# 第7話「世界が動いた日」
傲慢の魔王ルナリアが消えた——その報せが大陸を駆け抜けたのは、バルタザールたちが銀月城塞を出てから三日目のことだった。
最初に動いたのは商人たちだ。
銀月城塞の周辺は、数百年にわたってルナリアの支配下にあった。貿易路は封鎖され、近隣の国々は迂回を強いられていた。それが突然、魔王軍が武装解除を始めたのだ。
「嘘だろ」「罠じゃないのか」「いや、城塞の門が吹き飛んでるのを見た奴がいる」
噂は瞬く間に広がった。
各国の王宮にも急報が飛んだ。
「七魔王の一角が——倒された?」
「倒されたというより……消えた、と。城塞には魔王軍の兵士が残っていますが、戦意を完全に失っています」
「誰がやった」
「不明です。ただ——城塞の門を素手で破壊した男がいるという証言が複数あります」
「素手で? あの銀月城塞の門を?」
「ボロい外套を着た中年男だ、と」
王宮の空気が凍った。
人類の歴史において、七魔王はいわば「天災」だった。地震や嵐と同じで、抗えないものとして受け入れるしかない存在。それを一人の男が——しかも素手で——覆した。
「その男の身元を洗え。全力で」
各国が動き始めた。密偵が放たれ、情報網が走る。
だが、情報は混乱していた。
「ギルドのランク外認定を受けた男がいる」
「名前はバルタザール」
「大賢者と同じ名前だと? 冗談にしても不謹慎だな」
「しかし、強さの証言が尋常ではありません。手を振っただけで魔物五十体を消し飛ばした。あくびで二百体を——」
「あくびで?」
「報告書にはそう書いてあります」
「……報告した兵士の精神状態を検査しろ」
世界は混乱していた。
しかし、バルタザール本人はそんなことを知る由もない。
「先生、もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「走れと言ったのは取り消した。だがこれが普通の速度だ」
「普通じゃないのよ。私もう三回つまずいてるんだけど」
「足元を見ろ」
「先生を見てたら足元は見られないでしょう!」
「なぜ俺を見る必要がある」
「……いなくなったら困るからよ」
街道を南へ。
二人は三日間歩き続けていた。南に行くほど気温が上がる。フレアの支配する焦熱の王国が近づいている証拠だ。
街道沿いの町で補給をした。ルナリアにまともな服を買い、食料と水を詰め込む。
町の酒場で昼飯を食っていると、隣のテーブルから声が聞こえてきた。
「おい、聞いたか。傲慢の魔王が消えたって」
「ああ。信じられるか? あの魔王が」
「なんでも正体不明の男が一人で銀月城塞に突っ込んで、十万の軍勢を——」
バルタザールはスープを啜った。
ルナリアが居心地悪そうに身を縮めている。
「正体不明って……先生、有名になってるわよ」
「名前は出てないだろう」
「時間の問題じゃない」
「その頃には全部片付いてる」
「楽観的すぎるのよ」
面倒だが、ルナリアの言うことにも一理ある。各国が動けば、そのうち自分にたどり着くだろう。だが今はそれより優先すべきことがある。
「フレアのことを聞きたい」
ルナリアの手が止まった。
「……何が聞きたいの」
「俺が眠った後、あいつに何があった」
ルナリアはしばらく黙った。スプーンをスープの中でゆっくり回している。
「フレアは——先生がいなくなって、一番最初に泣いた子よ」
バルタザールは黙って聞いた。
「先生が封印に入った日、あの子は先生の石棺にしがみついて三日間離れなかった。食事もとらず、眠りもせず。私たちが引き剥がそうとしたら——暴れて、炎を撒き散らして」
ルナリアの声が沈んだ。
「あの子のドラゴンの力が暴走しかけた。制御できなくなるほど取り乱してた。先生がいなくなったことが、あの子にとっては世界が終わったのと同じだったのよ」
「……そうか」
「それでも立ち直った。時間はかかったけど、他の弟子たちと一緒に大陸の守護をしようって——先生の遺志を継ごうとした」
遺志。自分はまだ生きていたのだが、弟子たちにとっては死んだも同然だったのだろう。
「でも何百年か経った頃に、呪縛が来たの。フレアの場合は——怒りだった」
「怒り」
「先生を失った悲しみ。それが何百年も溜まって、怒りに変わった。『なぜ先生は私たちを置いていったの』って。その怒りにつけ込まれて——」
ルナリアが言葉を切った。
