# 第18話「影の追跡者」
本屋があった。
バルタザールの足が止まった。もう誰も驚かない。この男は興味を引かれると足が止まる。市場、畑、鍛冶屋、そして本屋。
「……本が、こんなにあるのか」
店先の棚に、何百冊もの本が並んでいた。
1000年前、本は全て手書きの写本だった。一冊を作るのに職人が数ヶ月かかり、値段は家一軒分。バルタザールの蔵書は全部自分で書き写したものだった。夜な夜な羊皮紙に向かい、インクを磨り、一文字ずつ書いた。
それが今——棚に無造作に積まれている。
値札を見た。
「銅貨三枚……?」
「安いでしょ」
フレアが横から覗いた。
「俺の時代は金貨十枚だったぞ。写本一冊で」
「あー……そうだったね。忘れてたけど」
ルナリアが遠い目をした。また忘れていた。弟子たちは1000年かけて現代に馴染んでしまっている。
「印刷っていうのよ、先生。版を作って、紙に押しつけて、同じものを何百枚も刷れるの」
セラフィナが説明した。
「……天才がいたもんだな」
バルタザールは本を一冊手に取った。紙の質感を確かめ、インクの乗りを見て、頁をめくる。目が輝いていた。弟子たちにはわかる。先生が「楽しんでいる」顔だ。
「これも。これも。あとこれ」
次々と棚から本を抜いていく。薬草辞典。地質学概論。大陸の歴史書。料理のレシピ集。
「先生、荷物になるわよ」
「知識は荷物にならない」
「物理的にはなるのよ」
セラフィナのツッコミは無視された。
バルタザールの手が止まった。
棚の端に、一冊の本があった。
『大賢者バルタザール伝——神を討ちし白髭の聖者』
表紙には例の肖像画が描かれていた。白く長い髭を蓄えた老人。星を纏う豪華なローブ。右手に輝く聖剣。左手で天を指している。
バルタザールは本を開いた。
最初の頁。
『大賢者バルタザールは、天より降りし半神である。その白銀の髭は星の光を帯び、聖剣エクセリオンを振るいて邪神を討ち滅ぼせり。白竜ファルニスを従え、七つの天を渡り歩きし者——』
本を閉じた。
「……誰だこれ」
「先生のことでしょ」
「俺は半神じゃない。髭はこの無精髭だけだ。聖剣は持ったことがない。素手だ。白竜も知らん」
「でも先生、かっこいいよこの絵。神々しい感じで」
「神々しくなくていい」
奥付を見た。著者は「大賢者研究協会」。
「……こんな協会があるのか」
「先生、有名人だから」
「めんどくさい」
本を棚に戻した。いや——一瞬迷って、結局買った。どんな嘘が書いてあるのか気になったらしい。
本屋を出て、酒場で昼飯をとった。
五人でテーブルを囲む。バルタザールの隣にルナリアとメルダ。向かいにフレアとセラフィナ。相変わらず人目を引く一行だった。
「あーん」
メルダが口を開けて待っている。バルタザールが無言でスプーンを運ぶ。もう諦めていた。
隣のテーブルから、商人たちの会話が聞こえてきた。
「おい、聞いたか。焦熱の王国の跡地に草が生え始めてるらしいぞ」
バルタザールの耳が動いた。
「嘘だろ。あそこは何百年も溶岩と灰しかなかった場所だぞ」
「魔王が消えたからだろうな。火山も噴火が止まって、溶岩が冷えて、風が種を運んで。芽が出始めてるって、行商人が言ってた」
「すげえな。あの死の大地に草が……生きてるうちに見られると思わなかった」
フレアのスプーンが止まっていた。
自分が焼いた土地だ。怒りに任せて、何百年もかけて焦土に変えた大地。そこに——草が生え始めている。
複雑な顔をしていた。嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからない顔。
バルタザールの手がフレアの頭に乗った。
何も言わなかった。ぽんと一度触れて、手を下ろした。
フレアの尻尾が小さく揺れた。目の縁が少し赤くなったが、泣かなかった。
「……先生のそれ、ずるいよ」
「何が」
「何も言わないのがずるい」
バルタザールはスープを啜った。
ルナリアが小声で呟いた。
「……私の領域もそうなってるのかしら」
セラフィナが頷いた。
「きっとね。時間はかかるけど」
世界が変わり始めている。バルタザールが弟子を取り戻すたびに、魔王に支配されていた土地が元に戻っていく。本人は気づいていない。ただ弟子を迎えに行っているだけだ。だがその結果が、世界を少しずつ救っている。
街を出た。
南東へ向かう街道を歩く。次の目的地はまだ決まっていない。ヴィオラの居場所は特定できていなかった。他の魔王と違い、城を持たない。領域すら定かではない。
