第26話 泥まみれのプライド
クローゼットの扉を開けると、そこには整然と並べられた「十五年間の成果」が吊るされていた。
仕立てのいいネイビーのジャケット、シワになりにくい上質なシルクのブラウス、センタープレスの効いた細身のパンツ。
東京のオフィス街という競争の激しい戦場で、由紀が身を守るために着込み続けてきた数々の鎧。
それらはどれも美しく、隙がなく、そしてこの町には決定的にそぐわなかった。
源さんの言葉が、耳の奥で何度も反響する。
『泥一つ跳ねてない足で俺たちの生き様を語ろうってのか』
その通りだった。
由紀はこれまで、自分の手を一切汚すことなく、安全で清潔な高台から綺麗な言葉だけを並べて、他人の人生を記事という「コンテンツ」に仕立て上げようとしていた。
その傲慢さを鋭く打ち砕かれた今、目の前にある高級な服たちは、ひどく虚ろな抜け殻のように見えた。
由紀はクローゼットの奥深くを探り、実家に残されたままになっていた古い衣装ケースを引き出した。
防虫剤の匂いとともに現れたのは、高校時代に着ていた色褪せたジャージと、母が畑仕事で使っているダボダボの作業着、そして泥の染みついた古い運動靴だった。
由紀は迷うことなく、シルクのパジャマを脱ぎ捨て、その不格好な作業着に袖を通した。
肩パッドのない、ゆったりとした布地。
脚のラインを完全に隠してしまう太いズボン。
鏡に映った自分の姿は、東京で「敏腕ディレクター」と呼ばれていた面影など微塵もなく、どこにでもいる田舎の不格好な娘そのものだった。
化粧も下地と日焼け止めだけに留め、毎朝丁寧に巻いていた髪も無造作に後ろで一つに束ねた。
正直に言えば、ほんの少しだけ抵抗があった。
自分の中で必死に守ってきた「都会で成功した特別な私」というプライドが、最後の抵抗を見せていた。
だが、由紀はその小さな自意識を、深く息を吐き出すとともに心の底へ押し込んだ。
見栄も、虚勢も、理屈も、もういらない。
相手の懐に飛び込むということは、自分の弱さも不格好さもすべて曝け出すということなのだ。
朝八時。
源田金物店の引き戸の前で、由紀は一度だけ立ち止まった。
中からはすでに、カンカンという金属を叩く音が聞こえてくる。
昨日の今日で、またのこのこやって来た自分を、源さんはどう思うだろうか。
また「帰れ」と怒鳴られるかもしれない。
そんな恐怖が足を引き留める。
(私は、何のためにここに来たの……?)
胸の中で問いかける。
広報誌の企画を成功させるため?
自分の有能さを証明するため?
違う。
そんな薄っぺらい理由じゃない。
由紀は、あの開かない踏切の前で感じた圧倒的な「時間」を思い出した。
この町で生きる人々の、理屈では割り切れない分厚い人生。
それを本当に理解したい。
寄り添いたい。
それは、東京のスピードの中で失いかけていた「誰かの人生を言葉で紡ぐ」という、由紀本来の情熱だった。
由紀は両頬を軽く叩いて気合を入れると、勢いよく引き戸を開けた。
「おはようございます!」
澄ました営業スマイルではなく、腹の底から声を出した、近所付き合いの挨拶。
作業台に向かっていた源さんは、ちらりと由紀を見たが、その不格好な作業着姿に一瞬だけ目を丸くしたように見えた。
しかしすぐに興味を失ったように視線を戻し、再びハンマーを振り下ろす。
「……また来やがったのか。帰れと言ったはずだぞ」
「はい、言われました。でも、今日は企画書は置いてきました」
由紀は鞄を持っていない、空っぽの両手を広げて見せた。
「取材はしません。お話も聞かなくて結構です。その代わり、手伝わせてください」
「はあ? 手伝うだあ? 素人の女の手に負える仕事なんて、ここにはねえよ。お遊びならよそでやれ」
「遊びじゃありません。掃除でも、荷運びでも何でもします。邪魔はしません」
由紀はそう言うと、源さんの返事を待たずに店の隅に立てかけられていた竹箒と塵取りを手に取った。
