# 第23話「世界がざわめく」
すいません。更新止まっていました。再開します。
七魔王のうち、五人が消えた。
大陸が揺れていた。
傲慢の魔王が消え、銀月城塞の周辺に交易路が復活した。何百年も迂回を強いられていた商人たちが、我先にと旧街道に殺到している。
憤怒の魔王が消え、焦熱の王国跡地に草が生えはじめた。大地が冷え、風が種を運び、緑が戻りつつある。入植希望者が各国から押し寄せている。
強欲の魔王が消え、黄金天宮の墜落跡地が観光名所化しかけていた。黄金の破片を拾いに来る者が後を絶たない。
怠惰の魔王が消え、錬金汚染に覆われていた土地が回復しはじめている。
嫉妬の魔王が消え、影に覆われていた森に日光が戻った。
世界は変わりつつあった。
だが——各国の王宮は喜んでいなかった。
「あと二人の魔王が消えたら。あの男は何をするのか」
「味方か敵かわからない存在が、最も危険だ」
「手を振れば軍が吹き飛ぶ。あくびで魔物が消し飛ぶ。宮殿を落としても被害を最小限に抑える——つまり制御できている。制御できる力がこちらに向いたら、誰にも止められない」
各国の首脳が、同じ結論に至っていた。
聖騎士シルヴィア・レインは馬上で報告書を書いていた。
揺れる馬の背で、それでも字が乱れない。訓練の賜物だ。
『対象はバルタザールと名乗る男。推定年齢三十代半ば。ボロい外套を着用。武器の所持なし。元魔王と思われる女性五名を同行させている』
ペンが止まった。次の一文を書くのに、三秒かかった。
『戦闘力は——報告書に記載するのが困難であります』
困難。聖騎士の報告書に書く言葉ではない。だが事実だった。
ギルドの記録。各地の証言。衛兵の報告。冒険者の噂。全てを照合した結果が——「人間の範疇を超えている」だった。
手を振って魔物五十体殲滅。あくびで二百体消滅。十万の軍勢を歩いて突破。竜化した魔王を素手で制圧。空中宮殿から落下して無傷。
一つ一つは信じがたい。だが全てが同一人物の行為だという証言が、独立した複数の情報源から出ている。
シルヴィアは最後の一文を書いた。
『対象が大賢者バルタザール本人である可能性を——排除できません』
報告書を封じ、伝令鳩に括りつけた。鳩が飛んでいく。
上官は「1000年前の人間が生きているはずがない」と言うだろう。自分もそう思う。だが現場の証拠が、それ以外の説明を許さなかった。
シルヴィアは馬を走らせた。対象との距離はあと数日分。
大陸の片隅の酒場では、四人組の冒険者が酒を飲んでいた。
「なあ、聞いたか。五人目の魔王も消えたって」
「ああ。嫉妬の魔王。あのおっさんだろうな」
「おっさんって言うなよ。あくびで二百体消し飛ばした人だぞ」
「でもおっさんだったろ。見た目は」
「……なあ。あのおっさん、大賢者バルタザールと同じ名前だったよな」
「ああ。親が大賢者のファンだって——」
四人が顔を見合わせた。
「……ファンか? あれ、本当にファンか?」
「本物の大賢者ってことはないよな」
「ないだろ。1000年前の人間だぞ」
「……だよな」
誰も否定しなかった。否定できなかった。
当の本人は、図書館にいた。
学術都市リベルタス。大陸最古の図書館を擁する街。石造りの建物が並ぶ静かな街並みの中央に、巨大な図書館がそびえていた。
バルタザールの足が止まった。
「……図書館か」
もう誰も驚かない。弟子五人が一斉にため息をついた。
「1000年前にもあったな。あの頃は羊皮紙が五十枚くらいしかなかったが」
ルナリア「あー……そうだった。手書きで全部写してたのよね」
フレア「先生、夜中にずっと書いてたの覚えてる。インクの匂いがしてた」
メルダ「私の教科書も先生が手書きしてくれた……めんどくさかったでしょ」
