【第36話】「温泉街の夜、影の訪れ」
お母さんが久しぶりに取った三日間の休暇。
温泉でのんびり羽を伸ばすつもりが、思いもよらぬ“出会い”に巻き込まれることに。
それは夢か現か、それとも……?
到着してすぐに温泉に浸かったお母さんは、湯気の中で肩の力を抜き、
「はぁ〜、極楽極楽……」と息をついた。
そして旅館の部屋に戻れば、豪華な夕餉が並んでいた。
川魚の塩焼き、山菜の天ぷら、そして肉厚な龍しゃぶ。
「人に作ってもらうご飯は最高ね。準備も片付けもいらないなんて、これ以上の贅沢はないわ」
頬を緩めながら、お母さんはお銚子を傾けては一人ごちる。
食後、まだ時間も早いと再び露天風呂へ。
星明りを映す湯船に身を沈め、杯を片手に夜風を感じながら――
「ちょっとのぼせちゃったね」
そうつぶやいたお母さんは、湯冷ましにと近くの川まで足を伸ばそうとした。
だが、極度の方向音痴であることをすっかり忘れていた。
気づけば川ではなく、鬱蒼とした森の奥。
闇の中に踏み込んでいた。
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◆ コーチンの影
「グルルルル……」
地響きのような低い唸り声。
視線の先にあったのは、三階建ての家ほどもある巨大な影。
赤黒い羽根を震わせるそれは――
ネームド魔物。
「な、なんでこんなところに……!?」
腰を抜かしたお母さんは、呪文を紡ごうとしたが、恐怖で喉が凍りついた。
ゆっくりと迫りくる巨鶏の魔物。
鋭い嘴が、今にもお母さんを貫こうと振り下ろされる――その時だった。
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◆ 風のような影
「――退け」
風の音とともに、黒い影が割って入った。
銀色の毛並み、鋭い眼光。
それは伝承で語られる《フェンリル》を思わせる魔物だった。
コーチンは羽を大きく広げ、低く唸る。
「何者だ……お前も魔か? なぜ人間を庇う。そいつを喰わせろ」
だがフェンリルは冷たく一言。
「退け」
その声には逆らえぬ威圧がこもっていた。
コーチンはしばし睨みつけた後、舌打ちのように鳴き声をあげて、闇の奥へと姿を消す。
残されたのは、震えるお母さんと、彼女の前に立つフェンリルだけ。
「来た道を戻れ」
短くそう告げると、フェンリルの姿は、霧のようにかき消えた。
そこには爪痕ひとつ残されていなかった。
⸻
◆ 残された違和感
「……夢? お酒の飲みすぎかしら」
お母さんは額の汗を拭いながら、そう無理に納得させた。
けれど最後に呟いたのは――
「ポム? ……ここにいるはずないのにね。しかも、あんなに大きくなれるはずないのに」
首をかしげながら、旅館へと引き返す。
星明りの下、すでに先ほどの出来事は幻のように感じられた。
そしてお母さんは部屋に戻り、布団へ潜り込んで深い眠りへ。
その頃――街の家では。
ルミとお姉ちゃんがまだ目を覚ます前に、ポムはどこからともなく姿を現し、いつもの布団に潜り込み、すやすやと寝息を立てていた。
第36話「温泉街の夜、影の訪れ」お読みいただきありがとうございました。
今回の主役はお母さん。のんびり休暇のはずが、まさかの遭遇……。
ただの夢だったのか、それとも――ポムの秘密に関わる何かだったのか。
小さな伏線をちりばめた回となりました。
次回からまた日常に戻りつつも、この不思議な出来事が後々どう繋がっていくのか……ぜひ楽しみにしてください!




