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灼熱の時代:五胡十六国時代記⑤

〇

乱世(らんせ)の中国(ちゅうごく)は、刻一刻(こくいっこく)と姿(すがた)を変(か)える。344年のこの頃(ころ)もまた、各地(かくち)で権力(けんりょく)の消長(しょうちょう)が繰(く)り広(ひろ)げられ、未来(みらい)への種(たね)が蒔(ま)かれていきました。

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北方(ほっぽう)の嵐(あらし):前燕(ぜんえん)の雄飛(ゆうひ)


北(きた)の大地(だいち)には、厳(きび)しい風(かぜ)が吹(ふ)き荒(あ)れていました。遼東(りょうとう)の地(ち)に根(ね)を張(は)る前燕(ぜんえん)の都(みやこ)では、知略(ちりゃく)と武勇(ぶゆう)を兼(かね)備(そな)えた雄大(ゆうだい)な指導者(しどうしゃ)、慕容皝(ぼよう こう)が天下(てんか)の趨勢(すうせい)(物事(ものごと)の移(うつ)り変(か)わる様子(ようす))を見定(みさだ)めていました。彼は冷静(れいせい)な判断力(はんだんりょく)と長期的(ちょうきてき)な視野(しや)を持(も)ち、着実(ちゃくじつ)に勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)していく忍耐力(にんたいりょく)と戦略性(せんりゃくせい)に長(た)けていました。


344年(ねん)のある日(ひ)、慕容皝(ぼよう こう)のもとに、急使(きゅうし)が駆(か)け込(こ)みました。 「陛下(へいか)! 宇文部(うぶんぶ)にて内乱(ないらん)が勃発(ぼっぱつ)いたしました!」 宇文部(うぶんぶ)とは、前燕(ぜんえん)と同(おな)じ鮮卑族(せんぴぞく)の一派(いっぱ)で、長年(ながねん)にわたる宿敵(しゅくてき)でした。しかし今(いま)、その宿敵(しゅくてき)は内(うち)の争(あらそ)いで疲弊(ひへい)しきっていました。


慕容皝(ぼよう こう)は静(しず)かに地図(ちず)を広(ひろ)げました。そこには、遼西(りょうせい)の地(ち)に広(ひろ)がる宇文部(うぶんぶ)の領土(りょうど)が示(しめ)されています。 「好機(こうき)到来(とうらい)と見(み)るか……」 彼は独(ひと)り言(ご)ちると、側近(そっきん)を呼(よ)び寄(よ)せました。 「宇文部(うぶんぶ)は、今(いま)や疲弊(ひへい)しきっている。この機(き)を逃(のが)す手(て)はない。兵(へい)を整(ととの)えよ。宇文部(うぶんぶ)を併合(へいごう)する。」 併合(へいごう)とは、国(くに)や勢力(せいりょく)を一つ(ひとつ)にまとめることです。 将軍(しょうぐん)たちは迷(まよ)うことなく命令(めいれい)を受(う)けました。前燕(ぜんえん)の兵士(へいし)たちは、高句麗(こうくり)との戦(たたか)いを経(へ)て士気(しき)が高(たか)く、精鋭(せいえい)揃(ぞろ)いでした。電光石火(でんこうせっか)(素早(すばや)いこと)の進軍(しんぐん)により、宇文部(うぶんぶ)は抵抗(ていこう)する間(ま)もなく前燕(ぜんえん)の支配下(しはいか)に置(お)かれました。


この勝利(しょうり)により、前燕(ぜんえん)は遼東(りょうとう)から遼西(りょうせい)にかけての広大(こうだい)な地域(ちいき)を完全(かんぜん)に掌握(しょうあく)(自分(じぶん)のものにすること)しました。慕容皝(ぼよう こう)は満足(まんぞく)げに頷(うなず)きました。 「これで後趙(こうちょう)への備(そな)えも、より盤石(ばんじゃく)になった。次(つぎ)は、華北(かほく)の中原(ちゅうげん)へ向(む)かう時(とき)だ。」 彼の瞳(ひとみ)には、新(あら)たな野望(やぼう)が燃(も)え盛(さか)っていました。


