# 第6話「第一弟子の特権」
旅の初日は、最悪の出だしだった。
いや、最悪というのは語弊がある。バルタザール個人の感想としては「面倒」が正確だろう。
「先生、歩くの速い」
「普通だ」
「普通じゃないのよ。エルフの脚力でも追いつくのがやっとなんだけど」
「鍛え方が足りない」
「1000年のブランクを考慮しなさいよ!」
ルナリアが隣でぎゃあぎゃあ騒いでいる。銀月城塞を出てから半日、この調子だ。
しかし文句を言いながらも、半歩と離れない。バルタザールが少し速度を緩めると、すかさず距離を詰めてくる。肩がぶつかりそうな距離。いや、実際に何度かぶつかっている。わざとだろう。
「お前、もう少し離れて歩け」
「嫌よ」
即答だった。
「離れたら先生がまた消えるかもしれないでしょう」
「消えない」
「信用できないって言ったのよ。先生は前科持ちなの」
前科持ち。二回目だ。1000年の眠りがいつまで引き合いに出されるのか、見当もつかない。
バルタザールは諦めた。好きにさせておくことにした。
日が傾く頃、街道沿いの林に入った。今夜は野宿だ。宿場町までまだ距離がある。
バルタザールは手慣れた動作で焚き火を起こし、外套の内ポケットからいくつかの食材を取り出した。道中で見つけた野草と、出立前に買った干し肉。あとは川で釣った魚が二匹。
「先生、料理できたの」
「1000年前から作ってただろ」
「覚えてない」
「嘘つけ。お前が毎朝催促してきたんだぞ」
ルナリアが目をそらした。耳の先が赤くなっている。エルフの耳は正直だ。
魚を焼き、野草を刻んでスープを作った。調味料はほとんどないが、野草の選び方と火の通し方で味はどうにでもなる。バルタザールは料理に関しては妥協しない。スローライフへの執念が、こういうところに表れていた。
「食え」
木の皿に盛って差し出す。
ルナリアは一口食べて、固まった。
「……っ」
「どうした。不味いか」
「……おいしい」
小さな声だった。
「1000年前と、同じ味がする」
それ以上は言わなかった。黙々と食べた。スープを全部飲み干して、魚の骨まで綺麗にして、最後に皿を両手で持ったまま、じっと見つめていた。
バルタザールは何も言わなかった。
食後、焚き火の番をしながら、バルタザールは外套を脱いで地面に広げた。もう一枚、予備の外套はない。ルナリアにも寝具はない。銀月城塞を身一つで出てきたのだから当然だ。
「寝ろ。明日も歩く」
「先生は?」
「木に寄りかかって寝る。慣れてる」
「駄目」
ルナリアが腕を組んだ。
「先生が風邪ひいたらどうするのよ」
「俺は風邪をひかない」
「そういう問題じゃないの」
何の問題だ、と聞く前に、ルナリアが動いた。
バルタザールが広げた外套の上に、するりと横になる。そして端を持ち上げて、隣の空間をぽんぽんと叩いた。
「先生もここで寝なさい」
「……何を言ってる」
「外套一枚なんだから、分けるのが合理的でしょう。私は別に気にしないわ」
顔が真っ赤だった。
耳の先どころか、首筋まで赤い。月明かりでもわかるくらいに染まっている。気にしないと言いながら、声が上ずっている。
バルタザールは三秒ほど無言で見下ろしてから、木の幹に背中を預けた。
「俺はここでいい」
「っ——」
ルナリアが弾かれたように起き上がった。
「じゃあ私もそこで寝る!」
「おい」
言う間もなく、ルナリアがバルタザールの隣に来て、肩に寄りかかった。銀色の髪がバルタザールの腕に広がる。
「……お前な」
「うるさい。先生が頑固なのが悪いのよ」
「頑固なのはどっちだ」
言い返す気力も失せた。
ルナリアの体は温かかった。エルフ特有の、木漏れ日のようなほんのりとした温もり。それが肩越しに伝わってくる。
「……先生」
「ん」
