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灼熱の時代:五胡十六国時代記③

〇

宿命(しゅくめい)の対決(たいけつ)


326年、華北(かほく)の空は、いつになく重苦(おもくる)しい空気に覆(おお)われていた。北の広大な大地は、今や二つの巨大な勢力によって二分されていた。一つは、かつて西晋(せいしん)の都(みやこ)を陥落(かんらく)させ、中原(ちゅうげん)(中国の中心地)を支配した匈奴(きょうど)の王朝、前趙(ぜんちょう)。その皇帝(こうてい)は、軍事的な才能はあったものの、どこか運に見放された悲運の指導者、劉曜(りゅう よう)だった。


そしてもう一つは、異民族の一つである、羯族(けつぞく)の奴隷(どれい)から身(み)を起こし、叩(たた)き上げで広大な後趙(こうちょう)を築き上げた石勒(せきろく)の帝国(ていこく)である。石勒(せきろく)は、冷徹(れいてつ)な現実主義者(げんじつしゅぎしゃ)であり、自身の出自(しゅつじ)や教養(きょうよう)の限界を理解(りかい)し、漢人(かんじん)の賢臣(けんしん)を積極的に登用(とうよう)する柔軟(じゅうなん)な思考(しこう)の持ち主(もちぬし)だった。


この二つの王朝の間の覇権(はけん)を巡る争いは、すでに膠着状態(こうちゃくじょうたい)(動きがなく、行き詰まっている状態)に陥(おちい)っていたが、この年、ついに両国は雌雄(しゆう)を決(けっ)する(優劣を決める)ための大規模(だいきぼ)な遠征(えんせい)(遠方への軍事行動)を計画し始めた。華北(かほく)の命運(めいうん)をかけた最終決戦(さいしゅうけっせん)が、今まさに幕(まく)を開(あ)けようとしていたのだ。


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石勒(せきろく)の決断(けつだん)と劉曜(りゅう よう)の覚悟(かくご)


327年、凍(こご)えるような冬の風が吹き荒(あ)れる中、後趙(こうちょう)の都(みやこ)では、石勒(せきろく)が重臣(じゅうしん)たちを前に、その強烈(きょうれつ)な眼光(がんこう)を光らせていた。


「もはや待つことはできぬ。前趙(ぜんちょう)の劉曜(りゅう よう)と、決着(けっちゃく)をつける時が来た。」


彼の声は、奴隷(どれい)から成り上がった男ならではの、揺(ゆ)るぎない自信に満ちていた。漢人(かんじん)の賢臣(けんしん)、張賓(ちょうひん)は、主君(しゅくん)の決意(けつい)を感じ取り、静かに頷(うなず)いた。


「陛下(へいか)の御英断(ごえいだん)(優れた決断)にございます。今こそ、中原(ちゅうげん)を真に統一(とういつ)する時。」


石勒(せきろく)は、張賓(ちょうひん)の言葉に満足げに目を細めた。彼は、自身に足りないものを補(おぎな)ってくれる漢人(かんじん)の才(さい)を重んじる、現実的(げんじつてき)な思考(しこう)の持ち主(もちぬし)だった。


同じ頃、前趙(ぜんちょう)の長安(ちょうあん)では、劉曜(りゅう よう)が沈痛(ちんつう)な面持(おももち)ちで地図を睨(にら)んでいた。彼の顔には、常に乱世(らんせい)の厳(きび)しさに翻弄(ほんろう)されてきた悲運(ひうん)の影(かげ)が差(さ)していた。


「石勒(せきろく)め、ついに動くか……。ならば、こちらも受けて立つまで。」


劉曜(りゅう よう)の言葉には、覚悟(かくご)は滲(にじ)んでいたが、どこか諦(あきら)めにも似(に)た響(ひび)きがあった。彼は軍事的な才能は持ち合わせていたものの、石勒(せきろく)のような圧倒的(あっとうてき)な強運(きょううん)と冷徹(れいてつ)さを持ち合わせてはいなかった。


