# 第5話「先生ぇぇ……!」
「——ちょっとそこ座れ」
師匠の声だった。
そんなはずはない。師匠は1000年前に消えた。封印とともに眠りについて、二度と目覚めないと——そう聞かされた。
だから、この男は偽物だ。
偽物に決まっている。
「我に命令するか、虫けらが」
傲慢の魔王ルナリアは玉座から立ち上がり、黒い鎧の全身から魔力を噴出させた。
大広間の床が罅割れる。天井の石材がぱらぱらと崩れ落ちる。空気が紫色に染まり、呼吸するだけで肺が灼けるほどの魔力が空間を満たしていく。
十万の軍を率いる魔王の全力の威圧。
この大陸で、それに耐えられる人間は存在しない——はずだった。
バルタザールは立っていた。
外套の裾が魔力の風に揺れている。それだけだ。表情は変わらない。姿勢も変わらない。まるで春の風に吹かれているような顔で、ルナリアを見ている。
「座れと言ったんだが」
もう一度、同じ言葉。
ただし今度は、声に重さがあった。
言葉に魔力が乗ったわけではない。威圧術を使ったわけでもない。ただ——師匠が弟子を叱る、それだけの重さが声に宿っていた。
ルナリアの膝が震えた。
黒い鎧の膝当てが軋み、がくんと折れる。
「なっ——」
傲慢の魔王が、膝をついた。
自分の意思ではない。体が勝手に従った。1000年前から骨の髄まで染み込んだ条件反射——師匠に叱られたら正座する。それが鎧越しでも発動した。
「ば、馬鹿な……! この私が……! 我が、膝を……!」
屈辱に顔を歪めながら、ルナリアは立ち上がろうとした。黒い鎧が軋む。魔力が暴走するように膨れ上がる。
「いいだろう……! 力ずくで排除する……!」
ルナリアの右手に魔力が集束した。
黒い光が渦を巻き、圧縮され、一点に凝縮されていく。大広間の空気が悲鳴を上げた。壁が、床が、天井が、全てが崩壊の兆しを見せる。
傲慢の魔王の最大魔法——「傲慢なる終焉」。
一国を滅ぼせるだけの魔力が、ルナリアの掌に収まっている。
「消えなさい……!」
黒い光球が放たれた。
大広間を、城を、山脈ごと消し飛ばすほどの一撃。
バルタザールは右手の人差し指を立てた。
指先が黒い光球に触れる。
デコピン。
ぱちん、と小さな音がした。
黒い光球が——霧散した。
風船が割れるように、あっけなく。一国を滅ぼす魔法が、指一本に弾かれて消えた。
衝撃波が光球の残滓をさらい、大広間の粉塵を吹き飛ばす。だがそれも数秒で収まった。
静寂が戻る。
ルナリアは膝をついたまま、自分の右手を見つめていた。全力の一撃だった。これ以上はない。持てる全ての魔力を注ぎ込んだ。
それが——デコピンで消えた。
「……嘘」
声が震えた。
魔王の声ではなかった。もっと幼い、もっと脆い声だった。
「嘘よ……そんなの……」
バルタザールが歩み寄ってきた。
ルナリアは反射的に後ずさろうとした。だが膝が動かない。恐怖ではなく——体が逃げることを拒否していた。
バルタザールの手が伸びてくる。
ルナリアは目を閉じた。殴られると思った。これだけのことをしたのだ。師匠の名を騙る偽物だとしても、これだけの力を持つ者に逆らえば——
指が、額に触れた。
軽く。
ぱちん。
デコピンだった。さっき魔法を消し飛ばしたのと同じ動作。ただし力は、さっきとは比べものにならないほど優しかった。
それでも——効果は絶大だった。
黒い鎧に亀裂が走った。
額のデコピンを起点に、蜘蛛の巣のように罅が広がっていく。胸当てが割れ、篭手が砕け、兜が裂ける。ルナリアの全身を覆っていた禍々しい黒い鎧が、まるで脱皮するように剥がれ落ちていく。
鎧の下から、光が溢れた。
銀色の光。月光のような、柔らかくて冷たい光が、黒い鎧の残骸を押し退けて広がる。
最後の欠片が落ちたとき、そこにいたのは——
銀色の長い髪。透き通るような白い肌。尖った耳。華奢な体。
少女だった。
1000年前と変わらない、エルフの少女がそこにいた。
黒い鎧の魔王ではなく、森の中を駆け回っていた頃のルナリアが。
少女の瞳が、ゆっくりと開いた。
紫がかった瞳。冷たい光はもう宿っていない。代わりに——涙が溢れていた。
ルナリアはバルタザールを見上げた。
見上げて——その顔を見て——唇が震えた。
「せん……せ……」
声にならなかった。
1000年分の感情が喉を塞いでいた。言いたいことが多すぎて、何一つ言葉にならない。なぜいなくなったの。どこに行っていたの。どれだけ探したかわかる? どれだけ待ったかわかる?