「私が魔王だった間のこと、怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「お前のせいじゃないだろう。あの鎧に操られていた」
沈黙が落ちた。焚き火がぱちぱちと音を立てている。
「……たくさん、壊したわ」
ルナリアの声が小さくなった。
「町を。村を。人の暮らしを。私の意識はあったの。全部見えていた。止められなかっただけで。……だから、怒ってくれていいのよ」
バルタザールは答えなかった。
代わりに、右手をルナリアの頭に乗せた。
ぽんぽん、と二回。昨日と同じ仕草だった。
「お前を助けに来るのが遅れた俺が悪い。だからお前は悪くない。それでいい」
「……そんな簡単に——」
「簡単じゃなくてもいい。これから取り返す。お前も手伝え」
ルナリアは何も言わなかった。
ただ、肩に預ける体重が少しだけ重くなった。
数分後、規則正しい寝息が聞こえてきた。
バルタザールは動かなかった。右肩にかかる重みをそのままに、焚き火を見つめていた。
「……1000年前からこうだったな、お前は」
誰にも聞こえない声でそう言って、目を閉じた。
翌朝。
問題が発生した。
「先生、服がないのよ」
「知ってる」
「これ、破れてるのよ」
「見ればわかる」
ルナリアが着ているのは、黒い鎧の下に纏っていた薄い衣だった。魔王時代のもので、あちこちが裂けてほとんど原形を留めていない。昨日は暗くて気にならなかったが、朝日の下で見ると——確かにまずい。
「着替えを手伝いなさい」
「は?」
「予備の衣を買うまで、先生の外套を巻いて凌ぐしかないでしょう。でも一人じゃうまく巻けないのよ」
ルナリアが外套を手に持って、バルタザールに突き出した。顔は横を向いている。耳が真っ赤だ。
「自分で巻け」
「巻けないのよ! エルフの正装は誰かに着せてもらうのが基本なの!」
「そんな文化なかっただろ」
「1000年で変わったのよ!」
絶対に嘘だった。
バルタザールは盛大にため息をついて、外套を受け取った。
「動くな」
「わかってるわよ」
外套を肩にかけ、前を合わせ、腰の位置で紐を結ぶ。それだけのことだ。三十秒で終わる。
だがその三十秒の間、ルナリアは微動だにしなかった。息を止めていた。心臓が早鐘を打っているのが、バルタザールの手の甲に伝わってきた。
「……お前、心臓うるさいぞ」
「うるさいって言わないでよ! これは生理現象なんだから!」
「1000年前から羞恥心がゼロだったよな、お前」
「ゼロじゃないのよ! あるのよ、ちゃんと! あるから困ってんじゃない!!」
騒がしい朝だった。
外套を纏ったルナリアは、サイズが合わなくて裾を引きずっていた。バルタザールの外套は少女が着るには大きすぎる。だがルナリア本人は満更でもない顔をしていた。
「……先生の匂いがする」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったのよ!」
旅を再開する。
南へ向かう街道。焦熱の王国まではまだ遠い。だが急ぐ理由もない——とバルタザールが思っていた矢先だった。
街道の向こうから、赤い光が見えた。
地平線が赤く染まっている。夕焼けではない。朝だ。南の空が、異常な赤に燃えていた。
「……あれは」
ルナリアの表情が強張った。
「フレアよ。あの光は——焦熱の王国で何かが起きてる」
空が赤い。まるで大陸の南半分が燃えているような色だった。
バルタザールは南の空を見つめた。
「あいつ、昔から感情の制御が下手だったな」
「先生がいなくなってから、もっとひどくなったわ。あの子が一番……堪えてたと思う」
ルナリアの声が小さくなった。
バルタザールは歩く速度を上げた。
「急ぐぞ」
「え、ちょっと、速い——!」
「走れ」
「走るの!? このボロ外套で!?」
南の空が、さらに赤く燃えた。