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捕縛(ほばく)と落日(らくじつ)


そして、運命(うんめい)の328年が訪れた。両雄(りょうゆう)の激突(げきとつ)は、想像を絶(ぜっ)するものだった。華北(かほく)の大地は、兵士(へいし)たちの叫(さけ)びと武器(ぶき)のぶつかり合う音(おと)で満たされた。幾日(いくにち)にもわたる激戦(げきせん)の末、戦局(せんきょく)は徐々(じょじょ)に後趙(こうちょう)へと傾(かたむ)いていく。


そして、その日の夕刻(ゆうこく)、戦場(せんじょう)に衝撃(しょうげき)が走った。前趙(ぜんちょう)の皇帝(こうてい)、劉曜(りゅう よう)が、後趙(こうちょう)の軍によって捕(とら)えられたのである。


報(ほう)せを聞いた石勒(せきろく)は、静かに勝利(しょうり)を噛(か)み締(し)めていた。奴隷(どれい)から身(み)を起こした男の、積み重ねてきた努力(どりょく)と知略(ちりゃく)が、ついに実(み)を結(むす)んだ瞬間(しゅんかん)だった。


一方、捕(とら)われの身(み)となった劉曜(りゅう よう)は、茫然自失(ぼうぜんじしつ)(あっけにとられて、どうしていいかわからない状態)のまま、遠(とお)く沈(しず)む夕日(ゆうひ)を眺(なが)めていた。彼の胸中(きょうちゅう)には、これまで積み上げてきたものが、音(おと)を立てて崩(くず)れていく絶望(ぜつぼう)が広がっていた。


翌329年、石勒(せきろく)によって劉曜(りゅう よう)が処刑(しょけい)されると、前趙(ぜんちょう)はあっけなく滅亡(めつぼう)した。これにより、華北(かほく)の広大な地域は後趙(こうちょう)の支配下(しはいか)に収(おさ)まり、石勒(せきろく)は名実(めいじつ)ともに華北(かほく)の主要(しゅよう)な勢力(せいりょく)となった。


ここに、五胡十六国時代(ごこじゅうろくこくじだい)の一つの大きな転換点(てんかんてん)が訪れた。しかし、この戦乱(せんらん)の時代は、まだ終わることなく、新たな英雄(えいゆう)や王朝(おうちょう)を生み出し続けていくのである。



〇

皇帝(こうてい)の死(し)と、忍(しの)び寄(よ)る影(かげ)


333年、華北(かほく)を統一(とういつ)したばかりの後趙(こうちょう)に、一つの大きな転機(てんき)が訪(おとず)れた。羯族(けつぞく)の奴隷(どれい)から身(み)を起こし、知略(ちりゃく)と武勇(ぶゆう)でのし上がった後趙(こうちょう)の初代皇帝(しょだいきょうてい)、石勒(せきろく)が病(やまい)に倒(たお)れ、ついにこの世(よ)を去(さ)ったのだ。その死は、広大(こうだい)な後趙(こうちょう)全土(ぜんど)に、一抹(いちまつ)(ほんのわずか)の不安(ふあん)を広げた。


石勒(せきろく)は、叩(たた)き上げの努力家(どりょくか)で、漢人(かんじん)の賢臣(けんしん)を重用(ちょうよう)する現実的(げんじつてき)な統治(とうち)を行(おこな)った人物(じんぶつ)だった。彼の死(し)によって開(ひら)かれた権力(けんりょく)の座(ざ)に、今、一(ひと)つの影(かげ)が忍(しの)び寄(よ)っていた。それは、石勒(せきろく)の甥(おい)にあたる石虎(せき こ)である。


