# 第17話「人間クッション」
翌朝、メルダが起きなかった。
呪縛はもうない。城も出た。街道沿いの宿屋のベッドで寝ている。なのに起きない。
正確には——バルタザールの胸にしがみついたまま離れない。
昨夜、宿屋に着いた時点でメルダはバルタザールの腕の中で眠っていた。部屋に運び、ベッドに寝かせた。ここまでは良い。問題はバルタザールがベッドから離れようとした瞬間に、メルダの両手が外套を掴んで離さなかったことだ。
結局バルタザールはベッドの端に座ったまま朝を迎えた。
「おい、朝だぞ」
「……めんどい」
「飯できてるぞ」
「……あとで」
飯でも起きない。
これは初めてだった。1000年前は飯の匂いで確実に起きていた。呪縛が解けたのに飯で起きないとは。
ルナリアが部屋の入り口から覗いていた。
「先生の体が気持ちいいんでしょうね」
「何を言ってる」
「だってメルダ、先生にしがみついてから一度も離れてないもの。人間湯たんぽよ、先生」
メルダがもぞもぞと動いた。目は閉じたまま。
「先生あったかい。布団よりいい。動きたくない。先生が動かなければ全部解決する」
「俺が一日中動かないわけにはいかないだろう」
「なんで」
「旅をしてるからだ」
「旅めんどい。ここに住もう」
「住まない」
「土地見てたでしょ。ここ住みやすいって言ってた」
「あれは品定めであって——」
「じゃあここで畑やろう。先生が畑やって、私が寝てる。最高」
「お前だけ最高だろうが」
一時間かかった。
シチューの残りを温め直し、匂いを部屋に充満させて、ようやくメルダが目を開けた。半開きだが。
「……おかわり」
一言目がそれだった。
宿を出て、街道を歩きはじめた。
五人旅の初日。バルタザールを先頭に、ルナリアとフレアが左右に、セラフィナが少し後ろを歩いている。
メルダは歩いていなかった。
バルタザールの背中にしがみついていた。
「降りろ」
「やだ。歩くのめんどい」
「お前の足は飾りか」
「飾り。先生の背中があるから」
おんぶだった。何百年も寝ていた弟子をおんぶして街道を歩く大賢者。威厳はゼロだった。
「先生の背中、広い。好き」
「降りろ」
「あったかい。好き」
「降りろと言っている」
「匂いもいい。好き」
「……勝手にしろ」
諦めた。どうせ何を言っても降りない。1000年前もそうだった。
昼になった。
街道沿いの木陰で休憩をとる。バルタザールが腰を下ろした瞬間、メルダが背中から滑り降りて——膝の上に頭を乗せた。
流れるような動作だった。淀みがない。1000年前から何百回と繰り返した動きが、体に染みついている。
「先生の膝、1000年前と同じ硬さ。安心する」
「褒めてるのか貶してるのか」
「褒めてる。硬いけどあったかいから好き」
メルダが膝の上でごろりと寝返りを打った。仰向けになり、目を閉じる。穏やかな顔だ。
寝間着の裾がずり上がっていた。
太ももの半分まで布が捲れ、白い肌が覗いている。メルダは気づいていない。あるいは気にしていない。
バルタザールが無言で裾を戻した。
メルダが薄く目を開けた。
「ん……なに」
「裾」
「べつにいい。先生でしょ」
「良くない」
「なんで。先生に見られるのは別に——」
「良くないと言っている」
メルダは不思議そうな顔をしたが、それ以上追及するのもめんどくさかったのか、目を閉じた。
背後に殺気が三つ。
振り返らなくてもわかる。三人分の視線が背中に突き刺さっている。
「私も膝枕!」
フレアが手を挙げた。
「順番……順番を決めるべきだわ」
セラフィナが腕を組んで言った。
「第一弟子の私が先よ」
ルナリアが割り込んだ。
「先生の膝は二つしかないぞ」
「右と左で二人いけるでしょ」
フレアの提案は却下された。理由はバルタザールが動けなくなるからだ。もっとも今も動けていないのだが。
夜。
野営地を作り、焚き火を起こし、飯を食った。メルダは自分では食べずにバルタザールの横に座り、口を開けて待っていた。
「自分で食え」
「腕だるい」
「昼間おんぶされてただけだろう。腕は使ってない」
「使ってた。先生にしがみつくのに」
「それは腕の運動じゃなく——もういい。ほら」
バルタザールがスプーンを口元に運ぶ。メルダがぱくりと食べる。尻尾があったら振っているだろう。ないけど。
食後。
バルタザールが横になった。
長い一日だった。おんぶして、膝枕して、飯を食わせた。さすがに眠い。木に寄りかかるのではなく、今日は地面に横になって寝ようと思った。
背中が地面に着いた瞬間。
重みが乗った。
メルダがバルタザールの上に乗っていた。
胸の上にうつ伏せになり、顔をバルタザールの首元に埋めている。毛布のように体全体を預けていた。
「……何をしている」
「寝る」
「なぜ俺の上で」
「先生が布団。私が毛布。効率的」
「何の効率だ」
「体温の効率。先生があったかくて、私が上に乗れば熱が逃げない。最適解」
錬金術師らしい理屈だが、完全に間違った方向に使われている。
「ちょっと!」
ルナリアが飛んできた。
