第28話 帰る場所を作る仕事
役場の四階にある地域振興課の窓からは、茜色に染まりゆく街並みが一望できた。
夕日が山端に沈みかけた。
谷間に広がる田畑も、蛇行する川のすじも、すべてが淡い紫と橙色のグラデーションの中にゆっくりと溶け込んでいく。
東京のオフィスビルで見ていた夕焼けは、高層ビルの隙間に切り取られた硬くて短い光だった。
ここでの夕暮れは、まるで世界全体が深く息を吐き出しながら夜の仕度を整えていくかのように、静かで雄大だった。
古いスチールデスクの上には、昼間母校の高校で録音したICレコーダーと、取材ノートが一冊開かれたままになっていた。
『何もないっすよ、ここには』
『息苦しいんです。可愛い服を買ったって、着て出かける場所もないし、誰にも見てもらえない』
『三分間隔で電車が来るんでしょ? ここは一本逃したら次は三時間後とかザラで……時間が止まってるみたいで、自分だけ置いてけぼりにされてる気がして焦るんです』
再生ボタンを押すまでもなかった。
高校生たちの切実な声が、静まり返った執務室にリフレインしていた。
由紀はペンを握ったまま、重い息を呑み込んだ。
東京時代、大手出版社での校了間際は、いつも狂乱の中にあった。
深夜過ぎまで続く会議、デスクに積み上がった校正紙、冷めきった缶コーヒー、そして何より「数字」と「PV」と「売上」に追われる日々。
一本の電車の遅延に苛立ち、効率と成果だけを叩き込まれてきた十五年間。
だからこそ、目の前のノートに残された高校生たちの言葉が、過去の自分自身の叫びと完全に重なって聴こえた。
何もない田舎を忌み、ネオンと高層ビルが輝く都会へ飛んでいきたいと渇望していたあの頃の自分。
彼らの眼差しにあった、ここではないどこか遠くへ行きたいという熱量と苛立ち。
それを痛いほど知っている。
「……溜息つくにしては、少し早すぎないか」
低い声がして、由紀は顔を上げた。
向かいのデスクから、拓海が缶コーヒーを二本手に持って歩み寄ってくるところだった。
ネイビーの作業服の袖を肘まで捲り上げた拓海は、片方の缶を由紀のノートの横にことりと置いた。
微かな金属音が、静まり返りつつある部屋に響く。
「ありがとう。……拓海、まだ残ってたの?」
「これの整理だよ。限界集落の用水路補修と、倒木のおそれがある街灯の撤去要望。年寄りばかりの地区だと、球切れ一つ交換するのも一苦労だからな」
拓海は自分のデスクの上にある、茶封筒やファイルが山積みになった場所を顎でしゃくった。
市役所の地域振興課というのは、華やかな町起こしのイメージとは程遠い。
日々寄せられる住民の地道な困りごとに耳を傾け、泥に塗れて現場を回る仕事。
「で、どうだったんだ。母校の高校生たちの取材」
拓海がパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。
ほんのりと缶コーヒーの香ばしい匂い。
彼が日常的に纏っている土と外気に晒された独特の香りが漂った。
由紀はノートの端を指先でなぞりながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……うん。みんな、春になったら東京や大阪へ出て行くって言ってた。ここには何もない、息苦しい、遊ぶところも電車もないって」
言いながら、胸の奥が引き絞られるように痛んだ。
「分かってはいたのよ。私だって十五年前、まったく同じ理由でこの町を逃げ出したから。でも……いざ自分が取材する側になって、彼らの真っ直ぐな本音を聞くと、なんだか打ちのめされたような気分になっちゃって。広報誌で『町の魅力』を伝えようとしてる今の自分が、すごく空回りしてるんじゃないかって思えてくるの」
拓海は缶コーヒーのプルタブを静かに引き開け、ひとくち口に含んだ。
由紀を追及するような鋭さはなく、ただ彼女が抱え込んでいる言葉を、深い沈黙とともにじっと受け止めていた。
「引き止めたいのか?」
「え……?」