「勝手にしろ。三日もすりゃ音を上げる」
源さんは呆れたように鼻を鳴らし、再び自分の世界へと没入していった。
それからの日々は、由紀にとって未知の領域だった。
金物屋の土間は、オフィスビルの清掃が行き届いた床とは違う。
掃いても掃いても、隙間から黒い砂埃や鉄粉が湧いてくる。
箒を動かすたびに埃が舞い上がり、汗ばんだ顔や首筋にへばりついた。
掃除が終われば、店先に無造作に積まれた錆びたボルトやナットの仕分け。
油まみれの古い農機具の泥落とし。
どれもこれも、頭を使う必要のない、果てしなく単調で非効率的な肉体労働だった。
東京なら、こんな作業は外注するか、マニュアル化してアルバイトに任せるだろう。
時給換算すれば圧倒的なマイナス。
だが、由紀はその「非効率」にひたすら没頭した。
効率やロジックという考えを頭から完全に締め出し、ただ目の前のサビと泥に向き合った。
三日も経つ頃には、由紀の白かった手には無数の細かな切り傷ができ、爪の間には洗っても落ちない黒い油汚れがこびりついていた。
作業着は泥と油で汚れ、全身の筋肉が慣れない労働で悲鳴を上げている。
夜、風呂から上がって自分の手を見た時、ふと涙がこぼれそうになった。
それは悲しみからではなく、自分の手が初めて「生きるために何かを掴んでいる」ような、泥臭くも確かな実感を伴っていたからだ。
一週間が過ぎた。
由紀はすっかり「源田金物店の見習い」のような顔をして、毎日店に通い詰めていた。
その日の昼下がり、由紀は店の裏手で、父が持たせてくれた「塩おむすび」を頬張っていた。
具もない、ただ塩と海苔だけの素朴なおむすび。
だが、泥まみれになって働いた体には、その強めの塩気が信じられないほど美味しく感じられた。
東京の高級フレンチの繊細なソースでは決して満たされなかった心の空洞が、米の甘みと塩のしょっぱさでじんわりと埋められていく。
虚栄心で膨らんでいた心が、生きる原点のようなシンプルな食事で満たされていくのを感じた。
頬に泥をつけたまま、おむすびを夢中で食べている由紀の姿を、ふと裏口から出てきた源さんが無言で見下ろしていた。
由紀はハッとして立ち上がろうとしたが、源さんは「座ってろ」と顎で制した。
源さんは自販機で買った缶コーヒーを二つ持っており、そのうちの一つを無造作に由紀の膝の上に放り投げた。
「あ……ありがとうございます」
由紀が慌てて受け取ると、源さんは隣のビールケースにどっかりと腰を下ろし、プルタブを開けた。
「……お前、東京じゃ結構いい仕事してたんだろ」
源さんが、一週間目にして初めて、自分から由紀に話しかけてきた。
「ええ、まあ……それなりには」
「それが、こんな泥まみれになって、毎日サビ落としだの掃き掃除だの。馬鹿じゃねえのか」
源さんの言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが、そこには初日のような冷たい棘はなかった。
「馬鹿かもしれません」
由紀は缶コーヒーの温かさを両手で包み込みながら、真っ直ぐに源さんを見た。
「でも、私が東京で着ていた綺麗な服も、使っていた綺麗な言葉も、ここでは何の役にも立たないって気付いたんです。効率ばかり気にしてたら、本当に大切なものを見落としてしまう。泥まみれにならないと、見えない景色があるって」
源さんは鼻で短く笑い、空の彼方を眩しそうに見上げた。
「……午後から、奥のトラクターの解体やるぞ。ボルトのサビ落とし、終わらせとけ」
「はい!」
由紀の返事は、初日のような作られた営業スマイルではなく、泥に塗れた顔に咲いた、不器用だが心からの笑顔だった。
プライドを捨てたわけではない。
守るべきプライドの形が、薄っぺらい虚勢から「泥まみれの自分を誇る」ことへと変わっただけだ。
由紀は缶コーヒーを一気に飲み干すと、残りの塩おむすびを口に放り込み、再び薄暗い土間へと駆け出していった。




