# 第2話「手配書の衝撃」
結局、農地は借りられなかった。
理由は単純だ。村人たちが怖がっている。魔物を手振り一つで全滅させた男に「うちの畑使っていいよ」と言える胆力の持ち主は、この小さな農村にはいなかった。
「……まあ、そうなるか」
バルタザールは村を出た。
村長だけが見送りに来て、深々と頭を下げた。「命を救っていただいた恩は忘れません」と言いながら、明らかにほっとした顔をしていた。早く出ていってくれという本音が透けていたが、バルタザールは気にしない。慣れている。1000年前からこうだった。
街道を歩く。
道は整備されていた。1000年前に比べると格段にいい。石畳が敷かれ、要所に道標が立っている。すれ違う馬車の数も多い。文明は確実に進んでいるらしい。
半日ほど歩くと、街が見えてきた。
城壁に囲まれた中規模の街で、門の前に衛兵が立っている。バルタザールが近づくと、衛兵の一人が怪訝そうな顔をした。
「おい、おっさん。身分証は?」
「ない」
「冒険者登録証は?」
「ない」
「商人免許は?」
「ない」
衛兵が露骨にため息をついた。
「なんも持ってないのかよ。今どき身分証なしで街に入れると思ってんのか?」
「1000年前は自由に入れたぞ」
「はぁ?」
衛兵が意味がわからないという顔をした。当然だろう。バルタザールは「まずいことを言った」と思ったが、訂正するのも面倒だった。
「冒険者ギルドで登録すれば入れるんだな」
「まあ……門前のギルド出張所で仮登録はできるが」
「じゃあそうする」
門の脇にある小さな建物。冒険者ギルドの出張所と書かれた看板がかかっていた。中に入ると受付に若い女性が座っている。
「冒険者登録ですか?」
「ああ」
「では筆記試験と実技試験を受けていただきます。筆記は基礎知識の確認で、実技は簡単な模擬戦闘です。初心者の方でも安心してくださいね」
にこやかな笑顔だった。ボロ外套の中年男を完全に初心者だと思っている。
筆記試験は十五分で終わった。満点だった。
受付の女性が答案を二度見した。
「え……あの、この問題、ギルド職員でも間違える人がいるんですけど」
「常識だろ」
常識ではない。少なくとも現代の常識ではなかった。古代魔法理論や失われた魔物の生態系に関する設問は、学者でも回答に詰まるレベルのものが混じっていた。バルタザールにとっては「昨日まで」の常識だったが。
問題は実技だった。
出張所の裏手にある訓練場。対戦相手として出てきたのは、筋肉質の大男だった。試験官らしい。腰に剣を佩き、体格はバルタザールの倍近い。
「手加減はしねえぞ、おっさん」
「ああ、頼む。こっちも手加減するから」
「……舐めてんのか?」
試験官が踏み込んだ。速い。この街の衛兵や冒険者の中では上位の実力なのだろう。剣が鋭い軌道でバルタザールの胴を狙う。
バルタザールは体を半歩ずらした。
剣が空を切る。試験官が目を見開く間もなく、バルタザールの人差し指が男の額に触れた。
軽く、弾く。
デコピン。
試験官の巨体が三メートルほど吹き飛び、訓練場の壁に背中からぶつかった。壁にヒビが入る。試験官は白目を剥いて崩れ落ちた。
「……やりすぎたか」
バルタザールは首を傾げた。これでも相当手加減したつもりだった。
騒ぎを聞きつけて出てきたギルド出張所の所長——恰幅のいい中年男が、壁に埋まりかけた試験官と、ボロ外套の男を交互に見た。
「……何があった」
「実技試験」
「試験でこうなるか普通」
所長はしばらく腕を組んで考え込んだ後、一枚のカードをバルタザールに差し出した。
「ランク外の特例認定だ。SSランクのさらに上。前例がない」
「別にランクなんかどうでもいいんだが」
「こっちの管理上必要なんだよ」
所長は疲れた顔をしていた。
冒険者カードを手に入れたバルタザールは、ようやく街の中に入ることができた。
目的は宿と飯。それだけだ。
