第25話 開かない踏切
翌朝、由紀はいつもより少しだけ遅く目を覚ました。
窓を開けると、どこからか野焼きの煙の匂いが漂ってくる。
東京の朝を支配していた、アスファルトと排気ガスの匂いとは無縁の、どこか懐かしい匂い。
鏡の前で身支度を整えながら、由紀はふと視線を落とした。
ドレッサーの上には、昨日まで彼女の左手首を縛り付けていた銀色の高級腕時計が、冷たい光を放って置かれている。
昨夜、星空の下で拓海に言われた「鎧を脱げ」という言葉が鮮明に蘇る。
由紀は小さく息を吐き、今日からその時計を身につけるのをやめた。
代わりに、実家の柱時計が「ボーン」と鳴るゆっくりとしたリズムを心に刻むように意識した。
だが、十五年間で骨の髄まで染み込んだ「都会の匂い」は、そう簡単に抜け落ちるものではなかった。
リビングに下りると、母が台所で味噌汁の鍋をかき混ぜていた。
出汁の香りがふわりと漂う。
「おはよう、由紀。今日は役場の人と打ち合わせだったっけ?」と母が尋ねる。
「ううん、今日は広報誌の取材交渉。絶対に落とせない大事なアポだから」
由紀はトーストを急いでかじりながら答えた。
その言葉の端々には、やはり「都会でバリバリ働いていた有能な自分」をアピールするような、無意識の力みがあった。
父は新聞から目を上げず、ただ「そうか、気をつけてな」とだけ言った。
昨夜の決意とは裏腹に、まだ家族に対しても、どこかお客様のような、隙を見せない距離感を作ってしまっていた。
朝食のコーヒーを淹れるお湯を沸かす間にも、無意識のうちにトースターのタイマーをセットし、その余った数十秒で新聞の要見出しだけを拾い読みする。
効率的な並行作業。
一分一秒を無駄にしないタイムマネジメント。
頭では「もう焦らなくていい」とわかっていても、体が勝手に効率を求めて動いてしまう。
由紀は苦笑しながら、読みかけの新聞をテーブルに置いた。
その日の午後、町役場が発行する広報誌の目玉企画のため、ある人物のもとを訪ねる準備をしていた。
源田金物店の店主、通称「源さん」。
町で一番の頑固オヤジとして知られる彼は、単なる金物屋の枠を超え、農機具の修理から家の雨漏りまで、町の人々の困りごとを昔から一手に引き受けてきた。
この町の歴史と変遷を誰よりも知る生き字引のような人。
彼へのインタビューを巻頭記事に据える。
単なる「田舎の風景」以上の、この町にしかない「人の営みの分厚さ」をアピールできると考えていた。
準備は完璧だった。
鞄の中には、夜を徹して練り上げた企画書、予想される質問リスト、そして最新型のICレコーダーが整然と収められている。
服装も、相手に失礼のないようにと、ネイビーの細身のジャケットに白のブラウス、そして磨き上げられた黒のパンプスという、東京のクライアント訪問時と変わらない「完璧なビジネススタイル」を選んだ。
時計を外したこと以外は、何もかもがこれまで通りだった。
源田金物店は、シャッターが半分閉まった商店街の外れにあった。
引き戸を開けると、錆びた鉄と機械油、そして古い木材の匂いが鼻を突いた。
店内の壁には、大小様々な金槌、ノコギリ、ペンチといった工具が、幾星霜の油と埃を纏って整然と並べられている。
奥の土間では、農機具の修理待ちの部品が無造作に積まれていた。
薄暗い空間の中心で、白髪交じりの短髪にねじり鉢巻を締めた源さんがいた。
作業台に向かって黙々と鎌の刃を研いでいる。
「シュッ、シュッ」という金属を擦る規則正しい音だけが、静かな店内に響き渡っている。
「ごめんください。突然のお伺いで申し訳ありません」
由紀は背筋を伸ばし、東京で培った最も美しいお辞儀をした。
声のトーンも、営業スマイルも完璧だったはずだ。
源さんは研ぐ手を止めず、チラリと横目で由紀を見ただけだった。
「……広報誌の件で伺いました、由紀と申します。先日、役場の方からお電話でご挨拶させていただいたかと存じますが」
由紀は鞄からクリアファイルを取り出し、よどみない口調で説明を始めた。
企画の趣旨、ターゲット層への訴求効果、町の活性化に繋がるビジョン。
由紀の口からは「シナジー」や「コンテンツの魅力」、「地域資源の再発見」といった、東京の会議室で使い古された横文字のビジネス用語が次々と飛び出した。
いかにこの企画が論理的に正しく、双方にとってメリットがあるかを証明するための完璧なプレゼンテーションだった。
しかし、由紀が話し終えても、源さんは一言も発しなかった。
ただ、刃を研ぐ音だけが冷たく響いている。
数分の沈黙の後、源さんはようやく手を止め、ゆっくりと振り返った。
深く刻まれたシワの奥にある鋭い眼光が、由紀が着ている上質なジャケットのシワ一つない生地や、綺麗に切り揃えられた爪、そして足元のヒールを、まるで異星の生き物を見るように冷ややかに観察していた。