影の魔王。嫉妬の魔王。
どこにいるかわからない相手を、どうやって見つけるか——
「見つける必要はない」
バルタザールが唐突に言った。
「え?」
「あいつの方から来てる」
四人の足が止まった。
バルタザールの目が街道の脇の森を見ていた。表情が変わっている。いつものぼんやりした顔ではない。鋭い。
「……三日前からいる」
「三日前?」
ルナリアが声を張った。
「影がついてきてる。距離を保って、気配を消して。だが——消しきれてない」
四人が周囲を見回した。何も見えない。森の木々が風に揺れているだけ。鳥が鳴いている。普通の風景だ。
だがバルタザールの目には見えていた。木々の影が不自然に深い場所がある。日光が当たっているのに、影だけが濃い。
「影魔法」
セラフィナが呟いた。
「ヴィオラの得意分野ね」
「三日前……町に入る前から?」
ルナリアが聞いた。
「ああ。おそらく錬金城を出た辺りからだ」
フレアが拳を握った。
「三日間もつけられてたの? なんで攻撃してこないの?」
メルダが小さな声で答えた。
「……ヴィオラ姉は、先生を見てるんだと思う」
全員がメルダを見た。
「先生が本物かどうか。先生が今、誰と一緒にいるか。……どんな顔で、誰と笑ってるか」
メルダの声には珍しく感情がこもっていた。
セラフィナが目を閉じた。
「嫉妬の呪縛。先生と私たちが一緒にいる姿を見るたびに、呪縛が強くなっていく。今この瞬間も——ヴィオラの呪縛は強化され続けてるのよ」
空気が重くなった。
バルタザールは歩きながら考えていた。
ルナリアは城で待ち構えていた。フレアも城の前に出てきた。セラフィナは宮殿で迎え撃った。メルダは寝ていた。
ヴィオラは違う。
追ってきている。影に潜んで、観察している。三日間も。攻撃するためではなく——見るために。
嫉妬とはそういうものだ。相手を殺したいのではなく、相手が自分以外の誰かと幸せにしているのを見るのが耐えられない。
そして見てしまう。目を逸らせない。それが呪縛をさらに深くする。
「……お前たちは次の町で待ってろ」
バルタザールが言った。
静かな声だった。
四人が一斉に反応した。
「嫌よ」
「やだ」
「一人で行かせない」
「めんどいけど……やだ」
バルタザールは足を止めた。振り返って、四人を見た。
「俺が他の弟子と一緒にいること自体が、あいつを傷つけてる。わかるだろう」
ルナリアが反論しようとした。口が開いて——閉じた。事実だから。
「あいつの前に、お前たち四人を連れて現れてみろ。『先生は私以外にもこんなにたくさん弟子がいる。私は特別じゃない』——嫉妬の呪縛にとって、これ以上の燃料はない」
フレアが唇を噛んだ。
「でも先生一人で……」
「一人の方がいい」
バルタザールの声は穏やかだった。
「あいつが欲しいのは『先生を独り占めできる時間』だ。それを作ってやれるのは、俺だけだ」
沈黙が落ちた。
風が吹いた。街道の木々が揺れる。その中の一本——影が不自然に濃い木の根元が、わずかに動いた。
バルタザールの目がそこを捉えた。
影が動いた。
木々の暗がりの中に、人の形が滲み出した。
黒い長髪。紫の瞳。影そのもののように暗い衣を纏った少女。肌は白く、表情はない。人形のように整った顔立ちの中で、瞳だけが異常な光を帯びていた。
一瞬だけ姿を見せた。
バルタザールと、目が合った。
紫の瞳の奥にある感情。怒りではなかった。悲しみでもなかった。もっと暗くて、もっと深くて、もっと——重いもの。
消えた。
影の中に溶けるように、少女の姿が消えた。後には木漏れ日だけが残っている。
だがバルタザールの目には焼きついていた。あの瞳が。
「今の……」
ルナリアの声が震えていた。
「ヴィオラだ」
「消えた……」
フレアが周囲を見回した。気配は完全に消えている。
メルダが呟いた。
「……来てる。もうすぐそこにいる」
バルタザールは影が消えた場所を見つめていた。
あの瞳が語っていたことを、バルタザールは理解していた。
先生は私のものなのに。
なぜ他の子たちと一緒にいるの。
なぜ他の子たちと笑っているの。
なぜ——私だけを見てくれないの。
「……明日、俺は一人で行く」
今度は誰も反論しなかった。
五人は黙って歩いた。夕暮れの街道。影が長く伸びていた。
その影の一つが——ほんの少しだけ、他より濃かった。




