〇
華北の空は、常に血の匂いを帯びていた。五胡十六国時代の混乱の中、覇者の座を争う者たちの野望が、大地を揺るがしていた。338年、その争いの火種は、一つの鮮卑族の部族に集中していた。
________________________________
虎の咆哮と燕の眼光
華北を支配する後趙の皇帝は、暴君として知られる石虎であった。彼は極めて残忍で傲慢な性格で、己の欲望と権力を際限なく追求し、民衆の苦しみに無関心であった。その強大な軍事力は、周囲の国々(くにぐに)に恐れられていた。
この年の初め、石虎は新たな獲物に目を付けた。遼西の地に勢力を張る鮮卑段部の指導者、段遼である。段遼は乱世の波に抗い続けてきたが、大国の狭間で翻弄(もてあそばれること)されてきた悲運の部族長であった。
「段遼め、度々(たびたび)我が国境を脅かすとは、許せぬ! 奴らを討ち滅ぼせ!」
石虎の号令は、雷鳴のごとく響き渡った。1月、後趙の大軍が段遼の領地である幽州に侵攻を開始した。大地を震わせるほどの軍勢は、怒涛のごとく押し寄せた。
________________________________
燕と虎の共謀
しかし、石虎は単独で動いたわけではない。彼は巧妙な手を打っていた。それは、遼東で新たに「前燕」を建国したばかりの慕容皝との同盟であった。慕容皝は、知略と武勇を兼備えた雄大な指導者で、冷静な判断力と長期的な視野を持ち、着実に勢力を拡大していた。彼もまた、段遼を自国の勢力圏に加える好機と捉えていたのだ。
3月、慕容皝の軍勢もまた、段遼の領土に攻め入った。後趙の脅威に加え、東からも強大な敵が迫る。段遼の軍は、前後から挟み撃たれる形となり、抵抗も虚しく次々(つぎつぎ)と崩れ去っていった。
「もはや、これまでか……」
段遼は、疲弊(疲れ果てること)しきった兵士たちを前に、深く息を吐いた。強大な二つの勢力の挟撃(両側から攻撃すること)には、到底抗いようがなかった。彼は、自らの部族の存続を願い、ついに前燕の慕容皝に降伏することを決意した。
こうして、338年、鮮卑段部は滅亡し、その領土は慕容皝の手に渡った。慕容皝は、この勝利によって前燕の基盤を確固たるものにし、華北の東方に確実な足場を築き上げたのである。一方で、後趙の石虎は、その残虐な統治を続け、さらなる拡大を夢見ていた。
乱世の歯車は、止まることなく回り続けていた。次に倒れるのは誰か、誰が新たな覇者となるのか。人々(ひとびと)は不安と期待を抱きながら、次なる激動を待っていた。
〇
乱世の渦巻く339年、中国の地は三つの大きな思惑に彩られていた。南では東晋が北への夢を抱き、華北では後趙の暴君が牙を剥き、東では前燕が新たな獲物を探していた。
________________________________
南の都、北伐の夢
江南の建康(現在の南京)に都を置く東晋では、有力な政治家である庾亮が、北の異民族を討ち、かつての故地(先祖代々(せんぞだいだい)の土地)を取り戻す「北伐」の計画を練っていた。庾亮は高い理想を抱き、中原(中国の中心地)回復を目指す愛国者だった。
「華北は今や胡族どもが跋扈(わがもの顔に振まうこと)し、民は塗炭の苦しみを味わっておる。我々(われわれ)晋の真の末裔が、彼らを救い、中原に正義の光を取り戻さねばならぬ!」
しかし、彼の熱い言葉とは裏腹に、北伐の実現は容易ではなかった。王敦の乱など、度重なる内乱で疲弊した東晋の国力は、未だ回復していなかったのである。庾亮の理想は高くとも、現実の壁は厚かった。結局、この北伐計画は机上の空論(実際には役に立たない議論や計画)に終わり、陽の目を見ることはなかった。
________________________________
北の猛虎、牙を剥く
その頃、華北に君臨(君主として存在すること)する後趙の皇帝、石虎は、まさに猛虎の如き残忍さで、その支配を広げていた。己の欲望と権力を際限なく追求する暴君は、常に新たな獲物を求めていた。
「南方の晋め、未だ我が威光(権力者の勢い)を知らぬと見える。愚かな奴らに、後趙の強大さを見せつけてやろうぞ!」
石虎の命により、後趙軍は東晋領へと侵攻を開始した。その矛先は、国境に近い廬江の地であった。廬江の守りについていたのは、東晋の廬江太守を務める袁瓌である。袁瓌は職務に忠実で、国のために命を捧げた武人であった。
「何者たりとも、この廬江を越えさせはせぬ!」
