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「俺が寝てる間に弟子が全員魔王になってた件、愛の鉄拳で魔王を更生させます——師匠、1000年ぶりの出勤」  作者: てん


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# 第20話「お前だけを見ている」



焚き火を起こさなかった。


日が暮れて、森が暗くなっても、バルタザールは火を点けなかった。


木の根元に座り、背中を幹に預ける。月明かりだけが木の葉の隙間から差し込んでいる。いつもなら弟子たちが隣にいる時間だ。右肩にルナリア。左肩にフレア。膝にメルダ。焚き火の向こうにセラフィナ。


今は誰もいない。


暗い方がいい。影の子には、暗い方が近づきやすい。


バルタザールは目を閉じた。寝ているように見える。だが意識は研ぎ澄まされていた。


気配がある。


遠い。五十メートルほど先。森の暗がりの中に、影よりも濃い何かがいる。


動いた。


四十メートル。三十メートル。二十メートル。


近づいては止まる。止まっては近づく。波のように寄せて、引いて、また寄せる。


警戒しているのか。それとも——近づきたいけど、怖いのか。


バルタザールは動かなかった。待っている。


影の中で、紫の瞳が師匠を見ていた。


一人で座っている先生。他の弟子はいない。初めて見る「一人の先生」だった。


1000年前もこうだった。


師匠は夜、一人で空を見上げていた。他の弟子たちが寝静まった後、焚き火の前で一人。ルナリアの寝息が聞こえる。フレアが尻尾を丸めて眠っている。セラフィナが翼に包まって寝ている。


その中で、ヴィオラだけがこっそり起きていた。影に溶けて、息を殺して、師匠を見ていた。


あの頃は——見ているだけで幸せだった。


先生が存在しているだけで。先生の横顔を見ているだけで。誰にも知られず、影の中から、ただ見ていた。


なのに今は、見るほど苦しい。


三日間、ずっと見ていた。先生がルナリアの頭を撫でるのを。フレアの尻尾を受け止めるのを。セラフィナに紐を結んでやるのを。メルダにご飯を食べさせるのを。


先生のそばに、他の子たちの残り香がまとわりついている。


近づきたい。


でも近づいたら、直接感じてしまう。先生の肩に残るルナリアの髪の匂い。先生の背中に残るフレアの体温。先生の膝に残るメルダの重み。


それを感じたら——壊れてしまう。


十五メートル。十メートル。


止まった。


それ以上、進めなかった。


月が雲に隠れた。森が一段暗くなった。


バルタザールが目を開けた。


ヴィオラの方を見なかった。正面を向いたまま、静かに言った。


「……座らないのか」


声が木々の間に染みていった。


沈黙。


「隣が空いてる」


ヴィオラの呼吸が聞こえた。浅く、速い。十メートル先で、影の中の少女が息を詰めている。


「……他の子たちは」


声が返ってきた。低い。かすれている。


「いない。町に残してきた」


「……なんで」


「お前に会うためだ」


長い沈黙が落ちた。


風が木の葉を揺らす音だけが聞こえた。


「私だけのために……?」


「そうだ」


影が揺れた。大きく。森の暗がりが波打つように揺れた。ヴィオラの感情が、影を通して世界に漏れ出している。


動いた。


影の中から、人の形が滲み出してくる。十メートル先の木の根元から、少女が姿を現した。


月光の下に出てきた。


黒い長髪が腰まで流れている。紫の瞳。月光で青白い肌。黒い衣が風に揺れている。華奢な体。表情はない。人形のように整った顔。


だが——目だけが饒舌だった。


紫の瞳の奥に、言葉にならない感情が渦巻いている。怒り。悲しみ。寂しさ。嫉妬。恐怖。全部が混ざって、一つの暗い光になっている。


呪縛の黒い靄がヴィオラの全身を覆っていた。他の弟子のものとは形が違う。鎧でも霧でもない。ヴィオラの影そのものが呪縛になっている。足元の影が不自然に広がり、少女を包み込んでいた。影と呪縛と少女が、一体化している。


