めきれない寂しさが滲んでいた。
「……姉ちゃんが十五年前に東京へ行った日のこと、覚えてる?」
健太の突然の問いかけに、由紀は息を呑んだ。
「十五年前……」
「うん。俺が十三歳、中学に入ったばかりの春だ。姉ちゃんは大きなスーツケース一つ持って、振り返りもしないで無人駅の改札を通っていった。父さんも母さんも『寂しくなるな』って言いながら、どこか誇らしそうに見送ってた」
健太はフェンスに両手をかけ、暗いグラウンドを見つめた。
「あの時からさ……家の中の空気がガラッと変わったんだよ」
「……空気が?」
「うん。それまで家の中の中心にはいつも姉ちゃんがいた。成績が良くて、立ち回りが上手くて、親の自慢の娘だったからさ。でも姉ちゃんがいなくなって、家の中がすごく静かになった。父さんも無口になったし、母さんも『由紀は東京で頑張ってるかしら』って、そればかり」
健太の言葉は、静かだったが、一つひとつが由紀の心に重く突き刺さった。
「俺さ、本当は高校出たら、県の中心部の専門学校に行きたかったんだ。でも……父さんに『健太、お前が家にいてくれて助かる』ってぽつりと言われた時、あ、俺はここを離れちゃいけないんだって思った。父さんも母さんも、口には出さないけど『由紀は遠くへ行ってしまったから、健太だけは近くにいてほしい』って願ってるのが痛いほど分かったからさ」
「健太……」
「俺はさ、姉ちゃんみたいに勉強ができるわけでもなかったし、特別な夢があったわけでもない。だから地元の役場に就職して、実家に残った。でも……残った俺を見る親の目が、時々すごく重かったんだ。『由紀は東京で立派にやってるのに』って言われてる気がしてさ。誰もそんなこと口に出さないけど、勝手に自分でプレッシャー感じてた。姉ちゃんが自由に外の世界へ飛び出していった分、俺が両親の老いや、家のことや、親戚付き合いを全部背負わなきゃいけないんだって。……自由に出て行った姉ちゃんが、正直、ずっと羨ましかった」
健太の声が微かに震えていた。
長年、胸の奥に澱のように溜めてきた感情を、少しずつ手放していくように。
「母さんが倒れた時もさ……連絡取れない姉ちゃんに、本当は一番怒ってたんだ。『なんでこんな大切な時にいないんだよ』『東京の仕事の方が、家族より大事なのかよ』って。何十回も電話して、メッセージ送っても既読すらつかなくてさ……あの夜、病院の暗い廊下で一人で誓約書にサインしながら、本気で姉ちゃんを恨んだよ」
由紀は言葉を失った。
涙が視界を滲ませた。
東京で「成功すること」だけに執着し、両親からの電話を避けていた自分。
まだ何者にもなれていない自分を突きつけられるのが怖くて、保身のために家族を遠ざけていた自分。
その身勝手なプライドの裏で、十三歳だった弟がどれほどの重荷を一人で背負い、どれほどの傷を負っていたのか。
由紀は一度だって考えたことがなかった。
由紀は震える手を伸ばし、フェンスを握りしめている健太の手に重ねた。
かつて自分より小さく華奢だった弟の手は、今では日焼けし、ゴツゴツと逞しく大きな大人の手になっていた。
自分がいなかった十五年という年月の重さが、その手の感触から痛いほど伝わってきた。
「……ごめんね」
由紀は声にならず、小さく絞り出した。
「ごめんね、健太……私、自分のことばかりで……東京で負け犬になるのが怖くて、虚栄心ばかり膨らませて……健太やご両親に、どれだけ寂しい思いをさせてたか、全然気づいてなかった……」
ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
東京でどれだけ傷ついても泣かなかった由紀が、自分の身勝手さに打ち打ちのめされて泣いていた。
すると、隣で静かに話を聞いていた健太が、ふっと柔らかい息を吐いた。
「……もういいよ、姉ちゃん」
健太が重ねられた由紀の手を、軽く握り返した。
「え……?」
「最初は恨んでたし、帰ってきた時も気まずかった。でもさ……姉ちゃんが帰ってきて、母さんの病院に毎日通って、父さんの話を聞いて、源さんの店で泥まみれになって働いてるのを見てたらさ……ああ、姉ちゃんも東京で、いっぱい傷ついて戦ってきたんだなって分かったんだ」
健太は照れくさそうに頭を掻き、夜空を見上げた。
「さっきさ、拓海兄ちゃんに『お前一人で抱え込んでただろ』って言われて、ハッとしたんだ。俺、ずっと『俺だけが損してる』って被害者ぶってたのかもしれない。でも違ったんだよな。俺は、姉ちゃんが帰ってくる場所を守ってたんだ」
「健太……」
「姉ちゃんが東京で疲れた時に、いつでも『ただいま』って帰ってこられるように。実家を守って、親の側に残ってたんだって……今日、拓海兄ちゃんと姉ちゃんが話してるのを聞いて、ようやく思えたんだ」
健太の瞳には、湿り気と、どこか吹っ切れたような澄んだ光が宿っていた。
「自由に出て行った姉ちゃんが羨ましかった。でも……本当は、姉ちゃんが帰ってくる日を、俺が一番待ってたんだと思う。だから……うちへ帰ってきてくれて、ありがとな、姉ちゃん」
由紀は溢れ出る涙を拭おうともせず、何度も、何度も頷いた。
「うん……ただいま、健太。ただいま……」
十五年間、ずっとすれ違い、解けることのなかった姉弟の確執が、月明かりの下で静かに解けていった。
由紀が東京で求めていた「成功」や「承認」は、こんなにも近く、温かい場所にあったのだ。
自分は何かを得るために東京へ行ったのではなく、大切なものに気づくために、遠回りしてここへ戻ってきたのだと思った。
二人は再び並んで歩き出し、坂道をゆっくりと下り始めた。
夜空には、満天の星々が変わらず静かに輝いている。
街灯の少ない暗い道だったが、二人で歩く足元は明るく照らされているように思えた。
実家の窓の橙色の灯りが、すぐそこに見え始めていた。