全部、全部言いたかった。
でも出てきたのは。
「先生ぇぇ……!!」
それだけだった。
ルナリアの体がバルタザールの胸に飛び込んだ。
細い腕が外套を掴み、顔を押しつけ、声を上げて泣いた。魔王の威厳など最初からなかったかのように、子供のように泣きじゃくった。
「会いたかった……ずっと、ずっと待ってたの……! どこにも行かないでって言ったのに……! 一人にしないでって言ったのに……!」
言葉の合間にしゃくり上げる声が混じる。銀色の髪がバルタザールの外套に広がって揺れた。
バルタザールは黙っていた。
しばらく、何も言わなかった。
それから、右手をゆっくりと上げて——ルナリアの頭に置いた。
ぽんぽん、と二回叩く。
「遅くなってすまなかったな」
それだけだった。
気の利いた言葉は出てこなかった。言い訳もできなかった。1000年間、この子を一人にした。その事実は変わらない。どんな言葉を並べても足りない。
だから、頭を撫でた。
1000年前と同じように。
ルナリアが泣き止むまで、バルタザールはそうしていた。
大広間の壁は半壊し、天井には穴が空き、床は魔力で罅割れていた。崩壊した城門の向こうでは、十万の軍勢が一人残らず地面に伏していた。
その中心で——世界最強の男が、泣きじゃくる少女の頭を撫でている。
それが傲慢の魔王の最期だった。
どれくらい経っただろう。
ルナリアの嗚咽がようやく小さくなり、しゃくり上げる間隔が長くなっていった。
「……先生」
「ん」
「本物?」
「本物だ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
「また……いなくならない?」
バルタザールは少し間を置いてから答えた。
「もう眠る理由がないからな。しばらくはいる」
「しばらく……?」
ルナリアの声が低くなった。
顔を上げる。涙で濡れた紫の瞳が、据わった目でバルタザールを見つめた。
「しばらくじゃ駄目なのよ。ずっといなさい。ずっと」
「……お前、泣いてた三秒前の顔どこいった」
「うるさいのよ! 先生が1000年もサボってたのが悪いんだから!」
ルナリアの頬が赤くなっている。涙の跡が残ったまま、目を吊り上げて怒っている。
1000年前と全く同じだった。
泣いた直後に怒り出す。恥ずかしさを怒りで隠す。バルタザールが「面倒な弟子だ」と思いながらも、一番手のかかるこの子を最初に弟子にしたのは——まあ、そういうことだ。
「わかった。とりあえず、ずっとの話は後にしろ。先にやることがある」
「やること?」
バルタザールはルナリアの手配書をポケットから取り出した。
続いて、残り六枚も。
「フレア、セラフィナ、メルダ、ヴィオラ、グリア、リリス。全員が魔王になってる」
ルナリアの顔から表情が消えた。
「……知ってるわ。みんな……私と同じで……」
「同じ?」
「気づいたら鎧が——あの黒い鎧が現れて、頭の中に声が聞こえて——」
ルナリアの声が震えた。
「『お前の師は二度と目覚めない。永遠に一人だ』って。……それを聞いたら、もう何もかもどうでもよくなって——」
バルタザールの目が細くなった。
弟子たちの絶望につけ込んで、呪縛の鎧を着せた何者かがいる。
「その声に心当たりは」
「わからない。ただ——すごく古い声だった。世界の底から響いてくるような」
デミウルゴスの欠片。
バルタザールは確信した。自分が封じた神の残滓が、弟子たちを器にしようと動いている。
だが今は——まだその話を広げるときではない。
「わかった。お前はもう大丈夫だ。残りの六人を迎えに行く」
「行くって……一人で?」
「他に誰がいる」
「私が行くのよ!」
ルナリアが立ち上がった。ふらついて、バルタザールの腕を掴んで体勢を整えた。掴んだ腕を離さないまま、真っ直ぐに師匠を見上げる。
「私も行く。先生を一人にしたら、また勝手にどこかで寝るでしょう」
「寝ないが」
「信用できないのよ! 前科があるんだから!」
前科。1000年の眠りを前科と呼ぶのはどうかと思うが、反論する材料がなかった。
「……好きにしろ」
ルナリアの顔がぱっと明るくなった。
一瞬だけ。すぐに取り繕って、澄ました顔を作る。
「べ、別に先生と一緒にいたいわけじゃないのよ。妹弟子たちが心配なだけなんだから」
「はいはい」
「はいは一回でいいのよ!」
バルタザールは崩壊した城門をくぐって外に出た。ルナリアがぴたりと隣に並んで歩く。半歩も離れない。
地面に伏していた魔王軍の兵士たちが、意識を取り戻しはじめていた。
将軍が顔を上げ、信じられないものを見る目で二人を見た。
黒い鎧の魔王が——銀髪の少女の姿で、ボロ外套の男の隣を歩いている。
「ルナリア様……?」
ルナリアは将軍を一瞥した。
「留守を任せるわ。城の修理をしておきなさい。……門は先生が壊したから、先生に請求して」
「俺のせいか」
「先生のせいよ」
二人の背中が街道の向こうに消えていくのを、十万の兵士が呆然と見送った。
次の目的地は南。
憤怒の魔王フレアが支配する焦熱の王国。
バルタザールはまっすぐ前を見て歩いていた。隣でルナリアが何か話しかけているが、適当に相槌を打っている。
あと六人。
面倒は続く。だが——隣に一人、取り戻した。
それだけで、1000年ぶりの空気が少しだけ温かく感じた。