バルタザールは座ったまま見上げた。


「近くに来い」


ヴィオラは動かなかった。


「……嫌」


「なぜ」


「近づいたら、他の子の気配がする」


声が震えていた。押し殺そうとして、殺しきれていない。


「先生の肩にルナリア姉の髪の匂いが残ってる。先生の背中にフレアの体温が残ってる。先生の膝にメルダの重みが残ってる。先生の腰にセラフィナ姉の翼が触れた跡がある」


「……よく見てるな」


「ずっと見てたから」


バルタザールは静かに息を吐いた。


「なぜ俺を独り占めしたい」


ヴィオラの唇が動いた。だが声が出なかった。二度、三度、唇だけが動いて——ようやく音になった。


「……先生だけが、私を見てくれたから」


風が止んだ。


「他の子たちは先生の前で輝いてた」


ヴィオラの声が低く続く。


「ルナリア姉は綺麗で、フレアは元気で、セラフィナ姉は華やかで、グリアはうるさくて。みんな先生の前で光ってた」


紫の瞳が地面を見ていた。


「私だけが影だった。影魔法しか使えない。存在感がない。声が小さい。みんなの輪の中にいても、誰も気づかない。影みたいに——薄い」


バルタザールは黙って聞いていた。


「でも先生は——私の魔法を褒めてくれた」


声が変わった。かすかに。暗い声の中に、一筋だけ光が混じった。


「『いい魔法だ。影は誰よりも静かで、誰よりも正確だ。お前にしかできない』って」


覚えている。バルタザールも覚えていた。言った記憶がある。ヴィオラの影魔法は繊細で精密で、他の弟子には真似できない技術だった。


「あの時だけ、私は影じゃなかった」


ヴィオラの声が震えた。


「先生に見てもらえた。先生が私だけを見て、私の魔法を見て、私を褒めてくれた」


紫の瞳がバルタザールを見た。


「だから先生を独り占めしたかった。先生が私だけを見てくれる時間が欲しかった。なのに——」


声が途切れた。唇を噛んだ。目の縁が赤くなっている。


「先生はみんなを見る。みんなの頭を撫でる。みんなに優しい。私だけじゃない。私は——特別じゃない」


影が膨れ上がった。ヴィオラの足元から黒い波が広がり、森の地面を覆っていく。木々の影が伸び、月光が遮られ、世界が暗くなっていく。


嫉妬の呪縛が、ヴィオラの感情に反応して暴走しかけている。


バルタザールは立ち上がった。


ヴィオラに向かって歩いた。


「来ないで」


歩いた。


「来ないで……近づいたら、他の子の——」


歩いた。止まらなかった。


「嫌……先生が他の子と同じように私に触れたら、私は——」


バルタザールがヴィオラの前で立ち止まった。


一メートルの距離。手を伸ばせば届く。


だが——手を伸ばさなかった。触れなかった。


ただ、目の前に立った。


ヴィオラを見下ろしている。ヴィオラが見上げている。二人の間に、月光だけがある。


「ヴィオラ」


「……」


「今、俺は何人の弟子を見てる」


ヴィオラの唇が震えた。


「一人だ。お前だけだ」


紫の瞳が揺れた。大きく。


「他の弟子の匂いがするか。するだろう。あいつらと一緒にいたからな。だが——今、俺の目に映ってるのはお前だけだ」


「……嘘」


「嘘じゃない。お前のために四人を置いてきた。お前だけに会うために一人で来た。今この瞬間——俺の世界にお前しかいない」


森が静まり返った。


影が止まっていた。膨れ上がっていた黒い波が、ぴたりと動きを止めている。


「お前は特別じゃないと言ったな」


バルタザールの声は低く、静かで、揺らがなかった。


「違う。全員が特別だ。ルナリアも、フレアも、セラフィナも、メルダも、お前も。順番じゃない。全員が——俺の弟子だ」


「……でも私は五番目に——」