バルタザール「めんどくさかった」
図書館の扉を開けた。
中に入って、バルタザールは立ち尽くした。
壁一面の書架。天井まで届く本棚が何列も並んでいる。何万冊という蔵書が、分類され、番号を振られ、整然と収められていた。
「……すごいな」
素直な感嘆だった。大賢者の威厳もへったくれもない。子供のような顔をしている。
弟子たちは師匠が図書館に消えていくのを見送った。こうなると出てこない。1000年前もそうだった。
「先生、私たちは買い物してくるわね」
ルナリアの声が聞こえたかどうかも怪しい。バルタザールは既に古代魔法理論の棚に向かっていた。
棚の端から順に背表紙を読んでいく。指が一冊の本で止まった。
古い。紙ではなく羊皮紙。インクが薄れかけている。1000年以上前のものだ。
手に取って開いた。
表題——『原罪の神を滅する術式についての考察』
バルタザールの目が変わった。楽しんでいた目ではない。鋭い目。戦う時の目だ。
頁をめくる。古代語で書かれた理論が並んでいる。
封印ではなく、消滅。完全に存在を抹消するための術式の理論。
断片だった。術式の全容は書かれていない。冒頭の理論部分と、素材に関する記述の一部だけ。残りは「安全のため、別の場所に分散して記録した」と末尾に注記がある。
「先生、何か見つけたの?」
セラフィナが戻ってきていた。バルタザールの表情が変わったのを見て、一人で引き返してきたらしい。
「……消滅の術式の断片だ」
「消滅? 封印ではなく?」
「ああ。完全に消す方法の——理論だけだが」
セラフィナの目が見開かれた。
「1000年前、俺はこれに辿り着けなかった。だから封印するしかなかった。あの時は力任せに縛りつけるのが精一杯で——」
「今は見つけた。ということは——完成させる手がかりが?」
「断片だけだ。術式の全容にはほど遠い。だが——方向は見えた」
バルタザールは文献を閉じた。
先日、鍛冶屋から聞いた星鉄の話。伝説の素材。そして今、消滅の術式の断片。二つの点が、まだ繋がらない。だが同じ線の上にあることは感じていた。
「この文献、借りていく」
「先生、それ図書館の蔵書よ。持ち出し禁止では——」
「1000年以上前の俺の知人が書いた文献だ。借りる権利はある」
「ないわよそんな権利」
結局、バルタザールは図書館の司書に頭を下げて(セラフィナが代わりに頭を下げて)写本の許可をもらった。バルタザールが写すのは速い。1000年前から鍛えた写本技術が、こんなところで活きた。
学術都市を出た。
街道を南西に向かう。次の目的地はまだ決まっていない。暴食の魔王グリアか、色欲の魔王リリスか。情報を集めながら進む。
街の外れで、バルタザールがまた足を止めた。
弟子五人が諦めの表情で見守る中、バルタザールは街道沿いの平原を眺めていた。
広い土地だった。
なだらかな丘陵が続き、遠くに川が見える。草原が風に波打っている。空が広い。気候は穏やかで、日当たりが良い。
バルタザールがしゃがみ込んで土を取った。いつもの動作。匂いを嗅ぎ、指で零し、舌で僅かに舐めた。
「……かなりいい」
目が輝いていた。本屋や図書館と同じ目。だがこちらの方がもっと真剣だった。
「土が深い。腐葉土が厚く堆積してる。水源も近い。広さは十分だ。ここなら——六人どころか十一人でも住めるし、畑も——」
「先生」
ルナリアが横に立った。
「ここ、気に入ったの?」
「ああ。今まで見た中で一番いい。だが——」
バルタザールは地図を広げた。
指が二点を示した。この土地の南東——暴食の魔王グリアの領域。北——色欲の魔王リリスの領域。
「魔王の領域に挟まれてる。今は問題ないが、呪縛が解けるまでは安全とは言えない」
ルナリアが頷いた。
「全員回収してからね」
