第30話 寄り添う歩幅
翌朝、午前八時。
朝の引き締まった空気が漂う中、由紀はいつも通り作業着の袖を捲り上げ、源田金物店の引き戸を開けた。
「おはようございます!」
お腹の底から出した明るい声に、作業台で古い鋸を研いでいた源さんが、チラリと視線を向けた。
いつもの「帰れ」という怒鳴り声は飛んでこない。
源さんは無言のまま顎をしゃくり、店の奥を指し示した。
「……土間の奥に、昨日届いたボルトの箱が積んであんな。分類しとけ」
「はい!」
由紀は元気に返事をし、竹箒を手に取って土間へと足を踏み入れた。
昨夜、弟の健太と廃校のグラウンドで心を通わせ、「ただいま」と言えた余韻が、今も胸の奥を温かく満たしていた。
自分を守るための重い鎧を脱ぎ捨てた身体は、驚くほど軽かった。
九時を回った頃、ガラガラと再び引き戸が開く音がした。
「失礼します」
入ってきたのは、首から一眼レフカメラを下げ、大きな取材ノートを小脇に抱えた拓海だった。
いつもの市役所の作業服ではなく、私服のネルシャツにチノパンというラフな格好をしている。
由紀は箒の手を止め、目を丸くした。
「拓海? どうしたの、その格好……仕事は?」
「今日は振替休日取ったんだよ。地域振興課の公務としてじゃなく、個人として由紀の広報誌作りに付き合うためにさ」
拓海は少し照れくさそうに笑いながら、カメラのレンズキャップを外した。
「由紀一人じゃ、源さんの頑固な顔写真も撮れないだろ? 俺がカメラマン兼、助手だ。最高の記事作ろうぜ」
「拓海……」
由紀の胸がキュッと温かくなった。
東京にいた頃、失敗した自分を庇ってくれる同僚など一人もいなかった。
だが今、目の前には、自分の熱量に寄り添い、歩幅を合わせて共に歩んでくれる幼馴染がいる。
「おいおい、勝手に人の店で盛り上がってんじゃねえよ」
作業台の奥から、源さんが呆れたような声を上げた。
しかし、その声には初日のような拒絶の棘はなかった。
源さんは研ぎ終えた鋸を丁寧に布で拭うと、低い声で呟いた。
「……ネエちゃん。いつまで掃除やってんだ。ノート持ってきたんだろ。奥へ入れ」
由紀と拓海は思わず顔を見合わせた。
「源さん……それって」
「取材だよ、取材! 何回も言わせんじゃねえ。三日ボーズで逃げ出すかと思ってたら、油まみれになって一週間通い詰めやがって……覚悟は本物みたいだからな。話してやるよ。俺の、この店の話」
源さんはそう言うと、煙草の箱をポケットに放り込み、店の奥へと続く暖簾をくぐった。
通されたのは、店の奥にある四畳半の小さな作業場だった。
壁には整然と吊るされた無数の古い工具や、手書きの棚卸し表が並んでいる。
その一角の古い棚に、白黒のセピア色に変色した額入りの写真が飾られていた。
写真の中に写っていたのは、溢れんばかりの人波で賑わう商店街と、その真ん中で若い男たちが威勢よく神輿を担いでいる姿だった。
その中央で、ハチマキを締めて眩しそうに笑っている若い男、それが、五十年前の源さんだった。
そしてその隣で、照れくさそうに肩を組んでいるのは、若き日の由紀の父・昭雄だった。
「……父さんだ」
由紀は思わず写真に顔を近づけた。
寡黙で多くを語らない父が、こんな風に全身で太陽のような笑顔を見せていたなんて。
「おう。昭雄と俺はな、小中学校からの腐れ縁だ」
源さんは座布団にどっかりと腰を下ろし、煙草に火をつけた。
紫煙が天井の木目にゆらゆらと昇っていく。
「半世紀前……この町はな、木材と炭の出荷で景気が良くて、山から下りてくる作業員や仕入れの商人で溢れてたんだ。この商店街もな、朝から晩まで人が途切れねえ。肉屋の揚げたてのコロッケの匂いと、魚屋の掛け声と、子どもたちの走る足音で、毎日がお祭りみたいだった」
源さんの遠い目には、かつての賑やかな街の風景が鮮やかに投影されているようだった。
「俺も昭雄も、親父の代から店を継いでさ。『俺たちの代で、この町を世界一面白い町にしてやる』って、夜遅くまでこの部屋で酒呑みながら熱く語り合ったもんだ。あの頃はな、明日が来るのが楽しみで仕方がなかった」
由紀は息をひそめ、源さんの一言一言をノートに書き留めた。
行政の統計データには絶対に載っていない、生きた人間の記憶。
「だけどな……時代が変わった」
源さんの声が、少しだけ低く沈んだ。
「昭和の終わり頃から、山仕事が廃れて、人が少しずつ減り始めた。さらにバイパス沿いに東京資本のデッカいショッピングモールができただろ。車を持ってる若い奴らはみんな向こうへ流れていって、この商店街からはあっという間に人影が消えた」
源さんは指に挟んだ煙草の灰を、古い灰皿にトントンと落とした。
「一軒、また一軒とシャッターが下りていったよ。隣の豆腐屋の親父が廃業した時も、向かいの文房具屋が看板を下ろした時も……俺は何もできなかった。『今までありがとうな』って言いながらシャッターを下ろすあいつらの背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった」
