# 第3話「大賢者バルタザール伝説」
街道を歩きはじめて三日が経った。
銀月城塞までの道のりは、手配書の裏に書かれていた略図によれば徒歩で二週間ほど。馬を買う金はある——1000年前の金貨がまだ何枚か外套に入っている——が、馬に乗るのは面倒だった。世話をしなければならないからだ。
バルタザールは歩くのが嫌いではない。
景色が変わるのを眺めながら、ぼんやり歩く。それだけでいい。急ぐ理由もない。弟子たちが魔王をやっているのは何百年も前からだという。今さら数日早く着いたところで何が変わるわけでもない。
——と、自分に言い訳しているのは自覚していた。
正直なところ、弟子に会うのが少し気まずかった。
1000年間放置していた師匠が突然現れて「よう」と言ったところで、何を言えばいい。「すまん、寝てた」とでも?
「……言うしかないか」
ため息が出た。
三日目の夕方、街道沿いの宿場町に辿り着いた。城壁はないが、宿屋と酒場が数軒並んだ小さな町だ。旅人や商人の中継地点らしく、それなりに賑わっていた。
宿を取り、酒場に入る。
席について飯を頼んだ。前の街のエールよりはましな酒と、硬いパンと干し肉の定食が出てきた。味は可もなく不可もなく。1000年前の自分の料理の方がうまい。
黙々と食べていると、隣の席から声が聞こえてきた。
「——だからさ、大賢者バルタザールの加護があれば魔王なんか怖くねえって」
若い男の声だった。見ると、四人組の冒険者パーティが酒を飲んでいる。全員二十代前半くらい。剣士、魔法使い、弓使い、僧侶という教科書通りの編成だった。
「加護って。お前まだそんなの信じてんのか」
「信じてるっていうか、俺のばあちゃんが言ってたんだよ。大賢者様は今も世界を見守ってるって」
「1000年前の人間がまだ生きてるわけないだろ。そもそも本当にいたのかも怪しいぜ」
「いたに決まってんだろ! 歴史書にだって——」
「歴史書なんかどこまで本当かわかんねえよ」
バルタザールはパンを齧りながら聞いていた。
どうやら現代では「大賢者バルタザール」の実在すら疑われているらしい。まあ1000年も経てばそうなるか。自分だって1000年前の英雄が本当にいたと言われたら半信半疑だろう。
「でもよ、教会に伝わってる肖像画見たことあるか? 白い髭を蓄えた老賢者で、杖を持って天を指してる姿。あれかっこいいんだよなあ」
バルタザールの手が止まった。
白い髭。老賢者。杖。
一つも合っていない。
バルタザールは三十代半ばの見た目で、髭は無精髭が少し生えている程度。杖は使ったことがない。天を指すような気障なポーズはもっとない。
「盛りすぎだろ……」
思わず声に出た。
隣の冒険者たちが振り向いた。
「あ? おっさん、何か言ったか?」
「いや。なんでもない」
「大賢者様のこと馬鹿にしたのか?」
信じてないと言っていた剣士の男が、なぜか怒った顔をしている。馬鹿にされると腹が立つ程度には愛着があるらしい。面倒な心理だ。
「馬鹿にはしてない。ただ、実物はもうちょっと地味だったんじゃないかと思っただけだ」
「実物? おっさん見たことあんのかよ」
「……まあ、昔の話だ」
冒険者たちが顔を見合わせて笑った。酔っ払いのおっさんが適当なことを言っている。そう思ったのだろう。
「おっさんも冒険者か? その格好だとランクE以下だな」
「ランク外だ」
「ランク外? 新人以下じゃねえか。こんな時期に一人旅とか自殺行為だぞ。最近は魔王軍の下っ端がこの辺まで出てきてんだ」
「そうか」
「そうかって……。なあ、よかったら俺たちと一緒に行くか? 次の街まで護衛してやるよ」
バルタザールは少し考えた。
「いや、いい。足手まといになる」
「ランク外のおっさんが一人で歩く方がよっぽど——」
そのとき、酒場の扉が蹴破られた。
「魔物だ! 町の外に魔物の群れが——!」
血まみれの男が転がり込んできた。町の見張りらしい。左腕が不自然な角度に曲がっている。
酒場が一瞬で騒然となった。
冒険者たちの顔が変わる。さっきまでの気楽な表情が消え、剣士が立ち上がり、魔法使いが杖を握り、弓使いが矢筒を確認する。
「数は!?」
「わからねえ……百は超えてる……! 見たこともない大型種だ……!」
「百!?」