「その高校生たちを、この町に引き止めたいのかって聞いてんだよ」
拓海の静かな問いかけに、由紀は息を詰まらせた。
「引き止める……? ううん、そんなこと、できるわけないじゃない。若い子たちが外の世界を見たいと思うのは当たり前だし、都会で揉まれる経験は絶対に必要だと思う。それを『田舎に残れ』なんて言うのは、大人の身勝手な押し付けよ」
「だとしたら、何に落ち込んでるんだ」
拓海は肘を膝につき、少し体を乗り出した。
「外に出ていく若者を止めることなんてできやしない。俺たちがどんなに『この町は自然が豊かだ』『人が温かい』って声を大にしてアピールしたところで、あいつらにとっては目の前の山は自分を閉じ込める壁に見えるし、一時間待つ汽車は遅行便にしか見えないんだ。それは当たり前の感情だろ」
「そうだけど……じゃあ、私は何のために記事を書くの? 出ていくことが決まってる若者たちに、この町の魅力を伝えて、一体何になるのよ」
由紀の声に、抑えきれない焦りと迷いが混じった。
東京での十五年間。
由紀にとっての「言葉」や「編集」とは、ターゲットである読者を動かし、購買行動を起こさせ、数字という成果を出すための「効果的なツール」だった。
人の意識を変えられない記事、行動を起こさせない言葉は、すべて「無価値」だと叩き込まれてきた。
だからこそ、出ていく若者の足を止められない広報誌に、どんな意味があるのかが分からなくなっていた。
拓海はしばらく黙って、窓の外の暮れなずむ空を見つめていた。
彼の横顔を、西日の残光が柔らかく照らしている。
普段は役所の現場仕事で日焼けした逞しい顔つきだが、こうして静かに空を見上げている時の拓海には、どこか遠くの星々を見つめる少年のような、澄んだ静寂が宿っていた。
「由紀」
拓海が静かに名前を呼んだ。
「俺が天体観測好きなのは、知ってるだろ」
「え? うん、星の神話とか、星座の名前とか詳しいって言ってたわね」
「昼間はな、太陽の光が強すぎて、空に星があることなんて誰も気づかない。本当はそこには何千、何万の星がずっと浮いてるのに、眩しすぎる光のせいで消えてるように見えるんだ」
拓海は缶コーヒーを両手で包み込みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「若い頃の都会ってのは、その太陽みたいなもんだ。高層ビルのネオン、たくさんのショップ、刺激的なイベント、何者かに変われるかもしれないっていう期待……それらが眩しすぎて、自分の足元にある静かなものなんて、見えなくなっちまう。あいつらが『何もない』って言うのはな、本当に何も無いんじゃなくて、強すぎる光のせいで目が見えなくなってるだけなんだよ」
由紀は拓海の言葉に引き込まれ、息をひそめてその横顔を見つめた。
「じゃあ……夜が来たら?」
「そう」と拓海は深く頷いた。
「都会の眩しい光の中で夢中になって走り続けて、傷ついて、挫けて、疲れ果てて……ふと立ち止まった時に、夜が来る。周りが真っ暗になって、自分がどこに向かって走ってたのか分からなくなっちまった時、初めて人は足元や空を見上げるんだ」
拓海は視線を窓から外し、まっすぐに由紀の目を見た。
その瞳には、嘘や誤魔化しのない、どこまでも深い誠実さが宿っていた。
「その時に、帰れる場所があるかどうかだ」
胸の奥で、カチリと小さな音がした気がした。
「傷ついた時に『帰りたい』と思える場所が、あの山や川の向こうに変わらず残っているか。温かい味噌汁の匂いや、来ない電車を待つ無駄な時間や、不器用だけど自分を心配してくれる人間関係が、変わらずにそこにあるかどうかが問題なんだよ」
「……帰る場所……」
「若者を引き止めるのが、俺たちの仕事じゃない。あいつらが何年後か、あるいは十数年後かに、都会の光に疲れて立ち止まった時、『ああ、あの町はあんなに静かで綺麗な空があったな』って思い出せる場所を守り続けること。そして、いつでも『おかえり』って言える灯りを点し続けておくこと……それが、俺たちがこの町で生きていく理由だろ」