握りしめた源さんの拳が、微かに震えていた。
「悔しかったよ。歯痒かった。時代遅れだの、非効率だの言われて、俺たちが汗水垂らして守ってきた暮らしが、巨大なモールや都会の波に飲まれて消えていくのがさ……。そのうち、この町からは若者がいなくなり、学校も統合され、汽車の本数も減っていった。この町はな、ゆっくりと殺されていったんだ」
作業場に、重い沈黙が流れた。
拓海は無言でカメラを構え、源さんの使い込まれたゴツゴツとした手と、壁の写真に静かにレンズを向けた。
由紀は胸が締め付けられる思いだった。
十五年前、自分が「何もない不便な田舎」と切り捨てて逃げ出したこの町で、源さんや父たちは、消えゆく街の灯りを必死で守ろうと、悔しさと戦い続けていた。
「……源さん」
由紀は意を決して尋ねた。
「周りの店が次々とシャッターを下ろしていく中で……源さんはどうして、店を閉めなかったんですか? 儲けだって、厳しかったはずなのに」
源さんは煙草を灰皿で消し、ゆっくりと顔を上げた。
その鋭い瞳の奥に、消えることのない小さな情熱の火が宿っていた。
「……ここに来りゃな、『何とかなる』って顔してやってくるお年寄りがいるからだよ」
「え……?」
「バイパスのモールにゃな、綺麗な服や最新の家電は売ってるが、三十年前のトラクターの特殊なボルトなんて置いてねえ。親から譲り受けた古い包丁を研いでくれる職人もいねえんだよ。うちのお客さんはな、みんな腰の曲がったお年寄りばかりだ。『源さん、これ直せるかい』『このネジ、同じの探してくれ』って、すがるような目で店に入ってくる」
源さんは膝を叩き、力強く言い放った。
「商売なんてのはな、儲けの計算だけじゃねえんだよ! この町で生きてる人間の『困った』を助けることだ。俺がシャッターを下ろしちまったら、あのお年寄りたちはどこへ行けばいい? 古い道具を捨てて、買い直せってか? そんな寂しいことできるかよ!」
源さんの熱い言葉が、狭い作業場にビンビンと響き渡った。
「俺がこの店を開け続けてんのはな、意地じゃねえ。この町への恩返しだ。たとえ商店街がシャッター街になろうが、一日六本しか汽車が来なかろうが……『ここに行けば、源がいる』っていう安心感を、この町に残しておきたいんだよ。俺がシャッターを閉めたら、この通りの灯りが、また一つ完全に消えちまうだろ」
由紀の目から、溢れ出そうになる涙が零れた。
言葉が出なかった。
これが、この町で泥に塗れて生き抜いてきた男の矜持だった。
効率やロジック、損得勘定だけで動いていた東京での自分がいかに浅はかだったか。
源さんは、商売を通してこの町の人々の「帰る場所」を守り続けていた。
「……源さん」
由紀はノートを胸に抱きしめ、源さんの目を真っ直ぐに見つめた。
「私、伝えます。源さんがこの店で守ってきたもの、この町への想い……上滑りした綺麗な言葉じゃなく、源さんの生き様そのものを、広報誌に書きます。この町を出て行った若者たちにも、これから出て行く子たちにも、そして今ここで生きてる人たちにも……届く記事にします!」
源さんは一瞬間を置き、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……フン。大口叩きやがって。へぼい文章書いたら、承知しねえぞ」
「はい! 任せてください!」
拓海がその瞬間、ファインダー越しに小さく微笑み、カシャリとシャッターを切った。
レンズの向こうには、照れ隠しに横を向く源さんと、涙を拭いながら満面の笑顔を浮かべる由紀の姿が収められていた。
取材を終えて金物店を出た時、空は柔らかな午後の光に包まれていた。
商店街の通りを、由紀と拓海は並んで歩いた。
「すごい話が聞けたな、由紀」
拓海がカメラを抱えながら、感極まったように言った。
「ああ……私、今まで何も見えてなかった。この町が静かなのは、何もないからじゃない。源さんみたいな人たちが、静かに、でも熱く街の灯りを守り続けてくれてたからなんだね」
「そうだな。……由紀が泥まみれになって金物屋に通ったからこそ、源さんもあそこまで本音を話してくれたんだと思うぞ」
拓海はそう言うと、歩幅を緩め、由紀の歩くペースに自然と合わせた。
由紀はその温かい気配を感じながら、拓海を見上げた。
「拓海、今日は本当にありがとう。カメラマンが拓海でよかった」
「よせよ、照れるだろ。……さあ、最高の記事書くぞ。俺も全力でサポートするからな」
「うん!」
二人の影が、商店街のアスファルトの上に長く伸びていく。
焦ることも、背伸びすることもなく。
二人は同じ歩幅で、踏み出す一歩一歩を確かめるように、静かに歩みを進めていった。