「五番目に会いに来た」


バルタザールは認めた。嘘はつかない。


「だがお前のために一人で来たのは、お前だけだ。他の四人には、こんなことしてない」


ヴィオラの瞳が見開かれた。


そうだ。ルナリアの時は大軍を蹴散らして乗り込んだ。フレアの時は炎の中を歩いた。セラフィナの時は宮殿に跳び上がった。メルダの時は料理を作った。


だが——弟子を全員置いて、一人で会いに来たのは。


ヴィオラだけだ。


影が揺れた。呪縛の靄が薄くなった。黒い波が引いていく。ヴィオラの足元の影が縮んでいく。


だが——完全には解けなかった。


ヴィオラの目にまだ暗いものが残っている。恐怖。信じることへの恐怖。


「……先生が帰ったら、また他の子たちのところに戻るんでしょう」


「ああ。戻る」


正直に答えた。


ヴィオラの影が再び濃くなった。呪縛が揺り戻す。薄くなりかけた靄が、もう一度ヴィオラの体を包んでいく。


「……やっぱり」


声が沈んだ。暗い。深い。


「やっぱり私だけのものにはなれない。先生は——」


「だが」


バルタザールが一歩踏み込んだ。


一メートルが五十センチになった。ヴィオラの息が止まった。


「お前だけを見る時間は、何度でも作る」


紫の瞳がバルタザールを映している。


「約束する」


ヴィオラの瞳から何かがこぼれた。


涙ではなかった。もっと小さな、光のようなもの。紫の瞳の奥で、暗い渦の中に、針の先ほどの光が灯った。


呪縛が揺らいだ。影が震えた。解ける寸前——


ヴィオラが一歩退いた。


自分で退いた。


「……信じたい」


声が掠れていた。


「信じたい。でも——」


唇を噛んだ。強く。血が滲むほど。


「先生は前にもいなくなった。1000年。1000年間、私は一人で——影の中で——ずっと——」


声が途切れた。


信じたい。でも信じるのが怖い。信じて裏切られたら、もう立てない。1000年前に一度壊れた。あの時の痛みを、もう一度味わうくらいなら——


影が広がりかけた。ヴィオラが影に沈もうとしている。逃げようとしている。


バルタザールは追わなかった。手も伸ばさなかった。


代わりに、言った。


「信じなくていい」


ヴィオラの動きが止まった。


「信じなくていい。見ていればわかる」


バルタザールの声は静かだった。


「お前は——見るのが得意だろう」


ヴィオラの目が見開かれた。


影に溶ける動きが止まった。中途半端な姿で、半分影に沈んだまま、紫の瞳だけがバルタザールを見つめている。


見るのが得意。


嫉妬の源泉だったもの。師匠を見て、他の弟子を見て、比べて、苦しんで。「見ること」がヴィオラの呪いだった。


だが師匠は——それを肯定した。


見ていればわかると。


俺が嘘をついているか。俺が本当にお前だけを見る時間を作るか。信じなくていい。その目で確かめろと。


「……先生」


「ん」


「ここにいて」


「いる」


「今夜だけ。ここにいて。どこにも行かないで」


「行かない」


「……本当に?」


「本当だ。今夜は——お前の夜だ」


ヴィオラの影が静かに縮んだ。少女の体が影から浮かび上がる。


立っていた。月光の下に。呪縛の靄はまだ纏っている。だが密度が薄くなっている。暗い瞳の奥に、針の先ほどの光が——消えずに残っていた。


ヴィオラはバルタザールの前に立ったまま、動かなかった。


近づかない。触れない。ただ——見ている。


バルタザールも見ていた。ヴィオラだけを。


二人の間に、月光と沈黙だけがあった。


それで良かった。


今夜はそれだけでいい。


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