# 第22話「距離と体温」
六人になった。
宿屋の食卓に六つの皿が並んでいる。バルタザールの右にルナリア、左にフレア、正面にセラフィナ、膝にメルダ。
ヴィオラはバルタザールの真後ろに座っていた。
自分の椅子を師匠の椅子にくっつけて、背中合わせに座っている。
「ヴィオラ、なんでそこに座ってるの」
ルナリアがパンを齧りながら聞いた。
「……先生の背中が見える」
「隣に来ればいいじゃん」
フレアが手招きした。
「……隣は他の人がいる」
「真後ろって、先生の顔が見えないでしょう」
セラフィナがスープを啜りながら指摘した。
「……背中でいい。先生の体温がわかるから」
全員が沈黙した。
ヴィオラの距離感に対するツッコミを、誰も見つけられなかった。顔は見ないが体温は感じたい。その感覚は五人の中で誰にも共有できなかった。
バルタザールの背中に、じんわりと熱が伝わってきていた。ヴィオラの体温だ。影の子は体温が低い。だが低いなりに、確かにそこにいる。
「背中が熱い。もう少し離れろ」
「……嫌」
離れなかった。
街道を歩く。六人体制。
隊列が独特だった。バルタザールが先頭。その半歩後ろにヴィオラ。外套の端を指先で掴んだまま。さらに後ろにルナリア、フレア、セラフィナが横に並び、最後尾でメルダがふらふら歩いている。
ヴィオラの立ち位置は徹底していた。バルタザールの半歩後ろから動かない。そしてバルタザール以外の人間とは距離を取る。
ルナリアが話しかけようと近づくと、ヴィオラが一歩退く。フレアが横に来ようとすると、影が濃くなって溶けかける。セラフィナが振り返ると目を逸らす。
だがバルタザールにだけは近い。異常に近い。
歩いている最中、バルタザールが地図を確認するために足を止めた。
背中にぶつかった。
「……先生が急に止まるから」
「お前が近すぎるんだ」
「……近くない」
近い。明らかに近い。だが本人にその自覚がないのか、あるのに認めないのか。
三日間の旅が続いた。
ヴィオラの距離は少しずつ変わっていった。
初日は五十センチ。二日目は四十センチ。三日目は三十センチ。数字で言えばわずかな差だ。だがヴィオラにとっては、一センチが一歩分の勇気だった。
夜はいつも同じだった。
他の弟子が寝た後、ヴィオラがバルタザールの隣に来る。
座る。肩は触れない。でも近い。
何も言わない。ただ隣にいる。
初日の夜。
バルタザールが聞いた。
「寝ないのか」
「……先生が寝たら寝る」
「見てるのか」
「……見てる」
バルタザールは目を閉じた。寝たふりをした。
数分後。ヴィオラの重みがかすかに肩に触れた。頭を預けている。触れるか触れないかの、羽より軽い重さ。
「……あったかい」
声は息に近かった。
バルタザールは動かなかった。目を閉じたまま、寝たふりを続けた。起きていることは多分ばれている。でもそれでいい。
二日目の昼。
ルナリアがバルタザールの横に並んで、小声で話しかけた。
「先生。ヴィオラのこと、しばらくそっとしておいた方がいいかしら」
「なぜそう思う」
「あの子、私たちの前で先生に甘えられないんでしょう。嫉妬の呪縛は解けたけど……嫉妬の感情はまだ残ってる」
バルタザールは前を見たまま答えた。
「……鋭いな」
「第一弟子ですから」
ルナリアが少しだけ胸を張った。1000年ぶりに弟子同士の関係を取り戻しつつある。
「私たちが先生にくっつくのを、あの子は見てる。見て、苦しんでる。呪縛じゃなくても——嫉妬は消えないものよ」
「お前もか」
「……私のは嫉妬じゃないのよ。第一弟子としての正当な権利の主張よ」
「同じだろう」
「違うわよ!」
フレアは別のアプローチだった。
昼食の時、ヴィオラから離れた場所で食べていたフレアが、こっそり近づいた。
「ヴィオラ姉」
ヴィオラが身構えた。
フレアが干し肉を差し出した。
「これ、おいしいよ。先生が味付けしたやつ」
「……」
ヴィオラは数秒間その肉を見つめてから、指先で受け取った。口に入れる。咀嚼する。
「……おいしい」
「でしょ」
フレアの尻尾がぶんぶん振れた。それだけ。会話を広げようとはしなかった。距離を詰めず、肉だけ渡して戻っていく。フレアなりの気遣いだった。
セラフィナは直接的だった。
「ヴィオラ、提案があるの」
「……」
「先生の隣は時間制にすべきだと思うの。公平性の観点から——」
「……嫌」
「即答!? 聞きなさいよ最後まで!」
「……先生の隣は譲らない」
「あなたねえ——」
「……先生だけ」
セラフィナが口を閉じた。あの二文字を聞くと、何も言えなくなる。
メルダが一番自然だった。
バルタザールの膝の上で寝転がりながら、ぼそりと聞いた。
「ヴィオラ姉、先生のそば好きなの?」
「……うん」
「じゃあ先生の背中はヴィオラ姉にあげる。私は膝がいい」