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南方(なんぽう)の芽動(めどう):桓温(かんおん)の登場(とうじょう)


一方(いっぽう)、遥(はる)か南(みなみ)の地(ち)、東晋(とうしん)の都(みやこ)、建康(けんこう)にも、新(あら)しい時代(じだい)の胎動(たいどう)(物事(ものごと)が始(はじ)まろうとする兆候(ちょうこう))がありました。345年(ねん)、一(ひと)りの若(わか)き武将(ぶしょう)が歴史(れきし)の表舞台(おもてぶたい)に姿(すがた)を現(あらわ)します。その名(な)は桓温(かんおん)。強烈(きょうれつ)な野心家(やしんか)であり、己(おのれ)の能力(のうりょく)に絶対(ぜったい)の自信(じしん)を持(も)つ、複雑(ふくざつ)な人物(じんぶつ)でした。


彼はこの年(とし)、荊州刺史(けいしゅうしし)(地方長官(ちほうちょうかん)の一種(いっしゅ))に任(にん)じられました。荊州(けいしゅう)は長江(ちょうこう)の中流(ちゅうりゅう)に位置(いち)し、軍事(ぐんじ)の要衝(ようしょう)(戦略上(せんりゃくじょう)重要(じゅうよう)な場所(ばしょ))でした。桓温(かんおん)は、その地(ち)で着実(ちゃくじつ)に力(ちから)を蓄(たくわ)えていきます。


ある日(ひ)、桓温(かんおん)は自室(じしつ)で、広大(こうだい)な中国全土(ちゅうごくぜんど)の地図(ちず)を眺(なが)めていました。彼(かれ)の視線(しせん)は、遠(とお)く華北(かほく)を支配(しはい)する異民族(いみんぞく)の勢力(せいりょく)と、蜀(しょく)の地(ち)に割拠(かっきょ)(いくつか(いくつか)の勢力(せいりょく)がそれぞれ勢力圏(せいりょくけん)を作(つく)ること)する成漢(せいかん)に注(そそ)がれていました。 「この乱(らん)れた世(よ)を、真(まこと)に鎮(しず)められるのは、我(わが)が力(ちから)のみ……」 彼(かれ)は呟(つぶや)きました。彼の心(こころ)の中(なか)には、東晋(とうしん)の衰退(すいたい)を憂(うれ)い、中原(ちゅうげん)を回復(かいふく)させようとする高(たか)い理想(りそう)と、それを成(な)し遂(と)げるためなら手段(しゅだん)を選(えら)ばない冷徹(れいてつ)な野心(やしん)が混在(こんざい)していました。


「まずは、西(にし)の成漢(せいかん)か……」 桓温(かんおん)はそう考(かんが)えると、筆(ふで)を取(と)り、今後(こんご)の戦略(せんりゃく)を練(ね)り始(はじ)めました。彼(かれ)がやがて成漢(せいかん)を滅(ほろ)ぼす大功(たいこう)を立(た)て、東晋(とうしん)の実力者(じつりょくしゃ)となることは、まだ誰(だれ)も知(し)り得(え)ませんでした。


北方(ほっぽう)では慕容皝(ぼよう こう)が勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)し、南方(なんぽう)では桓温(かんおん)が虎視眈々(こしたんたん)(隙(すき)を狙(ねら)っている様子(ようす))と機会(きかい)を伺(うかが)う。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(じだい)の幕(まく)は、静(しず)かに、しかし確実(かくじつ)に、次(つぎ)の局面(きょくめん)へと進(すす)んでいくのでした。



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歴史(れきし)の波(なみ)は、中国(ちゅうごく)の各(かく)地(ち)で異(こと)なる色(いろ)を帯(お)びていました。華北(かほく)の騒乱(そうらん)とは対照的(たいしょうてき)に、涼州(りょうしゅう)の地(ち)には、秩序(ちつじょ)と安定(あんてい)を求(もと)める動(うご)きがありました。

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西域(せいいき)の光芒(こうぼう):前涼(ぜんりょう)の拡大(かくだい)