袁瓌は、少ない兵を率いて果敢に抵抗したが、多勢に無勢(少い人数では、多い人数に対抗できないこと)であった。後趙軍の圧倒的な物量の波に飲み込まれ、勇敢に戦い抜いた末に、遂に戦死を遂げた。袁瓌の死は、東晋に重い衝撃を与え、石虎の脅威が現実のものとなったことを知らしめた。
________________________________
東の燕、新たな地へ
一方、東方では、前燕の建国者である慕容皝が、新たな勢力を伸ばしていた。彼は知略と武勇を兼備えた雄大な指導者で、冷徹な判断力と長期的な視野を持っていた。
前年に段遼を滅ぼし、遼西の地を手中に収めた慕容皝は、次なる標的として、さらに東に位置する高句麗(朝鮮半島北部から満州にかけて栄えた国)に目を付けた。
「遼西は我がものとなった。次は高句麗だ。奴らの力を削ぎ、我が前燕の威光をさらに東へと広めるのだ!」
慕容皝の命の下、前燕軍は高句麗へと侵攻した。高句麗は勇敢な国であったが、前燕の勢いは止まらなかった。この侵攻は、前燕が今後、華北のみならず、東北アジア(とうほくアジア)へとその影響力を広げていく序章(物事の始まり)となるのであった。
339年、それぞれの思惑を胸に、国々(くにぐに)は動き、血と涙が大地を潤した。五胡十六国時代の混迷は深まるばかりで、人々の安寧(平穏で穏やかなこと)は、未だ遠い先にあった。
〇
乱世の中国は、刻一刻と姿を変える。342年からの数年間もまた、各地で権力の消長が繰り広げられ、未来への種が蒔かれていった。
________________________________
前燕の猛攻と高句麗の苦難
遼東に広がる前燕の宮殿では、知略と武勇を兼備えた雄大な指導者、慕容皝の声が響き渡っていました。彼は冷静な判断力と長期的な視野を持ち、着実に勢力を拡大していく忍耐力と戦略性に長けていました。
「高句麗は、未だ我が前燕の真の力を知らぬと見える。再び兵を向け、その都、丸都城を攻略せよ!」
慕容皝は力強く命じました。すでに一昨年も高句麗へ侵攻していた前燕は、その勢いを増し、隣国への圧力を高めていました。将軍たちは気合のこもった返事をすると、すぐさま準備に取り掛かります。
342年、前燕軍は再び(ふたたび)高句麗へと進軍しました。丸都城は、高句麗の堅固な都であったものの、前燕の猛攻の前ではなすすべもなく、ついに陥落しました。都を追われた高句麗の人々(ひとびと)は、東方へと逃れるより他ありませんでした。
しかし、高句麗は簡単には諦めません。彼らは、一度は失った丸都城を344年には修復し、再び遷都(都を移すこと)します。その不屈の精神は、小国ながらも乱世を生き抜く高句麗の力となっていたのです。
一方、慕容皝の勢いは止まることを知りませんでした。同年344年、前燕は同じ鮮卑の部族である宇文部を併合しました。
「宇文部を我がものとすれば、遼西の地はさらに安定する。これで後趙への備えも万全となるだろう。」
慕容皝の言葉に、将軍たちは力強く頷きました。彼の巧みな外交と軍事力によって、前燕は着実に版図(領土)を広げ、強大な国家へと変貌を遂げていたのです。
________________________________
成漢の衰退と新たな皇帝
時を同じくして、遠く離れた蜀の地、成漢では、運命の転換期を迎えていました。成漢の建国者李雄の甥であり、権力欲が強く、手段を選ばない野心家であった李寿が、343年にその生涯を終えました。彼は李雄の甥である李期を廃して帝位を簒奪(権力を力ずくで奪い取ること)し、一時期は国号を「漢」と改めていました。しかし、簒奪後に賢明な善政を敷いた李雄のような手腕はなく、彼の死によって成漢は衰退の一途を辿ることになります。
李寿の息子、李勢が後を継ぎ、成漢の皇帝となりました。李勢は、時代と勢いの波に逆えず、帝国の滅亡を招いた悲運の君主とされています。即位の儀は厳粛に執り行われましたが、新たな皇帝の表情には、若さゆえの不安と、先代の築いた基盤の揺らぎが見て取れました。
「父上の遺志を受け継ぎ、この成漢をさらに栄えさせねばならぬ。」
李勢はそう呟きましたが、その声には確固たる自信が欠けていました。宮廷の重臣たちも、未来への展望を描けずにいました。成漢の栄華は、すでに過去のものとなりつつあったのです。
東では慕容皝が勢力を広げ、南では成漢が静かに衰え始めていました。五胡十六国の乱世は、それぞれが異なる運命を紡ぎ出し、大いなる歴史のうねりは止まることを知りませんでした。