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「俺が寝てる間に弟子が全員魔王になってた件、愛の鉄拳で魔王を更生させます——師匠、1000年ぶりの出勤」  作者: てん


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# 第21話「……先生だけ」



月が高かった。


二人は向き合ったまま、動かなかった。


バルタザールが見ている。ヴィオラが見られている。それだけの時間が流れていた。


言葉はない。虫の声と、枝が揺れる音だけが森に満ちている。


ヴィオラの呼吸がわずかに変わった。出会った時のような浅く速い呼吸ではなく、少しだけ深くなっている。師匠が「ここにいる」ことを、頭ではなく体が受け入れはじめている。


バルタザールが座った。木の根元に腰を下ろし、足を伸ばした。


ヴィオラは立ったまま見下ろしている。


「……座らないの」


紫の瞳が揺れた。


十秒。二十秒。三十秒。


ヴィオラの膝がゆっくりと折れた。バルタザールの隣に、そっと座った。


肩は触れない。五十センチの距離を保っている。でも——隣だった。


バルタザールは何も言わなかった。ヴィオラも何も言わなかった。


風が髪を揺らした。銀色の月光が二人の間に落ちていた。


夜が深まっていく。


バルタザールは寝なかった。ヴィオラも寝なかった。


二人とも目を開けたまま、夜の森の中に座っている。


ヴィオラが師匠を見ていた。横顔。月光に照らされた輪郭。無精髭。ぼろい外套。1000年前と変わらない顔。


いつもと同じだった。影の中から師匠を見る。ヴィオラの1000年間はそれだけだった。


だが今夜は——違うことが起きた。


「髪が伸びたな」


バルタザールが言った。


ヴィオラを見ていた。


「1000年前はもう少し短かった。肩くらいだったか」


ヴィオラが硬直した。


見られている。師匠に。横目ではなく、正面から。ヴィオラの顔を見て、髪を見て、変化を読み取っている。


「影魔法の精度も上がってる。あの三重攻撃、昔のお前にはできなかった」


「……見てたの」


「当然だろう。弟子の成長を見るのは師匠の仕事だ」


ヴィオラの指先が地面の草を掴んでいた。無意識に。力が入っている。


見られている。ずっと見る側だった。師匠はいつも見られる側だった。それが——逆転している。


「お前、1000年間ずっと修行してたのか」


バルタザールの声に、かすかな驚きがあった。


「影の精度がまるで別人だ。毒と幻術を同時に仕掛ける三重構成、あれは相当な訓練がないとできない」


ヴィオラは答えなかった。


しばらくして、地面を見ながら言った。


「……先生に見てもらえた時のために」


「……」


「いつか先生が帰ってきたら、褒めてもらえるように」


バルタザールの口が閉じた。


1000年間。


帰ってこない師匠を待ちながら、1000年間修行を続けていた。褒めてもらうために。見てもらうために。


他の弟子たちは絶望して呪縛に呑まれた。ルナリアは傲慢に。フレアは憤怒に。セラフィナは強欲に。メルダは怠惰に。


ヴィオラは——嫉妬に堕ちながらも、修行をやめなかった。


「……そうか」


バルタザールの声が少しだけ掠れた。


短い沈黙があった。


「いい魔法になった。1000年前より、ずっといい」


ヴィオラの影が震えた。足元の黒い靄が揺れ、縮み、薄くなった。呪縛が確実に弱まっている。


その瞬間だった。


黒い脈が走った。


ヴィオラの影の中に、外からの力が流れ込んできた。黒い筋が影の縁に沿って広がり、薄くなりかけた靄を再び濃く染めていく。


デミウルゴス。


遠隔強化。セラフィナの宮殿、メルダの城と同じパターン。だが今回は質が違った。呪縛を「量」で押し込むのではなく、精神の深い層に潜り込ませている。呪縛の根を、ヴィオラの記憶そのものに絡みつかせようとしていた。