345年(ねん)、中国(ちゅうごく)の西北(せいほく)に位置(いち)する涼州(りょうしゅう)は、漢民族(かんみんぞく)の張(ちょう)氏(し)が治(おさ)める前涼(ぜんりょう)の勢力圏(せいりょくけん)にありました。ここを統治(とうち)するのは、張駿(ちょう しゅん)という人物(じんぶつ)です。彼は辺境(へんきょう)の地(ち)で安定(あんてい)した支配(しはい)を確立(かくりつ)し、外交(がいこう)と武力(ぶりょく)を巧(たく)みに使(つか)い分(わ)ける現実主義者(げんじつしゅぎしゃ)でした。


ある日(ひ)、張駿(ちょう しゅん)は、幕僚(ばくりょう)(軍(ぐん)の幹部(かんぶ)たち)を前(まえ)に、一枚(いちまい)の地図(ちず)を広(ひろ)げていました。地図(ちず)には、西(にし)へと伸(の)びる交易路(こうえきろ)と、その先(さき)にある西域(せいいき)の国々(くにぐに)が描(えが)かれています。彼の指(ゆび)が止(と)まったのは、焉耆(えんき)という国(くに)でした。焉耆(えんき)とは、中国(ちゅうごく)の西(にし)の方(ほう)にある、栄(さか)えた国(くに)のことです。


「焉耆(えんき)からの貢物(みつぎもの)(貢物(こうぶつ)とは、目上(めうえ)の人(ひと)に捧(ささ)げる品物(しなもの)を指(さ)します)が途絶(とだ)えて久(ひさ)しい。西域(せいいき)との交易(こうえき)は、我(わ)が涼州(りょうしゅう)にとって死活問題(しかつもんだい)だ。」 張駿(ちょう しゅん)の言葉(ことば)には、辺境(へんきょう)の民(たみ)を支(ささ)える者(もの)としての責任感(せきにんかん)が滲(にじ)んでいました。西域(せいいき)との交易(こうえき)は、前涼(ぜんりょう)の経済(けいざい)を支(ささ)える重要(じゅうよう)な柱(はしら)だったのです。


「陛下(へいか)、兵(へい)を派遣(はけん)し、焉耆(えんき)を降(くだ)すべきです。」 一(ひと)りの武将(ぶしょう)が進(すす)み出(で)て言(い)いました。 張駿(ちょう しゅん)は深(ふか)く頷(うなず)きました。 「うむ。西域(せいいき)の安定(あんてい)なくして、涼州(りょうしゅう)の繁栄(はんえい)はない。直(ただ)ちに軍(ぐん)を編成(へんせい)し、焉耆(えんき)へ向(む)かわせよ。」


前涼(ぜんりょう)の精鋭(せいえい)は、過酷(かこく)な砂漠(さばく)を越(こ)え、焉耆(えんき)へと進軍(しんぐん)しました。焉耆(えんき)は前涼(ぜんりょう)の軍事力(ぐんじりょく)の強大(きょうだい)さに驚(おどろ)き、戦(たたか)うことなく降伏(こうふく)を選(えら)びました。この勝利(しょうり)により、張駿(ちょう しゅん)は「仮涼王(か りょうおう)」を自称(じしょう)します。「仮涼王(か りょうおう)」とは、皇帝(こうてい)ではないけれど、それに匹敵(ひってき)する権力(けんりょく)と地位(ちい)を自(みずか)ら名乗(なの)ったことを意味(いみ)します。これは、彼の支配(しはい)が名実(めいじつ)ともに確固(かっこ)たるものとなったことを示(しめ)す宣言(せんげん)でした。


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涼州(りょうしゅう)の継承(けいしょう):若(わか)き君主(くんしゅ)の挑戦(ちょうせん)