「さすがにそれはおかしいでしょ! 先生の上に乗るって——」
「なんで。先生あったかいし、硬さもちょうどいいし、匂いもいいし。最高のクッション」
「匂い!?」
フレアが食いついた。
「先生の匂い嗅いでるの!?」
「嗅いでるけど。先生の匂い好き。めんどくさいこと忘れる」
「どんな匂い!?」
「んー……土と、草と、あと鉄のにおい。混ざって先生のにおいになる」
「私も嗅ぎたい!」
「フレア、やめなさい!」
セラフィナが額を押さえた。
「この子は天然なの……? それとも計算……?」
天然だった。メルダには色気を出す意図が一切ない。「楽だから」「あったかいから」で行動している。それが一番えげつないということに、本人だけが気づいていない。
結局。
バルタザールは木に寄りかかって座った。横になると上に乗られるからだ。
膝にメルダ。右肩にルナリア。左肩にフレア。正面の焚き火の向こう側にセラフィナ。
もはや人間ジャングルジムだった。
「……寝られない」
「先生が動かなければみんな寝られる。先生は寝なくていい」
メルダが膝の上からぼそりと言った。
「俺も寝たいんだが」
「めんどいこと言わないで」
理不尽だった。だが反論する前に、右肩のルナリアが寝息を立てはじめ、左肩のフレアが尻尾を巻きつけてきて、膝のメルダが完全に脱力した。
動けない。物理的に動けない。
バルタザールは天を仰いだ。星が見えた。降参だった。
目を閉じた。
どれくらい経っただろう。
バルタザールの意識が落ちていた。珍しいことだった。この旅で初めて、先に寝落ちした。
弟子たちが起きていた。
ルナリアが右肩から顔を上げた。師匠の寝顔を覗き込む。穏やかな顔だった。起きている時のぶっきらぼうさが消えて、年相応の——いや、1000年分疲れた男の顔になっている。
「先生、寝てる」
フレアが左肩から小声で言った。
「珍しい。先生が先に寝るなんて」
「疲れてるのよ。メルダを一日おんぶして、膝枕して、ご飯食べさせて……」
セラフィナが焚き火の向こうから囁いた。
メルダは膝の上で目を開けていた。バルタザールの腹に頬を押しつけたまま、小さな声で言った。
「ねえ……先生、本当にもういなくならない?」
三人が黙った。
ルナリアが答えた。
「……わからないわ。でも先生は『もう眠る理由がない』って言ってた」
「次は一緒に戦うって」
フレアが続けた。
「一人で行かせない。絶対に」
セラフィナが静かに言った。
「あの人は不器用だから。言葉より行動を見なさい。こうして全員迎えに来てるじゃない」
メルダは黙った。
しばらくして、目を閉じた。バルタザールの膝に顔を押しつけて。寝たふりをしているのは全員にわかっていた。
「……もう起こさなくていいから。ずっとこのままがいい」
寝言のように呟いた。
バルタザールは眠っているはずだった。眠っているはずなのに——右手が動いて、メルダの頭に乗った。
ぽん、と一度だけ触れて、そのまま手を置いた。
四人が息を呑んだ。
メルダの目がきゅっと閉じられた。唇を噛んで、こらえている。泣くのはめんどくさいから。
翌朝。
全員がバルタザールに絡まった状態で朝を迎えた。
バルタザールだけが目を覚ましていた。一晩中ほとんど寝られなかった顔をしている。右肩にルナリア。左肩にフレア。膝にメルダ。正面ではいつの間にかセラフィナが膝の横まで移動してきて、翼を毛布代わりにバルタザールの脚にかけていた。
「……四人で既にこれか。あと六人増えたらどうなる」
想像して、やめた。想像するだけでめんどくさかった。
朝食をとりながら、次の話をした。
「次は——ヴィオラね」
ルナリアの声に、空気が変わった。
フレアの尻尾が下がった。セラフィナが目を伏せた。メルダすら箸を止めて顔を上げた。
「ヴィオラ姉は……厄介だよ。他の誰よりも」
メルダが珍しく真面目な顔で言った。
「何が厄介だ」
ルナリアが慎重に言葉を選んだ。
「……あの子の呪縛は、嫉妬よ。先生が他の弟子と一緒にいること——それ自体が呪縛を強くする」
バルタザールの手が止まった。
「つまり——お前たちを連れていくと逆効果か」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音だけが聞こえた。
全員がその意味を理解していた。
メルダが口を開いた。
「先生が一人で行くの、やだ」
フレアが頷いた。
「私も嫌。先生を一人にしたくない」
ルナリアが唇を噛んだ。
「でも連れていったら、ヴィオラがもっと——」
セラフィナが腕を組んだ。
「嫉妬の呪縛を抱えた子の前に、先生と四人の弟子が現れたら。あの子にとっては地獄よ」
重い沈黙だった。
バルタザールは立ち上がった。
「考える。歩きながら考える」
五人が街道を歩きはじめた。
いつもより静かだった。メルダですらバルタザールの背中に乗らず、自分の足で歩いていた。
ヴィオラ。嫉妬の魔王。
今までとは構造が違う。力でも対話でも料理でもない——「弟子を連れていけない」という制約が、バルタザールに突きつけられていた。