ヴィオラの瞳が一瞬虚ろになった。


焦点が消え、紫の瞳が暗く沈む。体が硬直する。


「ヴィオラ——」


バルタザールが声をかけた瞬間、ヴィオラの口が動いた。


だが出てきた声は、ヴィオラのものではなかった。


低く。古く。世界の底から湧き上がるような声。


『この娘の嫉妬は底がない』


バルタザールの目が鋭くなった。


『どれだけ言葉を与えても、明日にはまた疑う。お前がそばにいても、他の弟子の存在がある限り——この呪縛は解けない』


デミウルゴスの声がヴィオラの口を通して響いていた。少女の唇が他人の言葉を紡いでいる。


『諦めろ、バルタザール。この娘は私のものだ』


「うるさいな」


バルタザールの声は平坦だった。


「弟子に勝手に喋らせるな」


ヴィオラの体が痙攣した。意識はある。目の奥に紫の光が残っている。だが呪縛に体を支配されかけていた。


バルタザールは手を伸ばさなかった。


前話と同じだ。触れない。ヴィオラには触れない。


代わりに——座ったまま、ヴィオラの目を見た。


「ヴィオラ。俺の目を見ろ」


ヴィオラの瞳が揺れた。虚ろな紫が焦点を探している。


「ここだ。俺を見ろ」


焦点が戻った。デミウルゴスの声が消えた。ヴィオラの口が閉じ、紫の瞳に本人の光が戻った。


荒い呼吸。肩が上下している。


「……先生」


「いる」


「……何か、中から——」


「知ってる。あいつが邪魔してきた。だが消えた」


ヴィオラの手が震えていた。自分の体を他人に使われた恐怖。師匠の前で、自分ではない言葉を喋らされた屈辱。


バルタザールはヴィオラの目を見続けた。視線を外さない。


「見えるか。俺の目に、誰が映ってる」


ヴィオラが師匠の目を見た。暗い森の中。月明かりに照らされた師匠の瞳。その中に映っているのは——


「……私」


「そうだ。昨日もお前だけだった。今夜もお前だけだ」


バルタザールが立ち上がった。


ヴィオラの目が見開かれた。


背を向けた。


五歩、歩いた。


ヴィオラの息が止まった。行くのか。また行くのか。また——一人にされるのか。胸の奥で何かが砕けかける。暗い渦が回りはじめる。呪縛が嗅ぎつけたように膨れ——


バルタザールが振り返った。


「明日も来る」


ヴィオラの思考が止まった。


「……え」


「明後日も来る。来週も来る」


バルタザールはヴィオラを見ていた。五歩先から。まっすぐに。


「お前が信じるまで、何度でも来る」


「でも、他の子たちが——」


「あいつらには待ってもらう。今は——お前の番だ」


番ではない。時間だ。お前だけの時間。昨夜約束したことを、今ここで実行している。言葉だけではなく、行動で。


ヴィオラの瞳から涙がこぼれた。


初めてだった。


この子が泣くのは。


声は出なかった。表情も変わらなかった。紫の瞳は見開かれたまま、口元は動かない。能面のような顔のまま、ただ涙だけが頬を伝って落ちていった。


一筋。二筋。三筋。


音もなく、地面に染みていく。


「……先生」


声はかすれていた。


「……先生だけ」


それだけだった。


主語がない。述語もない。だが——全てが詰まっていた。


先生だけが私を見てくれた。先生だけが私のために来てくれた。先生だけが私のために一人になってくれた。先生だけが——


ヴィオラの影が変わりはじめた。


黒い靄が——影から剥がれていく。


劇的ではなかった。光の爆発はない。鎧が砕ける音もない。炎が弾けることもない。


ただ——影が薄くなっていく。黒い靄が夜の空気に溶けていく。霧が晴れるように。雪が融けるように。静かに。ゆっくりと。


外からの力ではなかった。ヴィオラ自身が、呪縛を手放している。


この暗闇はもう要らない。この影はもう要らない。先生が見てくれるなら——影に隠れなくていい。