しかし、歴史(れきし)の流れ(ながれ)は止(と)まることを知りません。翌(よく)346年(ねん)、前涼(ぜんりょう)の君主(くんしゅ)の座(ざ)は、張駿(ちょう しゅん)の息子(むすこ)、張重華(ちょう ちょうか)へと受(う)け継(つ)がれます。父(ちち)の事業(じぎょう)を引き継(つ)ぎ、安定(あんてい)的な統治(とうち)を維持(いじ)しようとした堅実(けんじつ)な君主(くんしゅ)である張重華(ちょう ちょうか)は、若(わか)くして重責(じゅうせき)を担(にな)いました。


涼州(りょうしゅう)の都(みやこ)、姑臧(こぞう)(現在の甘粛省武威市(かんしゅくしょうぶいし))は、父(ちち)の代(だい)に築(きず)き上(あ)げられた繁栄(はんえい)を享受(きょうじゅ)(楽(たの)しむこと)していました。街(まち)には西域(せいいき)から来(き)た商人(しょうにん)たちの活気(かっき)ある声(こえ)が響(ひび)き、漢民族(かんみんぞく)の文化(ぶんか)と胡族(こぞく)(異民族(いみんぞく)の総称(そうしょう))の文化(ぶんか)が混(ま)じり合(あ)い、独特(どくとく)の彩(いろどり)を見(み)せていました。


張重華(ちょう ちょうか)は、謁見室(えっけんしつ)で家臣(かしん)たちと語(かた)り合(あ)っていました。 「父(ちち)上(うえ)が築(きず)かれたこの基盤(きばん)を、我々(われわれ)はさらに盤石(ばんじゃく)なものとしなければならない。」 彼(かれ)の言葉(ことば)には、若(わか)き君主(くんしゅ)としての責任感(せきにんかん)と、父(ちち)への敬意(けいい)が込(こ)められていました。 「華北(かほく)の動乱(どうらん)は続(つづ)いておりますが、涼州(りょうしゅう)だけは平穏(へいおん)を保(たも)ち続け(つづけ)たいものです。」 一(ひと)りの老臣(ろうしん)が深(ふか)く頭(あたま)を下げ(さげ)て言(い)いました。


張重華(ちょう ちょうか)は頷(うなず)きました。 「その通(とお)りだ。我々(われわれ)は、民(たみ)の生活(せいかつ)を第一(だいいち)に考(かんが)え、この地(ち)を豊(ゆた)かにせねばならぬ。」 彼は父(ちち)の遺志(いし)を受(う)け継(つ)ぎ、内政(ないせい)(国(くに)の政治(せいじ))の充実に(じゅうじつ)と、西域(せいいき)との交易(こうえき)の維持(いじ)に尽力(じんりょく)しました。これにより、前涼(ぜんりょう)は涼州(りょうしゅう)を中心(ちゅうしん)とする地域(ちいき)で、着実(ちゃくじつ)にその勢力(せいりょく)を広(ひろ)げていったのです。


華北(かほく)の混乱(こんらん)とは別(べつ)の世界(せかい)のように、涼州(りょうしゅう)は張氏(ちょうし)の統治(とうち)の下(もと)、一時(いちじ)の安寧(あんねい)(穏(おだ)やかな状態(じょうたい))を享受(きょうじゅ)していました。しかし、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代(じだい)の波(なみ)は、いつかこの平穏(へいおん)な地(ち)にも押(お)し寄(よ)せるのでしょうか。涼州(りょうしゅう)の未来(みらい)は、まだ誰(だれ)にも知(し)る由(よし)もありません。



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荒(あら)ぶる五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)の波(なみ)は、中国(ちゅうごく)全土(ぜんど)を覆(おお)い尽(つ)くそうとしていました。その中(なか)で、わずかな希望(きぼう)の光(ひかり)を見出(みいだ)そうと、人々(ひとびと)は抗(あらが)い続(つづ)けます。


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南方(なんぽう)の雄(ゆう)、東晋(とうしん)の逆襲(ぎゃくしゅう)