街は賑わっていた。露店が並び、人々が行き交い、どこかで子供が笑っている。平和な光景だ。1000年前、魔物と人が絶えず争っていた時代に比べれば、はるかに穏やかな世界になっている。
「悪くない」
バルタザールは少しだけ口元を緩めた。
自分が眠った甲斐はあった。神を封じ、世界に平和をもたらした。その結果がこの街の日常だ。弟子たちもきっと、この平和な世界でそれぞれの人生を——
足が止まった。
酒場の入り口。壁に掲示板がある。討伐依頼や情報提供の張り紙が所狭しと貼られている。その中央に、ひときわ大きな紙が七枚並んでいた。
手配書だった。
『傲慢の魔王——ルナリア』
『憤怒の魔王——フレア』
『強欲の魔王——セラフィナ』
『怠惰の魔王——メルダ』
『嫉妬の魔王——ヴィオラ』
『暴食の魔王——グリア』
『色欲の魔王——リリス』
七枚の手配書に描かれた七つの顔。
バルタザールは一枚ずつ見た。見間違いであってほしいと思いながら、一枚ずつ丁寧に確認した。
見間違いではなかった。
どの顔も知っている。どの名前も覚えている。1000年前、自分の背中を追いかけてきた少女たちの顔と名前だ。
「ルナリア……フレア……セラフィナ……」
声が低くなっていく。
「メルダ、ヴィオラ、グリア、リリス——」
最後の名前を読み終えたとき、バルタザールの手が掲示板の縁を掴んでいた。
握る力が少し入っただけで、分厚い木の板が軋み、ひび割れ、粉砕された。手配書が舞い散る。
「——全員俺の弟子じゃねえか」
酒場の前を通りかかった冒険者たちが、突然掲示板を破壊した男を見て悲鳴を上げた。衛兵が駆けつけてくる。バルタザールはそんな騒ぎに気づいた様子もなく、舞い落ちる手配書の一枚を拾い上げた。
ルナリアの手配書だった。
銀色の長い髪。尖った耳。凛とした目。1000年前と変わらない。ただし纏っている鎧は禍々しい黒で、瞳の奥に冷たい光が宿っていた。あの頃にはなかったものだ。
「……なんでだ」
バルタザールは呟いた。
あいつらが魔王になる理由がない。少なくとも自分が知っている弟子たちは、そんな器ではなかった。力はあった。才能もあった。だが魔王になるような「闇」は、誰一人として持っていなかったはずだ。
何かがあった。
自分が眠っている間に、何かが起きた。
「……俺のせいか」
弟子を置いて1000年眠った。その間にあいつらに何があったのか、今の自分にはわからない。わからないが——放っておけるはずもない。
バルタザールは手配書を外套のポケットにねじ込み、酒場の扉を開けた。
カウンターに座り、酒を一杯頼む。出てきたエールを一口飲んで、吐き出した。
「まずい」
「うちの看板商品なんだが」
店主が傷ついた顔をしたが、バルタザールは構わなかった。
「魔王について詳しい話を聞きたい。誰に聞けばいい」
「魔王? そりゃあんた、七魔王のことか。最近じゃ子供でも知ってるぜ。もう何百年も大陸を分割支配してる化け物どもだ」
何百年。
その言葉が、バルタザールの胸に突き刺さった。
何百年も、あいつらは魔王をやっている。何百年も、誰にも止めてもらえずに。
「……俺のせいだな」
今度は確信を持ってそう言った。
エールをもう一口飲んだ。やはりまずかった。だが今度は吐き出さず飲み込んだ。
「めんどくさいが……責任はとるか」
席を立つ。
店主が「金払え」と叫んだが、バルタザールは外套のどこかから古い金貨を一枚取り出してカウンターに置いた。1000年前の金貨だ。骨董品としての価値だけで、この酒場を丸ごと買えるだろう。
店主が金貨を見て固まっている間に、バルタザールは酒場を出た。
西の空が赤く染まりはじめていた。
最初に向かうのは、最も近い魔王の領域。手配書の情報によれば、ここから北西——「銀月城塞」。
傲慢の魔王、ルナリア。
自分が最初に弟子にとった少女の名前だ。
「待ってろ。今から迎えに行く」
バルタザールは街の門をくぐり、夕暮れの街道を歩きはじめた。
——1000年ぶりの出勤が、始まった。