「憤怒の魔王。世界を焼き尽くそうとする竜の魔王。大陸の南半分を焦土に変えたのは、フレアの怒りよ」
バルタザールは最後のスープを飲み干した。
味がしなかった。
「……行くぞ」
席を立つ。
ルナリアが慌ててついてくる。何か声をかけようとして、やめた。バルタザールの背中を見て、何も言えなかった。
先生は怒っているのではない。
悔いている。
1000年前、弟子たちを置いて眠りについた自分自身を。
町を出ると、空気が変わった。
南から吹く風が熱い。季節のせいではない。大気そのものが焼けている。草が枯れ始め、木の葉が赤茶けている。地面が乾いてひび割れている。
焦熱の王国の領域に入りつつある。
「暑くなってきたな」
バルタザールは外套の襟元を緩めた。彼にとっては「ちょっと暖かい」程度だが、客観的に言えば、普通の人間なら熱中症で倒れるレベルだ。
「私は平気よ。エルフの体温調節は人間より優れてるから」
ルナリアがやせ我慢をしている。額に汗が浮いている。
「水を飲め」
「飲まなくても——」
「飲め」
水袋を押しつけた。ルナリアが不服そうな顔で受け取り、一口飲んで、三口飲んで、結局半分飲み干した。
「……ちょっと暑かったのよ」
「知ってる」
さらに南へ進む。
景色が変わっていった。枯れた草原が溶岩台地に変わる。遠くに火山が見えた。一つではない。連なる火山群が赤い煙を噴き上げている。
そしてその中央に——巨大な城が見えた。
溶岩の上に建つ、赤黒い巨城。城そのものが火山のように脈動しており、壁面に溶岩が流れている。空気が揺らぐほどの熱が、数キロ先からでも伝わってくる。
焦熱の王国。
憤怒の魔王フレアの居城だ。
「すごいな。あいつ、こんなところに住んでるのか」
「住んでるっていうか……フレアがいるから、こうなったのよ」
ルナリアの声に苦い響きがあった。
「フレアが憤怒の魔王になる前、ここはただの草原だった。フレアの怒りが大地を焼いて、火山を生んで——この一帯を焦土に変えた」
バルタザールは黙って火山を見上げた。
あの竜の少女がこれだけの地形を変えるほど怒り狂った。その怒りの根源は——師匠を失った悲しみだった。
「フレア」
バルタザールは呟いた。
1000年前の記憶が蘇る。赤い髪の少女。竜の血を引いた、感情豊かな子。嬉しいときは尻尾がぶんぶん揺れて、悲しいときは全身で泣いて、怒るとそこら中が火の海になった。
力の制御が苦手で、何度も暴走しかけた。そのたびにバルタザールが拳一つで鎮めた。
「先生の拳だけが効くんです」と、照れたように笑っていた。
バルタザールは拳を握った。
「——迎えに行く」
足を踏み出す。溶岩台地の熱が靴底を焼く。バルタザールは気にしない。
ルナリアが横に並ぶ。
「先生。フレアは——私より手強いわよ」
「知ってる」
「怒りで我を忘れてる。話が通じないかもしれない」
「それも知ってる」
「……怖くないの?」
バルタザールは少し考えた。
「怖いのは一つだけだ。あいつが——俺のことを忘れてたら、ちょっと困る」
ルナリアは呆れた顔をした。
「フレアが先生を忘れるわけないでしょう。あの子が怒ってるのは——先生を忘れられないからよ」
焦熱の王国の門が見えてきた。
溶岩で作られた巨大な門。その向こうに、炎が渦巻いている。
門の前に、一つの影が立っていた。
人の形をした——炎。
全身が赤い炎に包まれた竜人の姿。背中から翼が広がり、長い尻尾が地面を叩くたびに溶岩が跳ねる。その双眸が真紅に燃えている。
憤怒の魔王フレア。
門まで来た侵入者を、待ち構えていた。
「——誰だ」
炎の声だった。怒りで震えている。
「我が領域に踏み入る愚か者が。名を名乗れ。灰になる前に」
バルタザールは足を止めなかった。
溶岩を踏み、炎を浴び、熱風の中をまっすぐに歩いていく。
「フレア」
名前を呼んだ。
それだけだった。ただ名前を呼んだだけ。
炎の竜人が——一瞬、揺らいだ。
「……その声」
炎が僅かに小さくなった。すぐに燃え上がった。前よりも激しく。
「黙れ……! その声で呼ぶな……! 先生はもういない……! もういないんだ……!」
大地が震えた。火山が一斉に噴火する。空が赤く裂ける。
憤怒の魔王の怒りが、世界を焼こうとしていた。
バルタザールは外套の袖をまくった。
「——手のかかる弟子だな、昔から」




