# 第1話「1000年後の朝」
目が覚めた瞬間、最初に思ったのは「腰が痛い」だった。
石の上で寝ていたのだから当然だろう。もっとも石棺と呼ばれるくらいだから、石の上どころか石の中で寝ていたわけだが。
バルタザールはゆっくりと体を起こした。
分厚い石の蓋が内側から押し開けられ、鈍い音を立てて床に落ちる。おそらく五百キロはあるそれが砕けもせずに転がっていくのを、彼はぼんやりと眺めた。
「……起きたか」
自分で言って、少し笑った。
封印が解けている。それがわかった。体の奥底で感じていた重さ——神を縛るために使い続けていた魔力の綱——がすっかり消えている。
1000年前、バルタザールは一人で神と戦った。
正確には「神の成れの果て」だ。原罪の神などと大層な名で呼ばれていたが、要するに世界の理から外れた存在が膨れ上がって、人も魔物も関係なく喰らいはじめた。誰も手が出せなかった。当然だろう、相手は神だ。
だからバルタザールが一人で出向いて、封じた。
完全には倒せなかった。あれだけの存在を消滅させるには、自分ごと燃やし尽くすしかない。それは嫌だったので、代わりに深く深く縛りつけて、その封印を維持するために自分も眠りについた。
封印が解けたということは、1000年が経過したということだ。
「長かったな」
声に出してみると、思ったより実感がない。
埃だらけの祭壇の間。かつては厳かな儀礼の場だったのだろうが、今は天井が一部崩れて空が見えていた。差し込む光が朝のものだとわかる。
バルタザールは腕を一振りして全身の埃を払い、石棺から降りた。足の裏に冷たい石畳の感触。
「いい朝だ」
誰に言うでもなく呟き、崩れた壁の隙間から外へ出る。建物の周囲はすっかり森に飲み込まれており、もとの建物が何だったのか原形をとどめていない。石段と思われる段差を踏みながら降りると、木々の間から開けた空が見えた。
晴れていた。
風が草の匂いをはこんでくる。遠くで鳥が鳴いている。どこかで川が流れる音もした。
「いいな」
バルタザールは満足そうに息を吸い込んだ。
1000年ぶりの空気だとは思えないほど自然にそれをやりながら、彼はゆっくりと歩きはじめた。目的地は特にない。ただ「どこかに村くらいあるだろう」という見当だけを頼りに森の中を歩く。
装備はない。1000年前に身につけていた外套一枚がそのままの状態で残っていたが、あちこちがほつれており、正直みすぼらしいことこのうえない。武器も持っていない。
「スローライフ」というのが、彼の漠然とした目標だった。
具体的には——畑を耕して、野菜を育てて、採れた野菜で飯を作る。たまに川で魚を釣る。昼寝をする。あとは何もしない。
1000年分の疲れをとるには、それくらいがちょうどいい。
森を抜けて緩やかな丘に出たのは、歩きはじめてから小半時ほど経った頃だった。
丘の上から見渡すと、谷間に農村らしきものが見える。煙突から煙が出ていた。人が住んでいる証拠だ。
「あそこで農地でも借りるか」
バルタザールは気軽に考えながら丘を下りはじめた。
しかし。
村に近づくにつれて、何かがおかしいと気づいた。
まず匂い。煙の中に、木が燃える匂い以外のものが混じっている。次に音。風の間から、かすかに叫び声が聞こえてくる。
バルタザールは足を止めた。
目を細めて村の方角を見る。
丘の下、農村の外れに、魔物の群れがいた。
数は——ざっと見て、五十かそこら。体長二メートルを超える大型の魔物が家屋に群がり、作物を踏み荒らし、逃げ惑う村人を追いかけている。農夫が投げた鍬が魔物の頭に当たったが、傷一つつかなかった。それどころか逆に魔物の怒りを買い、男が大きな腕に吹き飛ばされる。
「助けてくれ!」
誰かが叫んでいた。
女が子供を抱えて走っている。家が一軒、炎に包まれていく。
バルタザールは五秒ほど眺めてから、小さく息を吐いた。
「……めんどくさいな」
呟いた言葉はそれだったが、足はもう動いていた。
歩く速度は変わらない。急ぎもせず、かといって止まりもせず、ただ真っ直ぐに村へ向かって丘を下りていく。
最初に気づいたのは、群れの後方にいた魔物だった。
人間が一人、こちらへ歩いてくる。老いた外套を纏っただけの男で、武器も持っていない。食料としては少々小さいが悪くもない。魔物は四足で地面を蹴り、唸り声を上げながら突進した。
バルタザールは立ち止まらなかった。
右手を軽く振る。ただそれだけだ。
次の瞬間、五十頭の魔物が全員、一斉に吹き飛んだ。
音は——風の音に近かった。強いて言えば、それが少し大きくなったような。しかし結果は「大嵐」と呼ぶより他にない状態で、魔物たちは家屋を飛び越えて村の外まで吹き飛び、草むらに埋まり、遠くの木に激突し、二度と起き上がらなかった。
静寂が落ちた。
村人たちが、全員固まっていた。
炎に包まれかけていた家屋の前で、バケツを持ったまま動けない老人がいた。子供を抱えたまま走るのをやめた母親がいた。鍬を構えたまま宙を見つめる農夫がいた。
バルタザールはそんな彼らの間をゆっくりと歩きながら、燃えている家を一瞥した。
「火事」
言いながら手のひらを向けると、炎がすっと消えた。まるでろうそくを吹き消すように、あっさりと。
そのままバルタザールは村の中心部まで歩いて行き、広場の端に腰を下ろした。
「……村長か代表者はいるか。農地を貸してほしいんだが」
静まり返った広場に、その声だけが響いた。
村人たちはしばらく誰も動かなかった。
最初に口を開いたのは、広場の端に立っていた白髪の老人だった。村長らしく、年の割にしっかりとした目をしている。それでも声はわずかに震えていた。
「……あなたは、いったい何者ですか」
バルタザールは少し考えてから答えた。
「通りすがりだ」
また沈黙が落ちた。
村人たちが顔を見合わせる。その視線の中に、純粋な恐怖が混じっているのを、バルタザールは見逃さなかった。魔物に向けられていたそれと、質の似た恐怖が。
「やっぱりめんどくさいことになるな、これ」
誰にも聞こえない声でそう呟いて、彼は空を見上げた。
青い。よく晴れた朝だった。
神を封じるのに1000年かかった。そのことに後悔はない。ただ——眠っている間、弟子たちはどうしていたのだろうと、今更ながら思った。
あいつらのことだ、うまくやっているだろう。
バルタザールはそう結論づけて、目を閉じた。
その答えが翌日、真っ向から裏切られるとは、このときはまだ知らなかった。