347年(ねん)、江南(こうなん)に都(みやこ)を置(お)く東晋(とうしん)では、一(ひと)りの若(わか)き将軍(しょうぐん)が頭角(とうかく)を現(あらわ)していました。その名(な)は桓温(かんおん)。強烈(きょうれつ)な野心家(やしんか)で、己(おのれ)の能力(のうりょく)に絶対的(ぜったいてき)な自信(じしん)を持(も)つ男(おとこ)です。彼(かれ)は、乱世(らんせ)にあっても晋(しん)の正統性(せいとうせい)を守(まも)り、中原(ちゅうげん)(中国(ちゅうごく)の中心部(ちゅうしんぶ))回復(かいふく)の夢(ゆめ)を抱(いだ)いていました。


桓温(かんおん)の次(つぎ)なる標的(ひょうてき)は、遠(とお)く西(にし)の蜀(しょく)の地(ち)、成漢(せいかん)でした。成漢(せいかん)は、かつて李雄(りゆう)という賢明(けんめい)な指導者(しどうしゃ)によって築(きず)かれた国(くに)でしたが、度重(たびかさ)なる内紛(ないふん)(国(くに)や組織(そしき)の中(なか)で起(お)こる争(あらそ)い)によって、今(いま)や衰退(すいたい)の一途(いっと)を辿(たど)っていました。現在(げんざい)の皇帝(こうてい)は李勢(りせい)。時代(じだい)と勢(いきお)いの波(なみ)に逆(さか)らえず、帝国(ていこく)の滅亡(めつぼう)を招(まね)く悲運(ひうん)の君主(くんしゅ)です。


桓温(かんおん)は、幕僚(ばくりょう)たちを前(まえ)に、力強(ちからづよ)く宣言(せんげん)しました。 「成漢(せいかん)は疲弊(ひへい)(疲(つか)れ果(は)てること)しきっている。今(いま)こそ、晋(しん)の武威(ぶい)(武力(ぶりょく)によって示(しめ)される威厳(いげん))を天下(てんか)に示(しめ)す好機(こうき)である!」 側近(そっきん)の一人(ひとり)が問(と)いました。「しかし将軍(しょうぐん)、蜀(しょく)への道(みち)は険(けわ)しく、兵站(へいたん)(軍隊(ぐんたい)への食料(しょくりょう)や物資(ぶっし)の補給(ほきゅう))の確保(かくほ)も困難(こんなん)を極(きわ)めます。」 桓温(かんおん)は涼(すず)しい顔(かお)で言(い)い放(はな)ちました。「困難(こんなん)であるからこそ、成(な)し遂(と)げた時(とき)の功績(こうせき)は大(おお)きい。兵站(へいたん)の困難(こんなん)は、私(わたし)が解決(かいけつ)する。」


彼(かれ)は自(みずか)ら軍(ぐん)を率(ひき)い、四川(しせん)の険(けわ)しい山々(やまやま)を越(こ)え、成漢(せいかん)の都(みやこ)、成都(せいと)へと進軍(しんぐん)しました。成漢(せいかん)の兵士(へいし)たちは、東晋軍(とうしんぐん)の勢(いきお)いに抗(あらが)う術(すべ)もなく、次々(つぎつぎ)と崩(くず)れ去(さ)っていきました。


李勢(りせい)は、もはや為(な)す術(すべ)がありませんでした。 「もはやこれまで…。」 彼(かれ)の呟(つぶや)きは、無常(むじょう)(はかなく、移(うつ)ろいやすいこと)の響(ひび)きを帯(お)びていました。 こうして、304年(ねん)に李雄(りゆう)によって建国(けんこく)されて以来(いらい)約(やく)50年間(ねんかん)続(つづ)いた成漢(せいかん)は、東晋(とうしん)の猛攻(もうこう)の前に(まえに)滅亡(めつぼう)しました。この勝利(しょうり)は、東晋(とうしん)にとって初(はじ)めての華北(かほく)回復(かいふく)(一時的(いちじてき)ではあったものの)となり、江南(こうなん)の人々(ひとびと)に大(おお)きな希望(きぼう)をもたらしました。桓温(かんおん)の名(な)は、天下(てんか)に轟(とどろ)き渡(わた)ったのです。


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華北(かほく)の血(ち)と炎(ほのお):冉閔(ぜんびん)の悲願(ひがん)


