# 第8話「愛の鉄拳」
火山が噴いた。
一つではない。焦熱の王国を囲む火山群が、一斉に火柱を上げた。溶岩が空を舞い、灰が降り注ぎ、大地そのものが怒っているような轟音が響き渡る。
その全てが、目の前の竜人から放たれる魔力に呼応していた。
「消えろ……! 先生の声を騙る偽物め……!」
フレアの全身から炎が噴き出す。赤ではない。白い。温度が高すぎて色を失った炎が、竜人の翼から広がり、空を焼いた。
「終焉の炎」——かつて大陸の南半分を焦土に変えた魔炎。それが、バルタザールに向かって放たれた。
白い世界になった。
炎が全てを呑み込んだ。地面が蒸発し、岩が溶け、空気が燃えた。数キロ先の山が一つ消し飛んだ。
後方でルナリアが防御結界を張っている。結界の外縁がじりじりと削れていく。
「先生っ——!」
ルナリアが叫んだ。
炎の中心に、人影が立っていた。
バルタザールは腕を組んでいた。外套の裾が焦げてすらいない。白い炎が体の周囲で渦を巻いているが、まるで彼だけを避けているように見えた。実際には避けているのではない。触れた瞬間に消えているのだ。
「あー」
バルタザールが声を出した。
「ちょっとあったかいな」
フレアの炎が一瞬揺らいだ。
「……なに」
「この炎、1000年前に俺が教えたやつだろ」
バルタザールは腕組みを解いて、首を鳴らした。
「師匠に効くわけないだろ、自分が教えた技が」
「黙れぇぇっ!!」
フレアが吼えた。
竜人の体がさらに膨れ上がる。翼が広がり、尾が伸び、全長が十メートルを超えた。完全な竜の姿に近づいていく。頭部に角が生え、顎が裂けて牙が並ぶ。
竜化。ドラゴニュートの最終形態。
「先生なんかいない! もういない! 1000年待った! ずっと待った! なのに来なかった!」
炎の竜が咆哮した。声が地面を割った。
「もう誰も信じない! 全部燃やす! こんな世界——先生のいない世界なんか——!」
バルタザールは竜を見上げた。
十メートルの巨体。世界を焼く炎。大地を砕く咆哮。
その全てが——泣いている子供に見えた。
「フレア」
歩き出す。
竜の爪が振り下ろされた。バルタザールは半歩横にずれた。爪が地面を抉り、溶岩が飛び散る。
尾が薙ぎ払われた。バルタザールは屈んだ。風圧で背後の岩壁が砕ける。
顎が迫った。牙の間から白い炎が漏れている。バルタザールは竜の鼻先に手を置いた。
ぐっ、と力を入れる。
十メートルの竜の巨体が——止まった。
片手で、竜の突進を受け止めていた。
「がっ——」
フレアが驚愕の声を漏らした。全力の突進が、片腕一本で止められた。竜の脚が地面を蹴るが、バルタザールは一歩も動かない。
「暴れるな。話を聞け」
「離せっ!!」
竜が身をよじる。尾が暴れ、翼が大気を打つ。しかしバルタザールの手は鼻先から離れない。
「1000年前にも同じことがあったな。お前が暴走して、村一つ燃やしかけた」
竜の動きが、わずかに鈍った。
「あのとき俺が何をしたか、覚えてるか」
フレアは答えなかった。だが体の震えが変わった。怒りの震えではない。
「殴った。拳一発で黙らせた。お前はぼろぼろ泣いて、それから俺の腕にしがみついて離れなかった」
竜の目から、炎ではないものがこぼれた。
「先生の拳だけが効くんです——お前、そう言っただろ」
竜の巨体が縮みはじめた。翼が萎み、尾が短くなり、角が消えていく。十メートルの竜が、人の形に戻っていく。
だが——完全には戻らなかった。
黒い鎧が、竜人の体にまとわりついている。ルナリアの時と同じ、呪縛の鎧。ただしフレアのそれは炎を纏っており、白く燃え続けている。
フレアが膝をついた。人の形に近い竜人の姿。黒い鎧の奥から、真紅の瞳がバルタザールを見上げている。
「……本物、なの」
声が震えていた。怒りではない。もっと深い場所からくる震え。
「本物だ」
「証拠は」
「証拠か」