石虎(せき こ)は、極(きわ)めて残忍(ざんにん)で傲慢(ごうまん)な性格(せいかく)の持ち主(もちぬし)として知(し)られていた。彼の内(うち)には、己(おのれ)の欲望(よくぼう)と権力(けんりょく)を際限(さいげん)なく追求(ついきゅう)する、冷酷(れいこく)で自己中心的(じこちゅうしんてき)な魂(たましい)が宿(やど)っていた。


________________________________


権力(けんりょく)への飢(う)え


石勒(せきろく)の病状(びょうじょう)が悪化(あっか)するにつれ、石虎(せき こ)の動きは、より露骨(ろこつ)(隠(かく)そうとせず、はっきりしている様子)になっていった。彼は、これまで石勒(せきろく)を支(ささ)えてきた重臣(じゅうしん)たちを排除(はいじょ)し、自(みずか)らの腹心(ふくしん)(信頼できる部下)で周囲(しゅうい)を固(かた)めていったのだ。


石勒(せきろく)の息子(むすこ)たちも、石虎(せき こ)の冷酷(れいこく)な権力(けんりょく)への執着(しゅうちゃく)(一つのことにこだわり続けること)の前(まえ)には無力(むりょく)だった。石虎(せき こ)は、病床(びょうしょう)に伏(ふ)せる石勒(せきろく)に代(か)わって政務(せいむ)(政治に関する仕事)を掌握(しょうあく)(しっかり自分のものにすること)し、その残忍(ざんにん)な本性(ほんしょう)を徐々(じょじょ)に現(あらわ)し始める。


ある日、石勒(せきろく)がわずかに意識(いしき)を取(と)り戻(もど)した時(とき)、かす(微)かな声(こえ)で石虎(せき こ)を呼(よ)んだ。


「虎(こ)よ……わしが死(し)んだ後(のち)も、民(たみ)を、大切(たいせつ)にせよ……」


しかし、石虎(せき こ)の表情(ひょうじょう)には、何の感情(かんじょう)も浮(う)かんでいなかった。彼(かれ)の心(こころ)には、すでに新たな時代(じだい)の到来(とうらい)と、その頂点(ちょうてん)に立(た)つ自分(じぶん)の姿(すがた)しか映(うつ)っていなかったのだ。


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暴虐(ぼうぎゃく)の幕開(まくあ)け


石勒(せきろく)が息(いき)を引(ひ)き取(と)ると、石虎(せき こ)は間髪(かんぱつ)を容(い)れず、その実権(じっけん)を握(にぎ)った。華北(かほく)の民(たみ)は、前趙(ぜんちょう)との戦乱(せんらん)を終(お)え、ようやく平和(へいわ)が訪(おとず)れると期待(きたい)していた。しかし、彼(かれ)らを待(ま)っていたのは、石虎(せき こ)による想像(そうぞう)を絶(ぜっ)する残虐(ざんぎゃく)な支配(しはい)だった。


石虎(せき こ)は、些細(ささい)なことでも容赦(ようしゃ)なく処罰(しょばつ)し、大規模(だいきぼ)な土木(どぼく)工事(こうじ)や宮殿(きゅうでん)の造営(ぞうえい)(建物を建てること)に民(たみ)を駆(か)り立(た)てた。無理(むり)な労役(ろうえき)(労働)と重(おも)い税(ぜい)に、民(たみ)の苦(くる)しみは深(ふか)まるばかりだった。後趙(こうちょう)の各地(かくち)からは、悲鳴(ひめい)と嘆(なげ)きが聞(き)こえるようになった。


「これでは、まるで地獄(じごく)だ……」


「皇帝(こうてい)は、民(たみ)のことなど、何(なに)も考(かんが)えておられぬのか……」


市井(しせい)(一般の人が暮らす場所)の人々(ひとびと)は、日ごと(日々)に募(つの)る不安(ふあん)と恐怖(きょうふ)に怯(おび)えながら、ささやき合った。石勒(せきろく)が築(きず)き上(あ)げた後趙(こうちょう)は、そのわずか数年後(すうねんご)には、冷酷(れいこく)な暴君(ぼうくん)の支配(しはい)によって、血(ち)と涙(なみだ)に塗(まみ)れた暗黒(あんこく)の時代(じだい)へと突入(とつにゅう)していったのである。