一方(いっぽう)、華北(かほく)では、後趙(こうちょう)の暴君(ぼうくん)石虎(せきこ)が死去(しきょ)した後(あと)、権力(けんりょく)争(あらそ)いが激化(げきか)し、混乱(こんらん)は極(きわ)まっていました。石虎(せきこ)は石勒(せきろく)の甥(おい)にあたり、その残虐(ざんぎゃく)な支配(しはい)によって民衆(みんしゅう)を苦(くる)しめ、国(くに)を疲弊(ひへい)させた人物(じんぶつ)です。


その混迷(こんめい)(混乱(こんらん)して先(さき)が見通せないこと)の中(なか)から、一(ひと)りの漢民族(かんみんぞく)の武将(ぶしょう)が立(た)ち上(あ)がりました。彼の名(な)は冉閔(ぜんびん)。民族主義的(みんぞくしゅぎてき)感情(かんじょう)が非常(ひじょう)に強(つよ)く、過激(かげき)な行動(こうどう)も辞(じ)さない激情家(げきじょうか)です。漢民族(かんみんぞく)が胡族(こぞく)の支配(しはい)に苦(くる)しむ現状(げんじょう)を憂(うれ)い、民族(みんぞく)の復興(ふっこう)を悲願(ひがん)としていました。


350年(ねん)、冉閔(ぜんびん)はついに後趙(こうちょう)の皇帝(こうてい)を廃(はい)し、自(みずか)ら帝位(ていい)に就(つ)き、国号(こくごう)を冉魏(ぜんぎ)と改(あらた)めました。そして、彼(かれ)は歴史(れきし)に残(のこ)る決断(けつだん)を下(くだ)します。「胡族(こぞく)殲滅(せんめつ)(皆殺し(みなごろす)にすること)」の命令(めいれい)です。この命令(めいれい)により、華北(かほく)では、胡族(こぞく)に対する大規模(だいきぼ)な虐殺(ぎゃくさつ)が始(はじ)まりました。漢民族(かんみんぞく)の長年(ながねん)の恨(うら)みと、胡族(こぞく)の恐怖(きょうふ)が入り乱れ、大地(だいち)は血(ち)で染(そ)まりました。


冉閔(ぜんびん)は、都(みやこ)の鄴(ぎょう)。現在の河北省臨漳県(かほくしょうりんしょうけん)で、集(あつ)まった兵士(へいし)たちに語(かた)りかけました。 「我々(われわれ)漢民族(かんみんぞく)は、長(なが)きに渡(わた)り胡族(こぞく)の圧制(あっせい)(権力(けんりょく)によって人(ひと)を苦(くる)しめること)に苦(くる)しんできた。今(いま)こそ、その軛(くびき)(人(ひと)を束縛(そくばく)し、自由(じゆう)を奪う(うばう)もの)を断(た)ち切(き)る時(とき)だ!」 兵士(へいし)たちは、冉閔(ぜんびん)の言葉(ことば)に熱狂(ねっきょう)(興奮(こうふん)し、夢中(むちゅう)になること)し、咆哮(ほうこう)(大声(おおごえ)をあげること)を上(あ)げました。彼(かれ)らの目(め)には、長年(ながねん)の抑圧(よくあつ)(力(ちから)で押(お)さえつけること)から解放(かいほう)された、狂気(きょうき)にも似(に)た光(ひかり)が宿(やど)っていました。


この出来事(できごと)は、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)の残酷(ざんこく)さを象徴(しょうちょう)するものでしたが、同時(どうじ)に漢民族(かんみんぞく)の根強(ねづよ)い復讐心(ふくしゅうしん)と、中原(ちゅうげん)を巡(めぐ)る民族(みんぞく)間(かん)の複雑(ふくざつ)な感情(かんじょう)を浮(う)き彫(ぼ)りにしました。冉魏(ぜんぎ)は短命(たんめい)に終(お)わる運命(うんめい)でしたが、その登場(とうじょう)は、乱世(らんせ)の歴史(れきし)に深(ふか)い爪痕(つめあと)を残(のこ)したのです。

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