「……ありがとう」
「ん。おやすみ」
メルダは寝た。会話終了。何の摩擦もなく、背中の権利が譲渡された。
五人の弟子が、不器用にヴィオラを受け入れていく。修羅場ではなかった。もっと静かで、もっと不器用な、共存の始まりだった。
三日目の夜。
全員が寝ていた。
バルタザールも珍しく眠っていた。四人を残して一人でヴィオラに会いに行った夜から、ほとんど寝ていなかった。疲労が限界に来ていたのだろう。木に寄りかかって、穏やかな寝息を立てている。
右肩にルナリア。左肩にフレア。膝にメルダ。少し離れてセラフィナが翼に包まって寝ている。
ヴィオラは背中側にいた。木の幹の反対側。バルタザールと背中合わせの位置。
目を開けていた。
寝られない。
影の中で、目を開けている。暗闇の中で、師匠の寝息を聞いている。木の幹越しに、背中の温度を感じている。
見えなかった。背中合わせだから、師匠の顔は見えない。
見たい。
影に溶けた。音もなく。
木の幹を回り込んで、バルタザールの正面に移動した。他の弟子たちの隙間を縫って、師匠の顔の前に。
寝顔が見えた。
月明かりに照らされた顔。目を閉じている。無防備な顔。起きている時のぶっきらぼうさが消えて、穏やかで、少しだけ疲れた顔。
三十センチ。二十センチ。十センチ。
近づいていた。自分でも気づかないうちに。
手が伸びていた。
バルタザールの頬に向かって。指先が近づいていく。白い指先が、月光の中を滑るように。
五センチ。
三センチ。
一センチ。
止まった。
指先が震えている。
触れたい。先生の顔に触れたい。一度でいい。この手で。この指で。
でも——触れたら、もう戻れない気がする。この気持ちが溢れて、止められなくなる気がする。
唇が動いた。
声にならなかった。
でも形は「好き」だった。
指先が頬に触れる寸前——
バルタザールの目が開いた。
ヴィオラと目が合った。至近距離。十センチ。指先は頬の一センチ手前で止まっている。
「……何してる」
ヴィオラは消えた。
影に溶けた。ゼロコンマ数秒。残像すら残さない完璧な離脱。1000年の修行の成果が、こんなところで発揮された。
バルタザールの前には誰もいなかった。
「……速いな」
感心している場合ではないが、純粋に速かった。
影の中から声がした。バルタザールの背後。木の幹の反対側。
「……なにもしてない」
「そうか。気のせいか」
気のせいではない。完全に見えていた。指先が頬に迫っているのも、唇が何かを形作ったのも。
だが追及しなかった。
影の中で、ヴィオラが顔を覆っていた。
耳が赤い。心臓がうるさい。死にたいくらい恥ずかしい。影に溶けたまま消滅してしまいたい。
でも——指先にはまだ、一センチの距離の記憶が残っていた。
翌朝。
ヴィオラがバルタザールの顔を見られなくなっていた。
いつもは半歩後ろから外套を掴んでいるのに、今日は一歩後ろ。外套ではなく、外套から垂れ下がった紐の先端を掴んでいる。最大距離だった。
視線が合うと逸らす。ちらりと見ては逸らす。影越しに見ては逸らす。
「ヴィオラ、今日はやけに先生を見ないね」
フレアが不思議そうに言った。
「……見てない」
見てる。全員にわかるくらいチラチラ見てる。ただし目が合うたびに全力で逸らしている。
「今日も背中か」
バルタザールが聞いた。
「……背中がいい。顔は……今日はだめ」
「なぜ」
「……だめなものはだめ」
バルタザールはそれ以上聞かなかった。
ルナリアだけが、何かに気づいた顔をしていた。
ヴィオラを見ている。半歩後ろから師匠の背中を見つめる横顔を。目を逸らす仕草を。耳が赤いのを。
ルナリアは口を開きかけて、閉じた。
代わりに、心の中で呟いた。
あの子が——一番重い。
騒がしいのはフレア。直接的なのはセラフィナ。甘えるのはメルダ。自分だって相当しつこい自覚はある。
だがヴィオラの「静かさ」は——一番深い場所にある。
声に出さない分だけ溜まっていく。距離を取る分だけ想いが濃くなる。触れない分だけ——渇いていく。
「……大変ね、先生」
ルナリアが小さく呟いた。バルタザールには聞こえていなかった。
六人が街道を歩く。
バルタザールが空を見上げた。
「五人回収した。残り六人。だが——」
言葉を切った。
「そろそろ世界の方が俺を放っておかないだろうな」
ルナリアが首を傾げた。「どういう意味?」
バルタザールは答えなかった。ただ街道の遥か後方に、一瞬だけ——何かが光ったのを見た。
銀色の光。鎧の反射。
誰かがこちらに向かっている。
まだ遠い。だが確実に近づいている。
バルタザールは前を向き直して歩き続けた。
背中には六つ分の体温がある。その温かさと、迫ってくる銀色の光と。
面倒はまだ終わらない。