〇


乱世(らんせい)の中国(ちゅうごく)は、まさに群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)(多くの英雄たちが各地で勢力を張り合うこと)の時代(じだい)であった。北方(ほっぽう)の異民族(いみんぞく)が次々(つぎつぎ)と王朝(おうちょう)を建(た)て、漢民族(かんみんぞく)の晋(しん)王朝(おうちょう)は江南(こうなん)へと追(お)いやられていた。337年、その歴史(れきし)の歯車(はぐるま)は、また新(あら)たな一歩(いっぽ)を踏(ふ)み出(だ)す。


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北方(ほっぽう)に昇(のぼ)る新星(しんせい)


華北(かほく)の東(ひがし)の果(はて)、遼東(りょうとう)の地(ち)は、長(なが)く鮮卑族(せんぴぞく)の慕容(ぼよう)部(ぶ)の支配(しはい)する領域(りょういき)であった。その部族(ぶぞく)を率(ひき)いるのは、知略(ちりゃく)と武勇(ぶゆう)を兼(かね)備(そな)えた雄大(ゆうだい)な指導者(しどうしゃ)、慕容皝(ぼよう こう)であった。彼(かれ)は、冷静(れいせい)な判断力(はんだんりょく)と長期的(ちょうきてき)な視野(しや)を持(も)ち、着実(ちゃくじつ)に勢力(せいりょく)を拡大(かくだい)してきた。


この年(とし)、慕容皝(ぼよう こう)はついに、彼(かれ)の長年(ながねん)の夢(ゆめ)であった「燕(えん)」の建国(けんこく)を宣言(せんげん)した。後に「前燕(ぜんえん)」と呼(よ)ばれるこの国(くに)は、乱世(らんせい)の中国(ちゅうごく)に、また一(ひと)つ新(あら)たな渦(うず)を巻(ま)き起(お)こそうとしていた。


「この遼東(りょうとう)の地(ち)に、我(われ)らの国(くに)を建(た)てる。これは、単(たん)なる部族(ぶぞく)の営(いとな)みではない。乱(らん)れた世(よ)に秩序(ちつじょ)をもたらし、民(たみ)を安(やす)んじるための礎(いしずえ)となるのだ。」


慕容皝(ぼよう こう)の言葉(ことば)には、並々(なみなみ)ならぬ決意(けつい)が込(こ)められていた。彼(かれ)は、自(みずか)らの手(て)で新(あら)たな時代(じだい)を築(きず)き上(あ)げるべく、着々(ちゃくちゃく)と準備(じゅんび)を進(すす)めていたのである。その眼差(まなざ)しは、遠(とお)く華北(かほく)の地(ち)を見据(みす)えていた。そこでは、暴君(ぼうくん)石虎(せき こ)が支配(しはい)する後趙(こうちょう)が、その残虐(ざんぎゃく)な統治(とうち)で悪名(あくみょう)を轟(とどろ)かせており、いずれは正面(しょうめん)から対峙(たいじ)(向かい合うこと)する日(ひ)が来(く)ることを、慕容皝(ぼよう こう)は予感(よかん)していた。


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蜀(しょく)に揺(ゆ)らぐ王権(おうけん)


同(おな)じ337年、遠(とお)く離(はな)れた中国(ちゅうごく)の西南(せいなん)、緑豊(みどりゆた)かな蜀(しょく)の地(ち)でも、歴史(れきし)の劇的(げきてき)な転換(てんかん)が起(お)こりつつあった。そこには、約(やく)30年(ねん)にわたり、安定(あんてい)した統治(とうち)を続(つづ)けてきた氐族(ていぞく)の国(くに)「成(せい)」があった。建国者(けんこくしゃ)の李雄(りゆう)は、乱世(らんせい)にあって民衆(みんしゅう)に目(め)を向(む)け、租税(そぜい)を軽(かる)くするなど賢明(けんめい)な善政(ぜんせい)を敷(し)いた穏健(おんけん)な指導者(しどうしゃ)であった。しかし、彼(かれ)の死後(しご)、国(くに)の舵(かじ)取(と)りは混迷(こんめい)(混乱して先が見えない状態)を極(きわ)めていた。


