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「俺が寝てる間に弟子が全員魔王になってた件、愛の鉄拳で魔王を更生させます——師匠、1000年ぶりの出勤」  作者: てん


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# 第19話「先生は私のもの」



朝が来た。


バルタザールは宿屋の一階で荷物をまとめていた。最低限の食料と水。外套のポケットに入る分だけ。軽装だ。


階段を降りてくる足音が四つ。


ルナリアが最初に来た。銀色の髪を整え、背筋を伸ばしている。だが目の縁が赤い。寝ていないか、泣いていたか。


「先生」


「ん」


「……気をつけて」


短い言葉だった。ルナリアは続けようとして、一度唇を噛んで、それから言った。


「先生がいなくなったら、今度こそ許さないから」


「許さないのは困るな」


「だったら帰ってきて」


フレアが横に来た。赤い髪が朝日に透けている。目がまっすぐにバルタザールを見ている。


「絶対帰ってきて。約束」


小指を差し出した。


バルタザールは三秒ほどその指を見下ろした。


「……子供か」


言いながら、小指を絡めた。フレアの尻尾がぶんと一度だけ振れた。


セラフィナが腕を組んで壁に寄りかかっていた。六枚の翼が畳まれている。


「私は心配なんかしてないわよ。先生なら大丈夫に決まってるもの。ただ——」


翼が小刻みに震えていた。


「早く戻りなさい」


メルダが最後に来た。寝間着のまま。ぼさぼさの髪。寝ぼけた目。


バルタザールの外套を掴もうとして——自分で手を止めた。


握りかけた指が、宙で震えていた。


「先生……」


「ん」


「ご飯、作って待ってる。だから帰ってきて」


バルタザールの目がわずかに見開かれた。


メルダが自分から「何かする」と言ったのは初めてだった。起きるのも食べるのもめんどくさい。全部先生にやってもらう。それがメルダだった。


その子が——ご飯を作って待ってると言った。


バルタザールはメルダの頭にぽんと手を置いた。


「楽しみにしてる」


メルダの唇がきゅっと結ばれた。泣くのはめんどくさいから。


バルタザールは宿屋の玄関を開けた。


「すぐ戻る」


振り返らずに言った。


朝日の中を、一人で歩き出した。


四人が窓から見送っていた。ボロ外套の背中が朝もやの街道を遠ざかっていく。


1000年前にも同じ光景があった。師匠が一人で封印に向かった日。弟子たちが見送った日。あの時は——二度と会えなかった。


「今度は違う」


ルナリアが呟いた。


「先生は帰ってくる。帰ってくるって——」


言い聞かせているのは、自分にだった。


一人の街道は静かだった。


足音が一つ。自分の足音だけが石畳に響いている。


隣に誰もいない。肩に重みがない。膝に頭が乗っていない。背中にしがみつかれていない。耳元で文句を言う声がない。


1話の頃と同じだ。一人で歩いていた。あの時は「いい」と思った静けさだった。


今は。


「……静かだな」


少しだけ、物足りなかった。


あの騒がしさに慣れてしまった自分に気づいて、バルタザールは少し驚いた。1000年の眠りで失ったものを、たった数週間の旅で取り戻しつつある。弟子たちが隣にいる感覚。あの温度。