バルタザールは右の拳を握った。
「これでいいか」
拳を振り上げた。
フレアは避けなかった。
愛の鉄拳。
頭頂部に、こつん、と拳が落ちた。
見た目は軽い。子供の頭を小突くような動作。だが込められた力は正確で、深く、呪縛の核だけを砕くように設計されていた。
黒い鎧が爆ぜた。
ルナリアの時のように罅割れるのではなく、炎とともに一瞬で弾け飛んだ。黒い破片が赤い火花になって散り、消える。
残されたのは——赤い髪の少女だった。
長い赤髪。褐色の肌。竜の名残である小さな角と、背中の翼と、腰から伸びる長い尻尾。大きな赤い瞳が、バルタザールを見つめている。
「先生」
今度は震えていなかった。
「先生だ。先生の拳だ。やっぱり——先生の拳だけが効く」
目に涙が溜まっていた。だがルナリアのように泣き崩れはしなかった。
代わりに——尻尾が動いた。
ぶんぶん。
左右に大きく振れはじめた。地面を叩くほどの勢いで、砂埃が舞う。
フレアの顔は泣きそうで、でも笑っていて、瞳はぐしゃぐしゃで、それでも尻尾だけは全力で喜びを表現していた。
「先生……! 先生先生先生っ……!」
立ち上がり、バルタザールに飛びついた。
ルナリアのように胸に飛び込むのではなく、首にしがみついた。両腕で。全体重で。竜人の怪力で。普通の人間なら首の骨が折れているだろう。
「また先生に会えた……! また先生に殴ってもらえた……!」
「殴ってもらえたのが嬉しいのはどうかと思うが」
「だって先生の拳、1000年前と全然変わってない……! あったかくて、痛くて、でもあったかくて……!」
フレアの尻尾がさらに加速した。背後の地面が尻尾の風圧で抉れている。
バルタザールは首にぶら下がる少女をどうすることもできず、とりあえず頭に手を置いた。
「わかった。わかったから降りろ。首が——いや、俺の首は折れないが、お前が落ちる」
「落ちない! もう絶対離さない! 先生が寝ようとしたら起こす! 先生が逃げようとしたら追いかける! 先生が——」
「わかったから」
フレアは降りなかった。
後ろで、何かがぴきりと音を立てた。
バルタザールが振り返ると、ルナリアが立っていた。防御結界を解いたルナリアが、腕を組んで、笑顔で、こめかみに青筋を立てて。
「フレア」
ルナリアの声は優しかった。優しすぎた。
「先生から降りなさい」
「やだ」
「降りなさいと言っているのよ」
「ルナリア姉こそ、先生にくっつきすぎ。寝るとき肩に寄りかかってたでしょ。見てた」
「見てたっ!? いつから!?」
「火山の上から。先生の魔力が近づいてくるの、二日前からわかってたもん」
ルナリアの顔が真っ赤になった。それが恥ずかしさなのか怒りなのか、本人にもわかっていない。
「と、とにかく降りなさい! 私は第一弟子なのよ! 先生の隣は私の——」
「弟子の序列と先生の隣は関係ないでしょ」
「あるのよ!」
「ないよ。ねえ先生、ないよね?」
バルタザールの首にぶら下がったまま、フレアが無邪気に聞いてきた。尻尾が期待に揺れている。
「……勝手にしろ」
バルタザールは遠い目をした。
周囲では、火山の噴火が収まりはじめていた。フレアの怒りが消えたことで、焦熱の王国を覆っていた異常な熱気が急速に薄れていく。赤く染まっていた空に、久しぶりの青が覗いた。
この地に緑が戻るには、まだ時間がかかるだろう。だが——もう、これ以上焼かれることはない。
バルタザールは南の空を見上げた。青い空の向こうに、まだ回収していない弟子が五人いる。
二人になった旅が三人になった。賑やかになるのは確実だ。
「先生、お腹すいた」
「先生、今夜は私が隣で——」
「私が先に隣の権利を——」
「先に来たのは私だもん」
「第一弟子は私よ!」
「お腹すいたー!」
バルタザールは黙って歩きはじめた。
面倒が加速している。
だが——三人分の足音が、一人のときよりずっとましだった。