剣士の顔が青ざめた。四人パーティで百体を超える魔物は無理だ。それもわかっていて、だが逃げるわけにもいかない。町には住人がいる。
「行くぞ。できるだけ時間を稼ぐ」
剣士が仲間に声をかけ、酒場を飛び出していった。僧侶が見張りの男の手当てをしながら叫ぶ。
「住民は避難を! 地下室がある家はそこへ!」
バルタザールはカウンターに座ったまま、干し肉の最後の一切れを口に入れた。
もぐもぐと咀嚼して、飲み込む。
「……飯くらい静かに食わせてくれ」
立ち上がった。
外に出ると、町の柵の向こうに魔物の群れが見えた。百どころではない。二百は超えている。先ほどの農村のものより二回りは大きい個体ばかりだ。牙と爪が月明かりに光っている。
四人の冒険者が柵の前に立っていた。剣士が剣を構え、魔法使いが詠唱を始めている。弓使いが矢を番えたが、手が震えていた。
バルタザールは四人の横を通り過ぎ、柵の外に出た。
「おい、おっさん! 何やってんだ、死ぬぞ!」
剣士が叫んだ。
バルタザールは振り返らなかった。
魔物の群れが一斉に突進してくる。地面が揺れるほどの足音。二百の牙が一人の男に向かって殺到する。
バルタザールはあくびをした。
大きく口を開けて、目に涙が浮かぶくらいの、盛大なあくびだった。
その瞬間、衝撃波が走った。
あくびの息が空気を震わせ、それが拡散し、増幅し、暴風となって魔物の群れを呑み込んだ。二百体を超える大型魔物が、紙くずのように宙を舞い、町の遥か向こうまで吹き飛ばされていく。
数秒後、静寂が戻った。
町の前の平原に、魔物は一匹も残っていなかった。地面に巨大な扇状の溝ができている。草が根こそぎ吹き飛ばされ、向こうの丘の形が少し変わっていた。
バルタザールは口元を拭った。
「……すまん、あくびが出た」
振り返ると、四人の冒険者が柵の前で固まっていた。
剣士は剣を構えたまま石のように動かない。魔法使いは詠唱を途中で忘れて口をぱくぱくさせている。弓使いは矢を取り落としていた。僧侶は膝から崩れている。
「……は?」
剣士が最初に声を出した。
「今、何した?」
「あくび」
「あくびで二百体消し飛ぶわけねえだろ!!」
「声が大きい。近所迷惑だ」
町民がおそるおそる窓から顔を出しはじめていた。何が起きたのかわからない。ただ魔物がいなくなっていることだけはわかる。
バルタザールは酒場に戻ろうとした。飯の続きがまだある。
「待て待て待て! おっさん何者だ!? ランク外って嘘だろ!?」
「ランク外は本当だ。前例がないと言われた」
「そりゃそうだろ……!」
剣士がようやく剣を下ろし、仲間と顔を見合わせた。全員の目が同じことを言っていた。——化け物だ、このおっさん。
「なあ、おっさん。あんた本当に何者だ。名前だけでも教えてくれ」
バルタザールは少し迷った。
名前を出せば面倒になる。ならないかもしれない。なにしろ現代人の大半は大賢者の実在を信じていないのだ。本名を名乗ったところで「変わった名前だな」で済む可能性が高い。
「バルタザールだ」
「バルタザール? ……ん? なんか聞いたことある名前だな」
「大賢者と同じ名前だ!」と弓使いが叫んだ。
一瞬の沈黙。
それから四人が同時に笑った。
「はは、すげえ名前つけられたな、おっさん! 親が大賢者のファンだったのか?」
「……まあ、そんなところだ」
バルタザールは曖昧に頷いて、酒場に戻った。
カウンターの上には、先ほどの飯がまだ残っていた。冷めたパンを齧りながら、壁に貼られた一枚の絵を見上げる。
白髪の老人が杖を天に掲げている絵だった。下に『大賢者バルタザール様のご加護を』と書かれている。
「……誰だよ、これ」
似ても似つかない自分の肖像画に、バルタザールは心底めんどくさそうな顔をした。
そして翌朝。旅立つバルタザールの背中を、四人の冒険者が遠くから見送っていた。
「なあ……本当にただのおっさんだと思うか?」
「思うわけねえだろ。だがあれが大賢者バルタザール本人だってのはもっとありえねえ」
「……だよな」
四人は顔を見合わせて、首を傾げた。
バルタザールはそんなことも知らず、一人で街道を歩いていた。
銀月城塞まで、あと十日ほど。
最初の弟子の顔を思い浮かべながら——何を言えばいいか、まだ決まらないまま。