「ああ」
バルタザールは地図を畳んだ。立ち上がって、もう一度だけ平原を見渡した。
「……全員回収したら、もう一度来るか」
五人の顔がぱっと明るくなった。
フレア「先生と一緒に住むの!?」
セラフィナ「まあ……先生が選んだ土地なら、住んであげてもいいわ」
メルダ「畑……先生がやるなら……私は寝てる……」
ルナリア「わ、私は別に先生と住みたいわけじゃ——住環境の効率化として——」
ヴィオラだけが黙っていた。
「……十一人で住むの?」
小さな声だった。
バルタザール「最終的にはそうなるな。まだ六人増える」
「……十一人」
複雑な顔をしていた。先生と住めるのは嬉しい。だが十人の弟子と一緒に住むということは——先生を独り占めできる時間がさらに減る。
バルタザールはヴィオラの頭に視線を向けた。触れない。ただ見た。
「お前の部屋は、俺の部屋の隣にする」
ヴィオラの瞳が揺れた。
「……いいの」
「壁越しに気配がわかるだろう。お前は、それで安心できる」
ヴィオラの外套を掴む指先が、少しだけ強くなった。
夜。
弟子たちが寝た後、バルタザールは一人で座っていた。
膝の上で図書館の写本を広げている。月明かりで文字を読む。古代語の術式理論。消滅の術式。
「消滅の術式か」
呟いた。
「1000年前はこれに辿り着けなかった。力任せに封じるのが精一杯だった」
星を見上げた。
セラフィナの精神世界で学んだことを思い出す。力では砕けない鎧があった。メルダの城では料理で起こした。ヴィオラには言葉と時間で向き合った。
力ではない手段で、弟子を救ってきた。
「力だけでは足りない。1000年前と同じ轍は踏めない」
写本を閉じた。
「あいつらに教えられてるな。……師匠が弟子に」
苦笑が浮かんだ。だがその表情には、1000年前にはなかった穏やかさがあった。
デミウルゴスを倒すために、力だけでは足りない。かつてはそれしかなかった。だが今は——別の何かが、少しずつ見えはじめている。
その「何か」が何なのか、まだわからない。だが方向は——見えた。
翌朝。
出発の準備をしていたバルタザールが、空気の変化に気づいた。
「……変わったな」
ルナリア「何が?」
「空気だ。南東と北。残りの二人——呪縛が濃くなってる」
五人の弟子の表情が引き締まった。
セラフィナが腕を組んだ。
「デミウルゴスが学習してるのよ。五人失ったら、残りは死守する。次はもっと厄介になるわ」
ルナリア「今までとは違う呪縛が来るってこと……?」
バルタザール「ああ。だが——行かない理由にはならない」
荷物をまとめ、街道に出た。
六人が歩きはじめた——その時だった。
街道の向こうに、砂埃が上がっていた。
馬の蹄の音。一頭。速い。まっすぐにこちらへ向かってきている。
バルタザール「……来たか」
ルナリア「何が来たの?」
砂埃の中から、銀色の光が現れた。
白馬だった。その上に——銀色の鎧を纏った女騎士が跨っている。
短く切り揃えた銀髪。鋭い碧眼。引き締まった顎。背筋は定規で測ったように真っ直ぐ。全身の銀色の鎧が朝日を弾いて輝いている。
馬が止まった。街道の真ん中で、バルタザール一行の前に立ちはだかる。
女騎士が馬上から一行を見下ろした。
ボロ外套の中年男。その周囲に、銀髪のエルフ、赤髪の竜人、金髪の天使、茶髪の小柄な少女、黒髪の寡黙な少女。
女騎士の瞳が一瞬だけ揺れた。元魔王が五人。この目の前に。だがすぐに表情を引き締め、凛とした声で告げた。
「バルタザールと名乗る者はどなたでありますか」
声が街道に響いた。
バルタザールは弟子たちの前に立ったまま、女騎士を見上げた。
「……俺だが」
聖騎士シルヴィア・レイン。
王命を帯びた追跡者が、ついに追いついた。




