表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/36

第30話 寄り添う歩幅

 翌朝、午前八時。

 朝の引き締まった空気が漂う中、由紀はいつも通り作業着の袖を捲り上げ、源田金物店の引き戸を開けた。


「おはようございます!」

 お腹の底から出した明るい声に、作業台で古い鋸を研いでいた源さんが、チラリと視線を向けた。

 いつもの「帰れ」という怒鳴り声は飛んでこない。

 源さんは無言のまま顎をしゃくり、店の奥を指し示した。

「……土間の奥に、昨日届いたボルトの箱が積んであんな。分類しとけ」

「はい!」


 由紀は元気に返事をし、竹箒を手に取って土間へと足を踏み入れた。

 昨夜、弟の健太と廃校のグラウンドで心を通わせ、「ただいま」と言えた余韻が、今も胸の奥を温かく満たしていた。

 自分を守るための重い鎧を脱ぎ捨てた身体は、驚くほど軽かった。


 九時を回った頃、ガラガラと再び引き戸が開く音がした。

「失礼します」

 入ってきたのは、首から一眼レフカメラを下げ、大きな取材ノートを小脇に抱えた拓海だった。

 いつもの市役所の作業服ではなく、私服のネルシャツにチノパンというラフな格好をしている。


 由紀は箒の手を止め、目を丸くした。

「拓海? どうしたの、その格好……仕事は?」

「今日は振替休日取ったんだよ。地域振興課の公務としてじゃなく、個人として由紀の広報誌作りに付き合うためにさ」

 拓海は少し照れくさそうに笑いながら、カメラのレンズキャップを外した。

「由紀一人じゃ、源さんの頑固な顔写真も撮れないだろ? 俺がカメラマン兼、助手だ。最高の記事作ろうぜ」

「拓海……」


 由紀の胸がキュッと温かくなった。

 東京にいた頃、失敗した自分を庇ってくれる同僚など一人もいなかった。

 だが今、目の前には、自分の熱量に寄り添い、歩幅を合わせて共に歩んでくれる幼馴染がいる。


「おいおい、勝手に人の店で盛り上がってんじゃねえよ」

 作業台の奥から、源さんが呆れたような声を上げた。

 しかし、その声には初日のような拒絶の棘はなかった。

 源さんは研ぎ終えた鋸を丁寧に布で拭うと、低い声で呟いた。


「……ネエちゃん。いつまで掃除やってんだ。ノート持ってきたんだろ。奥へ入れ」

 由紀と拓海は思わず顔を見合わせた。

「源さん……それって」

「取材だよ、取材! 何回も言わせんじゃねえ。三日ボーズで逃げ出すかと思ってたら、油まみれになって一週間通い詰めやがって……覚悟は本物みたいだからな。話してやるよ。俺の、この店の話」

 源さんはそう言うと、煙草の箱をポケットに放り込み、店の奥へと続く暖簾をくぐった。


 通されたのは、店の奥にある四畳半の小さな作業場だった。

 壁には整然と吊るされた無数の古い工具や、手書きの棚卸し表が並んでいる。

 その一角の古い棚に、白黒のセピア色に変色した額入りの写真が飾られていた。

 写真の中に写っていたのは、溢れんばかりの人波で賑わう商店街と、その真ん中で若い男たちが威勢よく神輿を担いでいる姿だった。

 その中央で、ハチマキを締めて眩しそうに笑っている若い男、それが、五十年前の源さんだった。

 そしてその隣で、照れくさそうに肩を組んでいるのは、若き日の由紀の父・昭雄だった。


「……父さんだ」

 由紀は思わず写真に顔を近づけた。

 寡黙で多くを語らない父が、こんな風に全身で太陽のような笑顔を見せていたなんて。

「おう。昭雄と俺はな、小中学校からの腐れ縁だ」

 源さんは座布団にどっかりと腰を下ろし、煙草に火をつけた。

 紫煙が天井の木目にゆらゆらと昇っていく。


「半世紀前……この町はな、木材と炭の出荷で景気が良くて、山から下りてくる作業員や仕入れの商人で溢れてたんだ。この商店街もな、朝から晩まで人が途切れねえ。肉屋の揚げたてのコロッケの匂いと、魚屋の掛け声と、子どもたちの走る足音で、毎日がお祭りみたいだった」

 源さんの遠い目には、かつての賑やかな街の風景が鮮やかに投影されているようだった。

「俺も昭雄も、親父の代から店を継いでさ。『俺たちの代で、この町を世界一面白い町にしてやる』って、夜遅くまでこの部屋で酒呑みながら熱く語り合ったもんだ。あの頃はな、明日が来るのが楽しみで仕方がなかった」


 由紀は息をひそめ、源さんの一言一言をノートに書き留めた。

 行政の統計データには絶対に載っていない、生きた人間の記憶。


「だけどな……時代が変わった」

 源さんの声が、少しだけ低く沈んだ。

「昭和の終わり頃から、山仕事が廃れて、人が少しずつ減り始めた。さらにバイパス沿いに東京資本のデッカいショッピングモールができただろ。車を持ってる若い奴らはみんな向こうへ流れていって、この商店街からはあっという間に人影が消えた」

