第27話 美しい風景と若者たちの切符
風が、渡り廊下を吹き抜けていく。
チョークの粉と古い床ワックスの匂いが入り混じった、甘酸っぱくも埃っぽい香り。
由紀は十五年ぶりに、母校である県立高校の敷地に足を踏み入れていた。
広報誌の次号企画「町を離れる若者たちの声」を取材するためだ。
小高い丘の上に建つこの学校からは、町全体が一望できた。
眼下には太陽の光を反射してきらきらと光る川が蛇行している。
その周囲にはパッチワークのように色とりどりの田畑が広がっている。
そしてそれらをぐるりと囲むように、新緑に燃える深い山々が連なっていた。
息を呑むほど美しい風景だった。
まるで一枚の精緻な風景画のように、完全な調和をもってそこにある。
由紀は十五年前、この同じ場所に立ち、同じ景色を見ていたはずだ。
しかし、それが「美しい」などとは一度も思ったことがなかった。
当時の彼女の目には、この山々は自分を閉じ込める高い壁にしか見えなかった。
うねる川は逃げ道を塞ぐお堀のように感じられていた。
放課後の誰もいない特別教室で、由紀は三人の三年生と向かい合っていた。
進学や就職で、来年の春にはこの町を出ることが決まっている生徒たち。
「皆さんは、この町の景色や暮らしについて、どう感じていますか?」
由紀はICレコーダーを机に置き、できるだけ柔らかい声で尋ねた。
今の自分なら、この風景の価値が痛いほどわかる。
無意識のうちに、彼らからも「自然が豊かで良いところです」という答えが返ってくることを期待していた。
しかし、一番端に座っていた男子生徒が、窓の外の山を一瞥して、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……何もないっすよ、ここには」
その言葉は、由紀の胸の奥にある古い記憶の扉をノックした。
「何もない……?」
「はい。遊ぶところもないし、コンビニだって自転車で二十分もかかる。夜になれば真っ暗で、星しか見えない。息苦しいんです」
隣の女子生徒も深く頷いた。
「そうそう。それに、どこに行っても誰かの知り合いで、すぐに噂が広まるし。お小遣い貯めて可愛い服を買っても、着ていく場所がないんです。だから私、早く東京に行きたい。東京なら、何でも揃ってるし、誰も私のことなんて気にしてない自由があるじゃないですか」
「それにさ」と、もう一人の男子が口を挟む。
「電車だって、一本逃したら次は三時間後とかザラだし。東京って、三分間隔で電車が来るんでしょ? マジで信じられない。ここは時間が止まってるみたいで、自分が置いてけぼりにされてる気がして焦るんです」
ここには何もない。
息苦しい。
東京に行きたい。
彼らの口から次々とこぼれ落ちる不満の言葉。
まるで十五年前の由紀自身がそこに座って喋っているかのようだった。
何もない田舎を憎み、ネオンと高層ビルが輝く東京に憧れたあの頃。
高校を卒業した由紀は、振り返ることもなく、片道切符を握りしめて上京した。
自分は特別な人間になれると信じて疑わなかった。
この町にいる限り、自分の価値は誰にも理解されないと思い込んでいた。
目の前にいる若者たちの瞳は、あの頃の自分と同じように、見えない未来への希望と、現状に対する苛立ちでギラギラと光っていた。
「……そうね。東京には、本当に何でもあるわ」
由紀は静かに微笑んで答えた。
彼らの言葉を否定することはできなかった。
彼らの見ている景色は間違っていない。
若さゆえの渇望を満たすには、この町はあまりにも静かで、あまりにも狭すぎるのだ。
インタビューを終え、生徒たちを見送った後、一人で教室の窓辺に立った。
彼らが「息苦しい」と見下ろしていた風景の向こう側、谷を挟んだ対岸の斜面に、古い木造の建物が見えた。
隣町の分校舎。
少子化の影響で来年の春には廃校になり、取り壊されることが決まっているという話を、つい先日役場で聞いたばかりだった。
学校を後にし、帰りがけに町に一つしかない無人駅に立ち寄った。
古い木造の駅舎。
改札などなく、錆びついた切符回収箱がポツンと置かれているだけ。
壁に貼られた色褪せた時刻表を見上げる。
『上り:7時、9時、13時、16時、19時、21時』
一日、たったの六本。
高校生が言っていた通りだった。
東京での十五年間、三分間隔でホームに滑り込んでくる電車に乗った。
時には一本見送ってでも座席を確保するという生活を当たり前のように送ってきた。
三分遅れただけで「遅延」としてイライラし、舌打ちをする大人たちの中で生きてきた。
改めて目の前の「一日六本」という数字を突きつけられると、めまいがするような落差を感じる。
十五年前は、この時刻表をただ「不便だ」としか思わなかった。
だが、東京のスピードを知ってしまった今の目には、この数字が、町から少しずつ人の気配が失われていくという、静かな「死へのカウントダウン」のように見えた。
何もない。
確かに、彼らの言う通りかもしれない。
この町には、最先端のファッションビルも、深夜まで開いているカフェも、何者かになれるチャンスも、ない。
物理的なモノも、刺激的な情報も、圧倒的に不足している。
その時。
駅の待合室のベンチに、腰の曲がった老婆と、ランドセルを背負った小学生の男の子が座っているのが見えた。
二人は血の繋がった祖母と孫ではないようだった。
老婆が持っていたみかんを半分に割り、男の子に手渡していた。
「次の汽車まで、まだ一時間もあるねえ」
「うん。でも宿題ここでやっちゃうから平気」
二人は、来ない電車を焦って待つのではなかった。
来ないからこそ生じた「空白の時間」を、日向ぼっこをしながら楽しそうに共有していた。
三分間隔の東京の駅では、隣に座った見知らぬ誰かとみかんを分け合うことなどありえない。
誰もが自分のスマートフォンの画面を見つめている。
他人の領域に踏み込まないように透明な壁を作っている。
由紀はハッとした。
「何もない」ということは、決して「欠落」ではない。
高いビルがないからこそ、空はどこまでも広く、星が降るように見える。
電車が来ないからこそ、同じベンチに座った人と会話が生まれ、みかんを分け合う温もりが生まれる。
娯楽がないからこそ、移り変わる山の色彩や、川のせせらぎの音に耳を傾ける余白がある。
東京の人間が便利なモノで埋め尽くしている空間を、この町の人間は「自然」と「人との繋がり」で埋めている。
夕日に照らされた無人駅のホームに立ち、長く伸びた自分の影を見つめた。
あの子たちは、春になれば東京へ行く片道切符を買うだろう。
かつての自分がそうしたように。
彼らの背中を止める権利は誰にもないし、止めるべきでもない。
若い彼らは、一度「何でもある」都会へ出て、傷つき、揉まれ、戦う経験が必要なのだ。
ただ、いつか彼らが都会のスピードに疲れ果て、自分を守る重い鎧に押し潰されそうになった時。
その時、彼らが「帰りたい」と思える場所を残しておくこと。
何もないけれど、何よりも温かいこの風景と、ゆっくりと流れる時間を、変わらずに守り続けること。
上滑りした綺麗事ではなく、泥まみれになってこの町で生き直そうと決めた由紀の新しい「仕事」。
遠くで、カンカンカン、と踏切の音が長閑に鳴り始めた。
春の風が、由紀の髪を優しく揺らして通り過ぎていく。
今はただ、このゆっくりと過ぎていく時間の中に、ずっと身を委ねていたい。
由紀の胸の奥に、深く静かな余韻が広がっていた。