李雄(りゆう)の甥(おい)にあたる李寿(り じゅ)は、権力欲(けんりょくよく)が強(つよ)く、手段(しゅだん)を選(えら)ばない野心家(やしんか)であった。彼(かれ)は、李雄(りゆう)の子(こ)で、今(いま)や皇帝(こうてい)の座(ざ)にある甥(おい)の李期(り き)の器量(きりょう)(人物の力量)に疑念(ぎねん)(疑わしいと思う気持ち)を抱(いだ)いていた。そして、己(おのれ)こそが国(くに)を導(みちび)くべき真(しん)の王(おう)だと信(しん)じて疑(うたが)わなかった。


338年、李寿(り じゅ)はついに動(うご)いた。密(ひそ)かに兵(へい)を動(うご)かし、一気(いっき)に首都(しゅと)成都(せいと)を制圧(せいあつ)。李期(り き)を廃位(はいい)し、自(みずか)ら帝位(ていい)に就(つ)いたのである。これは、李氏(りし)の血(ち)を引(ひ)く者(もの)による、まさしく「簒奪(さんだつ)」(力ずくで位を奪うこと)であった。


「この国(くに)は、今(いま)より『漢(かん)』と称(しょう)する!」


李寿(り じゅ)が高(たか)らかに宣言(せんげん)した。彼(かれ)は、祖父(そふ)にあたる李特(り とく)がかつて漢(かん)王朝(おうちょう)の再興(さいこう)を掲(かか)げたことに由来(ゆらい)すると主張(しゅちょう)し、自(みずか)らの正統性(せいとうせい)(正当であること)を示(しめ)そうとしたのだ。


しかし、この李寿(り じゅ)の「漢(かん)」への改名(かいめい)は、彼(かれ)の権力(けんりょく)への渇望(かつぼう)の表(あらわ)れではあったが、結果的(けっかてき)に国(くに)の混乱(こんらん)を招(まね)くこととなった。歴史(れきし)は、李雄(りゆう)が築(きず)いた「成(せい)」と、李寿(りじゅ)が一時(いちじ)「漢(かん)」と改称(かいしょう)したこの時期(じき)を総称(そうしょう)して「成漢(せいかん)」と呼(よ)ぶ。それは、たとえ名(な)が変(か)わっても、李氏(りし)の政権(せいけん)としての一貫性(いっかんせい)(筋が通っていること)を失(うしな)わなかったこと、そして、李寿(りじゅ)の改称(かいしょう)が、長(なが)い目(め)で見(み)れば一時的(いちじてき)な揺(ゆ)らぎに過(す)ぎなかったことを示唆(しさ)(それとなく示すこと)しているのかもしれない。


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東(ひがし)に新(あら)たな燕(えん)が立(た)ち、西(にし)には簒奪(さんだつ)によって名(な)を変(か)えた漢(かん)が誕生(たんじょう)した。337年、338年。この二年(にねん)の間(あいだ)に、中国大陸(ちゅうごくたいりく)の北(きた)と南(みなみ)で、それぞれ異(こと)なる野望(やぼう)を抱(いだ)く者(もの)たちが、歴史(れきし)の舞台(ぶたい)に躍(おど)り出(で)たのである。この後(のち)、彼(かれ)らの運命(うんめい)は、複雑(ふくざつ)に絡(から)み合(あ)い、五胡十六国時代(ごこじゅうろくこくじだい)という激動(げきどう)の時代(じだい)を彩(いろど)っていくこととなる。

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