「……めんどくさい連中だ」


口調はいつも通りだった。だが足取りは軽かった。


森に入った。


街道が木々の間を縫っていく。日が傾きはじめ、影が伸びていた。


バルタザールは歩きながら、足元を見た。


自分の影がある。当然だ。日光が背後にあれば、前方に影が落ちる。


だがその影が——ほんの少しだけ、ずれていた。


自分が右足を出した時、影の右足が一瞬遅れて動く。左足も。腕も。頭も。全てが半拍ずれている。


影が自分のものではない。


バルタザールは足を止めた。


「……来たか」


周囲を見渡した。


森の木々の影が全て不自然に長かった。太陽はまだ高い位置にある。なのに影だけが夕暮れのように伸びている。地面を覆い、幹を這い上がり、枝から枝へと渡っている。


森全体が、ヴィオラの影魔法に染まっていた。


来た。


影が動いた。


地面から影が立ち上がった。平面だった影が三次元の形を取り、刃になった。黒い刃が四方から同時にバルタザールに殺到する。前後左右。逃げ場はない。


バルタザールは動かなかった。


影の刃が体に到達した。胸を貫き、腕を切り、首を薙ぐ——


通り抜けた。


影がバルタザールの体を通過して、反対側に抜けていった。切れていない。傷一つない。


「影は影だ。実体がなければ切れない」


だが足元が動いた。


地面から紫色の霧が立ち昇った。メルダの城の眠りの霧とは質が違う。甘い匂いはない。代わりに鉄の匂い。嗅いだ瞬間に舌が痺れた。


神経毒。


バルタザールの体が硬直した。


足が止まり、腕が動かなくなり、首が固まった。全身の神経が一斉に麻痺している。毒の即効性は尋常ではない。常人なら一呼吸で全身不随になるだろう。


一秒。


二秒。


三秒目に、バルタザールの指が動いた。


魔力が全身を巡り、毒を分子単位で分解していく。四秒目には腕が動き、五秒目には足が地面を踏み直した。


「毒か。1000年前にも教えたな。だが——俺には効かない」


だがその五秒が命取りだった。


視界が歪んだ。


森が消えた。地面が消えた。空が消えた。バルタザールの周囲が白く染まり、別の場所に変わった。


幻術。


影の刃は陽動。毒も陽動。本命はこれだった。毒で五秒間動きを止め、その隙に幻術を仕掛けた。三重の罠。


バルタザールの目の前に、弟子たちがいた。


ルナリアが立っていた。腕を組んで、冷たい目でバルタザールを見ている。


「先生なんか必要ない」


フレアが背を向けていた。尻尾が垂れている。振り返らない。


「もう帰ってこなくていいよ」


セラフィナが笑っていた。嘲笑。


「あなたがいなくても私たちはやっていけるの。1000年間そうしてきたんだから」


メルダが地面に寝転がっていた。バルタザールの方を見もしない。


「めんどい。もういい。先生なんかいらない」


弟子に拒絶される幻覚。


お前はもう用済みだ。お前がいなくても世界は回る。お前が帰る場所はない。


ヴィオラの嫉妬が裏返った呪い。「私が先生に捨てられるなら——先生だって弟子に捨てられればいい」。


バルタザールの表情が動いた。


一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、目が揺れた。


——が、次の瞬間に目を閉じた。


暗闇の中で、息を吐いた。


「お前の幻術は昔から出来がいい。三重に重ねる戦術も悪くない」


目を開けた。


幻覚のルナリアが消えた。フレアが消えた。セラフィナが消えた。メルダが消えた。森が戻ってきた。木漏れ日が肌に触れた。


「だが——あいつらはそんなこと言わない」


バルタザールの声は静かだった。


「今朝見てきた。あいつらの顔を。帰ってこいと言った目を。俺が知ってるあいつらは——あんな顔はしない」


森が静まり返った。


三重攻撃が全て凌がれた。影の刃も。毒も。幻術も。大賢者には何一つ通じなかった。


だがヴィオラの姿は見えなかった。


影に溶けたまま、気配だけが森に漂っている。どこにいるのかわからない。どこにでもいるのかもしれない。


沈黙が続いた。


やがて——声がした。


「……先生」


影の中から。姿は見えない。声だけが、木々の隙間から滲み出してくる。


低い声だった。感情を押し殺した声。だが一言に重さがあった。


「先生は、何人の弟子を迎えに行ったの」


「四人だ」


「四人……」


声が揺れた。影が揺れた。森全体がざわめいた。


「四人も……私の前に」


「ヴィオラ——」


「私は五番目なの」


声が低くなった。


「先生にとって、私は五番目」


「順番じゃない。近い場所から回っただけだ」


「嘘」


短い。鋭い。ナイフのような一言だった。


「ルナリア姉が一番。フレアが二番。セラフィナ姉が三番。メルダが四番。私は——いつも後回し」


影が濃くなっていく。森の木漏れ日が一つずつ消えていく。太陽が出ているのに、夜のように暗くなっていく。


嫉妬の呪縛が膨れ上がっている。


「先生は私だけのものなのに」


バルタザールは動かなかった。


「私だけを見てくれればいいのに。私だけでよかったのに」


声が震えている。怒りではなかった。もっと脆い震え。


「なのに——先生は他の子たちと笑ってた。他の子たちの頭を撫でてた。他の子たちにご飯を作ってた」


影が渦を巻いた。バルタザールの足元で黒い渦が回っている。


「ずっと見てた。三日間。先生が他の子たちと一緒にいるのを。先生が他の子たちに笑いかけるのを」


声が途切れた。


数秒の沈黙。


「……苦しかった」


最後の一言だけ、押し殺しきれていなかった。


影が動いた。一斉に。バルタザールから離れていく。逃げるように。森の奥へ、暗がりの中へ、ヴィオラの気配が遠ざかっていく。


バルタザールは追えた。


この程度の影魔法なら、一歩で追いつける。手を伸ばせば届く。力ずくで引きずり出すこともできる。


追わなかった。


立ち尽くしたまま、影が消えていくのを見ていた。


森が明るさを取り戻していく。木漏れ日が地面に戻る。鳥が鳴きはじめる。普通の森に戻っていく。


ヴィオラの気配は消えた。


だが——完全に去ったわけではないことを、バルタザールは知っていた。あの子は逃げたのではない。距離を取っただけだ。また見ている。影の奥から、こちらを。


「……あいつは逃げた。俺と戦う気はない」


右手を見た。拳を握って、開いた。


「ただ——見てほしいだけだ」


殴って解ける呪縛ではない。手のひらで触れて解ける呪縛でもない。料理の匂いで起こせる相手でもない。


嫉妬。


怒りより深い。悲しみより暗い。そして何より——本人が一番苦しんでいる。


「先生は私だけのもの」——その言葉の裏にあるのは、「私には先生しかいない」という孤独だ。


バルタザールは歩き出した。


追うのではなく。ヴィオラが逃げた方向へ、ゆっくりと。


「待ってろ。逃げてもいい。だが——お前だけを見る時間を、ちゃんと作ってやる」


森が暗い。だがバルタザールの足取りは迷っていなかった。


影の奥で——紫の瞳が、まだ見ていた。


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