「……あんた、どこの会社のモンだ」
「えっ? あ、いえ、私はこの町に戻ってきまして、今は役場の広報誌の……」
「そうじゃねえ。あんたの頭の中は、まだ東京の会社のまんまだって言ってんだ」
源さんは手に持っていた砥石をドンと作業台に置き、吐き捨てるように言った。
「帰んな」
その声は、錆びた鉄のように低く、冷たかった。
「え……? あの、まだ企画書の詳細を……」
「企画書だか何だか知らねえがな、あんたの言葉は薄っぺらくて上滑りしてんだよ。立派な服着て、綺麗な紙切れ持ってきて、その機械で俺の言葉を録音して……それでこの町の何がわかるってんだ? あんた、この町を『活性化のネタ』として消費しようとしてるだけだろ」
「そ、そんなつもりは……私はただ、源さんの素晴らしいお仕事を皆さんに……」
「口では何とでも言えるさ。だがな、あんたからは『土の匂い』が微塵もしねえんだ。都会の香水振りまいて、綺麗な靴履いて、泥一つ跳ねてない足で俺たちの生き様を語ろうってのか。笑わせるな。上から目線で田舎を切り売りしようって魂胆が見え透いてる。俺はそういう人間が大嫌いなんだ。とっとと帰れ」
痛烈な拒絶だった。
由紀は血の気が引くのを感じた。
反論の言葉を探したが、喉の奥がカラカラに乾いて何も出てこない。
源さんは、由紀が隠し持っていた「都会から来た優秀なディレクター」という無意識の驕りを、残酷なまでに見透かしていた。
「……失礼いたしました」
由紀は逃げるように頭を下げ、店を飛び出した。
外の空気は春だというのに、肌を刺すように冷たかった。
顔から火が出るほど恥ずかしく、ひどく惨めだった。
昨夜、拓海に「鎧を脱げ」と言われ、自分は変わったつもりでいた。
柱時計のリズムで生きようと決心したはずだった。
なのに、いざ仕事となると、無意識のうちに「完璧なビジネスウーマン」という都会の鎧を重装備してしまっていた。
見栄えの良い企画書。
綺麗な言葉遣い。
隙のない服装。
すべてが、源さんにとっては「相手を理解しようとしない傲慢さ」にしか映らなかったのだろう。
自分の空回りが、これほどまでに恥ずかしく思えたことはなかった。
ふらふらと当てもなく歩いていると、「カンカンカン」という甲高い音が鳴り響いた。
小さな単線鉄道の踏切だった。
遮断機がゆっくりと下り、行く手を阻む。
由紀は立ち止まり、踏切の前に立った。
東京の山手線なら、数十秒待てば電車が猛スピードで通り過ぎ、すぐに遮断機は上がる。
しかし、この町のローカル線の踏切は、電車がはるか彼方の駅を出た時点で鳴り始めるため、一度下りるとなかなか開かない。
三分が経過した。
五分が経過した。
まだ電車は来ない。
「早く開いてくれ」
「どうしてこんなに無駄な時間を使わせるんだ」
苛立ちがじわじわ湧き上がってきた。
無意識に左手首に視線を落とし、そこに腕時計がないことに気づいてハッとする。
「……私、何やってるんだろう」
由紀は自嘲気味に呟き、深くため息をついた。
この開かない踏切は、源さんの固く閉ざされた心そのもののような気がした。
いくらこちらが「正しい」と急かしても、踏切は電車のペースでしか開かない。
力ずくで遮断機をこじ開けることなどできない。
自分は今、この踏切の前で地団駄を踏んでいるだけの、わがままで浅はかな子供と同じだ。
相手には相手の、この町にはこの町が長年かけて刻んできた、重厚でゆるぎない「時間」がある。
自分の都合の良いタイミングで、理屈や企画書という名の薄っぺらい正論を振りかざして、無理やり心を開かせようとしていた自分が、ひどく愚かで滑稽に思えた。
やがて、遠くからゴトゴトと重たい走行音が聞こえ、二両編成の古い気動車がゆっくりと目の前を通り過ぎていった。
ガタン、ゴトンというのんびりとしたリズム。
車窓の向こうには、高校生や買い物帰りのお年寄りが、のどかに揺られている姿が見えた。
電車が完全に通り過ぎ、遮断機がゆっくりと上がる。
深く深呼吸をした。
胸の奥に残っていた、焦りと苛立ちが、電車の音と共に少しだけ遠ざかっていくのを感じた。
企画書も、完璧なプレゼンも、着飾ったスーツも、ここでは何の意味も持たない。
源さんが言った「土の匂い」。
それは、相手と同じ目線に立ち、泥にまみれ、同じ空気を吸わなければ決して身につかないもの。
由紀は振り返り、源田金物店のある方向を見つめた。
今のままの自分では、あの扉は二度と開かない。
どうすればいいのか。
答えはわかっている。
不要なプライドも、都会の匂いも、すべて捨て去るしかない。
由紀はギュッと拳を握りしめ、ゆっくりと、だが確かな足取りで歩き始めた。