 源さんは指に挟んだ煙草の灰を、古い灰皿にトントンと落とした。


「一軒、また一軒とシャッターが下りていったよ。隣の豆腐屋の親父が廃業した時も、向かいの文房具屋が看板を下ろした時も……俺は何もできなかった。『今までありがとうな』って言いながらシャッターを下ろすあいつらの背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった」

 握りしめた源さんの拳が、微かに震えていた。

「悔しかったよ。歯痒かった。時代遅れだの、非効率だの言われて、俺たちが汗水垂らして守ってきた暮らしが、巨大なモールや都会の波に飲まれて消えていくのがさ……。そのうち、この町からは若者がいなくなり、学校も統合され、汽車の本数も減っていった。この町はな、ゆっくりと殺されていったんだ」

 作業場に、重い沈黙が流れた。

 拓海は無言でカメラを構え、源さんの使い込まれたゴツゴツとした手と、壁の写真に静かにレンズを向けた。

 由紀は胸が締め付けられる思いだった。

 十五年前、自分が「何もない不便な田舎」と切り捨てて逃げ出したこの町で、源さんや父たちは、消えゆく街の灯りを必死で守ろうと、悔しさと戦い続けていた。


「……源さん」

 由紀は意を決して尋ねた。

「周りの店が次々とシャッターを下ろしていく中で……源さんはどうして、店を閉めなかったんですか? 儲けだって、厳しかったはずなのに」

 源さんは煙草を灰皿で消し、ゆっくりと顔を上げた。

 その鋭い瞳の奥に、消えることのない小さな情熱の火が宿っていた。


「……ここに来りゃな、『何とかなる』って顔してやってくるお年寄りがいるからだよ」

「え……?」

「バイパスのモールにゃな、綺麗な服や最新の家電は売ってるが、三十年前のトラクターの特殊なボルトなんて置いてねえ。親から譲り受けた古い包丁を研いでくれる職人もいねえんだよ。うちのお客さんはな、みんな腰の曲がったお年寄りばかりだ。『源さん、これ直せるかい』『このネジ、同じの探してくれ』って、すがるような目で店に入ってくる」

 源さんは膝を叩き、力強く言い放った。


「商売なんてのはな、儲けの計算だけじゃねえんだよ! この町で生きてる人間の『困った』を助けることだ。俺がシャッターを下ろしちまったら、あのお年寄りたちはどこへ行けばいい? 古い道具を捨てて、買い直せってか? そんな寂しいことできるかよ!」

 源さんの熱い言葉が、狭い作業場にビンビンと響き渡った。

「俺がこの店を開け続けてんのはな、意地じゃねえ。この町への恩返しだ。たとえ商店街がシャッター街になろうが、一日六本しか汽車が来なかろうが……『ここに行けば、源がいる』っていう安心感を、この町に残しておきたいんだよ。俺がシャッターを閉めたら、この通りの灯りが、また一つ完全に消えちまうだろ」


 由紀の目から、溢れ出そうになる涙が零れた。

 言葉が出なかった。

 これが、この町で泥に塗れて生き抜いてきた男の矜持だった。

 効率やロジック、損得勘定だけで動いていた東京での自分がいかに浅はかだったか。

 源さんは、商売を通してこの町の人々の「帰る場所」を守り続けていた。


「……源さん」

 由紀はノートを胸に抱きしめ、源さんの目を真っ直ぐに見つめた。

「私、伝えます。源さんがこの店で守ってきたもの、この町への想い……上滑りした綺麗な言葉じゃなく、源さんの生き様そのものを、広報誌に書きます。この町を出て行った若者たちにも、これから出て行く子たちにも、そして今ここで生きてる人たちにも……届く記事にします!」

 源さんは一瞬間を置き、照れくさそうに鼻を鳴らした。

「……フン。大口叩きやがって。へぼい文章書いたら、承知しねえぞ」

「はい! 任せてください!」


 拓海がその瞬間、ファインダー越しに小さく微笑み、カシャリとシャッターを切った。

 レンズの向こうには、照れ隠しに横を向く源さんと、涙を拭いながら満面の笑顔を浮かべる由紀の姿が収められていた。

 取材を終えて金物店を出た時、空は柔らかな午後の光に包まれていた。


 商店街の通りを、由紀と拓海は並んで歩いた。

「すごい話が聞けたな、由紀」

 拓海がカメラを抱えながら、感極まったように言った。

「ああ……私、今まで何も見えてなかった。この町が静かなのは、何もないからじゃない。源さんみたいな人たちが、静かに、でも熱く街の灯りを守り続けてくれてたからなんだね」

「そうだな。……由紀が泥まみれになって金物屋に通ったからこそ、源さんもあそこまで本音を話してくれたんだと思うぞ」


 拓海はそう言うと、歩幅を緩め、由紀の歩くペースに自然と合わせた。

 由紀はその温かい気配を感じながら、拓海を見上げた。

「拓海、今日は本当にありがとう。カメラマンが拓海でよかった」

「よせよ、照れるだろ。……さあ、最高の記事書くぞ。俺も全力でサポートするからな」

「うん!」


 二人の影が、商店街のアスファルトの上に長く伸びていく。

 焦ることも、背伸びすることもなく。

 二人は同じ歩幅で、踏み出す一歩一歩を確かめるように、静かに歩みを進めていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