ヴィオラの足元に、普通の影だけが残った。


月光に照らされた、当たり前の影。


少女が立っていた。


黒い長髪が月光に青く光っている。紫の瞳。涙の跡が頬に残っている。黒い衣。華奢な体。


もう暗い光は宿っていない。


代わりに——潤んだ瞳に、月と、師匠の顔が映っていた。


バルタザールは五歩先で振り返ったまま立っていた。


ヴィオラが歩いた。


一歩。二歩。三歩。四歩。五歩。


師匠の前まで来た。


手を伸ばした。


バルタザールの外套の端を、指先で掴んだ。


それだけだった。しがみつくのではなく。抱きつくのではなく。指先で、布を挟んだだけ。小指と薬指の二本で、外套の裾を摘まんでいる。


「……行かないで」


「行かない」


「……嘘じゃない?」


「嘘じゃない」


指先の力が少しだけ強くなった。


夜が白みはじめていた。


東の空が薄紫に染まっている。ヴィオラの瞳と同じ色だ。朝が来る。影が短くなっていく。ヴィオラの足元の影も、普通の長さになっていく。


「……戻るぞ。あいつらが待ってる」


ヴィオラの体がびくりと跳ねた。


他の子たち。


指先の力が弱まりかけた。


バルタザールは振り返らなかった。ただ、歩く速度を落とした。


「大丈夫だ。お前だけの時間は、また作る。約束しただろう」


ヴィオラは黙っていた。


数秒後、小さな声が聞こえた。


「……先生の隣、歩いていい?」


「好きにしろ」


二人で歩き出した。


ヴィオラはバルタザールの半歩後ろにいた。外套の端を指先で掴んだまま。離さない。だがしがみつきもしない。その距離感が、ヴィオラのすべてだった。


朝日が木々の間から差し込んできた。


影が短くなる。ヴィオラは影を踏まないように歩いていた。もう影に沈む必要はない。師匠の隣に、日の光の中にいていい。


だがまだ——慣れていない。


町が見えてきた。


街道の先に、宿屋の建物が見える。二階の窓に人影が四つ。


ヴィオラの歩みが遅くなった。一歩ごとに足が重くなっていく。


指先が震えている。外套の端を掴む力が、強くなったり弱くなったりしている。


バルタザールは足を止めなかった。だが速度をさらに落とした。ヴィオラに合わせている。


「俺がそばにいる」


前を向いたまま言った。


ヴィオラの指先が、一度だけ強く外套を掴んだ。


「……うん」


宿屋の扉が開いた。


四つの顔が飛び出してきた。


「先生!」


「先生おかえり!」


「遅いのよ! 一晩中心配して——」


「……おかえり。ご飯できてる」


ルナリア、フレア、セラフィナ、メルダ。四人が一斉にバルタザールに駆け寄ろうとして——足を止めた。


バルタザールの半歩後ろに、少女がいた。


黒い髪。紫の瞳。外套の端を指先で掴んで、四人を見つめている。怯えた目ではなかった。だが強い目でもなかった。ただ——必死に立っている目だった。


ルナリアが最初に理解した。


「……ヴィオラ」


フレアが目を見開いた。


「ヴィオラ姉……呪縛が……」


セラフィナが翼をたたんだ。威圧を消した。


メルダが一歩前に出た。ぼさぼさの頭で、寝ぼけた目で——だが声ははっきりしていた。


「おかえり、ヴィオラ姉」


ヴィオラの指先が震えた。


四人の顔を見ている。自分が嫉妬していた四人。師匠を独占していた四人。憎んだこともあった。呪いたいと思ったこともあった。


だが今——四人の目に浮かんでいるのは、純粋な安堵だった。


「……ただいま」


声が震えた。小さかった。だが確かに言った。


バルタザールは五人の弟子に囲まれて、宿屋に入った。


ヴィオラの指先は、まだ外套の端を離さなかった。


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