拓海の言葉が、冷えた水が乾いた土にじんわりと染み通るように、由紀の胸の深部まで浸透していった。
呼吸が、浅くなっていたことに気づいた。
由紀の脳裏に、東京での出来事が走馬灯のように駆け巡った。
信頼していた後輩の玲奈に企画のアイデアを奪われたこと。
保身に走った上司の堂島にすべての責任を被せられ、左遷されたこと。
恋人だった翔太から「お前の本当の傷は埋められない」と言われ、結婚の話も白紙になったこと。
仕事も、プライドも、信じていた人間関係もすべて失い、暗い部屋で一人膝を抱えて震えていた夜。
もし、あの時。
自分の故郷が、帰る場所のないところになっていたら。
実家の古い柱時計が止まり、父の無言の塩おむすびや、弟・健太の不器用な出迎えがなかったとしたら、自分はどうなっていただろう。
帰る場所があったからこそ、自分は今、こうして生きて、泥に塗れながらも地に足をつけられている。
「……そっか」
気がつくと、由紀の口から細い息とともに言葉がこぼれていた。
「引き止めるんじゃないんだね」
「ああ」
「あの子たちが、いつか都会の夜に迷った時に……遠くからでも見える『灯台』みたいなものを、作っておけばいいんだ」
由紀は自分の両手を見つめた。
指先には、源さんの金物店で一週間泥まみれになってついた、小さな切り傷や洗いきれない黒い油の痕が残っている。
東京にいた頃の綺麗にお手入れされたシルクのような爪とは程遠い、不格好な手。
だが、今の由紀はこの手を、以前よりもずっと好きになった。
効率も成果も捨て、泥に塗れて初めて掴んだ生の感覚が、この手にはしっかりと刻まれている。
由紀はペンを握り直し、開かれたノートの白紙のページに向き合った。
広報誌の次号企画タイトル。
これまで考えていた『若者の流出防止と地域の課題』という、無味乾燥で上から目線な行政風のタイトルを、一本の線で迷いなく消した。
そして、新しいタイトルをゆっくりと、力強く書き付けた。
『うちへ帰る日 私たちがここで灯し続けるもの』
拓海が横からその文字を覗き込み、ふっと口元を緩めた。
「いいタイトルだな」
「でしょう? 元・敏腕ディレクターの腕を舐めないでよ」
由紀が少しだけ悪戯っぽく胸を張ると、拓海は声を立てて笑った。
初対面の頃にあったような、棘のある探り合いはもうどこにもなかった。
二人の間には、同じ町で泥を被りながら生きていく者同士の、静かで固い絆が芽生えていた。
「じゃあ、由紀ディレクター。今夜は源さんの店で飯食っていくか? 健太も呼んでさ」
「えっ、源さんのところで?」
「源さんがな、『あのネエちゃん、塩おむすびばかり食ってて身体壊すぞ』って心配して、大根と角煮の煮物作って待ってるらしい」
拓海の言葉に、由紀は思わず目を見開いた。
あの頑固で、最初は「帰れ」と怒鳴り散らしていた源さんが、自分のために煮物を作ってくれている。
胸の奥から、じんわりと熱いものがこみ上げてきた。
プライドを捨て、泥まみれになって汗を流したあの一週間。
何一つ無駄ではなかった。
「……うん! 行く。健太にもLINEしてみるわ」
由紀はスマホを取り出した。
ずっとぎこちないやり取りしかできていなかった健太へメッセージを打ち込んだ。
『今夜、源さんの店で拓海と一緒に晩ご飯食べるんだけど、健太も来られる?』
送信ボタンを押すと、ほんの数秒で「了解。すぐ行く」と短く既読がついた。
素っ気ない返事の裏にある弟の優しさに、由紀の口元が自然とほころんだ。
由紀はノートを丁寧に閉じ、鞄に収めた。
役場を出ると、外の空気はひんやりと心地よく澄んでいた。
見上げた夜空には、拓海が言っていた通りの満天の星々が、静かに力強く輝き始めていた。
都会の強い光の中では決して見えなかった星々。
それはまるで、この町で静かに息づく人々の一人ひとりの営みそのもののだった。
由紀は深く息を吸い込み、冷たい空気を胸いっぱいに満たした。
自分の進むべき足元が、今、はっきりと見えていた。




