表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「俺が寝てる間に弟子が全員魔王になってた件、愛の鉄拳で魔王を更生させます——師匠、1000年ぶりの出勤」  作者: てん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/21

# 第16話「先生……ご飯……」



メルダの指が動いた。


右手の小指。次に薬指。握りしめていた毛布の端が、わずかに引っ張られた。


だが目は開かない。


黒い靄がメルダの体を覆い直す。浮上しかけた意識を、呪縛が底へ引きずり込もうとしている。城の壁が黒く脈動するたびに、靄が濃くなっていく。


バルタザールはベッドの横に立っていた。鍋の蓋を外したまま、シチューの匂いをメルダに送り続けている。


「先生、呪縛が匂いを遮ろうとしてる」


ルナリアが声を張った。メルダの周囲に黒い靄が壁を作りはじめている。匂いの粒子がその壁に阻まれ、薄まっていく。


「わかってる」


「どんどん濃くなっていくわ。このままじゃ——」


「もう少しだ」


バルタザールの目はメルダだけを見ていた。


「あいつの意識はもう水面の近くにいる。あと少しで届く」


セラフィナが一歩前に出た。


「先生、力ずくで呪縛を砕けないの? 私の時みたいに精神世界に入るのは無理でも、外から叩き壊すことは——」


「できる」


バルタザールは即答した。


「だがリスクがある。お前の時にあの声が言っただろう。魂と融合した呪縛を力で砕けば、本人も壊れると」


「でも融合はまだ完了してないんでしょう? 今なら——」


「途中で殴ったら、どこまで壊れるか読めない。半端に砕けば呪縛が暴走する可能性もある」


フレアが拳を握った。


「じゃあどうするの。先生でもどうにもできないの」


バルタザールは鍋を床に置き、ベッドの横に腰を下ろした。


「待つ」


「待つ?」


「あいつが自分で起きるのを待つ。俺にできるのは——飯を作って、ここで待ってることだけだ」


三人が黙った。


大賢者バルタザール。手を振れば軍が吹き飛び、デコピンで魔王の呪縛を砕く男。その男が——待つと言っている。


力では届かない場所がある。セラフィナの時に学んだことを、バルタザールは実践していた。


ベッドの横に座り、黒い靄に包まれた少女を見つめる。


小さな寝顔だった。


1000年前を思い出す。


メルダは朝が起きられない弟子だった。他の弟子たちが日の出とともに修行を始めても、メルダだけは布団に包まって動かない。水をかけても起きない。布団を剥がしても丸まって寝る。ルナリアが怒鳴っても、フレアが揺すっても、セラフィナが呆れても、起きない。


だが一つだけ、確実に起きる方法があった。


バルタザールが台所に立つ。


きのこのクリームシチューを作る。匂いが広がる。すると——ふらふらと、目を半分閉じたまま、メルダが台所に現れる。


「先生……ご飯……」


毎朝、同じ台詞だった。


寝ぼけたままバルタザールの足にしがみつき、ずるずると引きずられながら食卓に着く。スプーンを持つ手がふらふらして、三回に一回は口からこぼす。それでもシチューを食べ終わる頃には目が覚めている。


「先生のそばが一番楽」


メルダの口癖だった。


錬金術の才能は弟子の中でも随一だった。やる気を出せば誰よりも精密な術式を組み上げる。だがそのやる気を出すのは——師匠の飯と、師匠に褒められた時だけ。


修行をサボって、バルタザールの膝の上で寝ていたことも何度もあった。降ろしても戻ってくる。諦めて膝に乗せたまま本を読んだ。


「……めんどくさい弟子だったな、お前は」


バルタザールは呟いた。


ベッドの上の少女は答えない。黒い靄が脈動している。


十分が経った。


二十分が経った。


バルタザールは動かなかった。


ルナリアが心配そうに見ている。フレアが落ち着かない様子で尻尾を揺らしている。セラフィナが壁の黒い光を監視している。


シチューの匂いは薄れない。バルタザールが鍋に手をかざし、魔力で温度を保ち続けていた。冷めないシチュー。匂いが途切れない。


靄が匂いを遮ろうとする。匂いが靄をすり抜ける。遮る。すり抜ける。その繰り返しが続いていた。


三十分が経った。


城の振動が強くなった。黒い光が壁だけでなく床にも天井にも広がっている。デミウルゴスの遠隔強化が最終段階に入りつつある。


「先生……融合が近い」


セラフィナの声が切迫していた。


バルタザールはメルダを見つめていた。


黒い靄がメルダの全身を覆い尽くそうとしている。あと数分で——あるいは数十秒で——呪縛と魂の融合が完了する。


そうなったら、もう取り返しがつかない。


殴るか。


リスクを承知で、力ずくで砕くか。


バルタザールの右手が握られた。拳が固くなる。


だが——振り下ろさなかった。


代わりに口を開いた。


「メルダ」


名前を呼んだ。


「起きろ」


静かな声だった。怒鳴りもしない。急かしもしない。1000年前の毎朝と同じ声。


「飯ができてる。お前の好きなきのこのシチューだ」


黒い靄が揺れた。


「冷めるぞ。起きないと食えないだろう」


靄がまた揺れた。大きく。


「——起きろ、メルダ」


メルダの目が開いた。


半開き。焦点が合っていない。瞳孔がぼんやりと広がっている。何百年ぶりの覚醒。意識が水面に浮上した——その一瞬。


バルタザールは逃さなかった。


右手の人差し指が伸びた。


デコピン。


額に一発。正確に。呪縛の核を避け、まだ融合していない「外付け」の部分だけを砕く。針の穴を通すような精度だった。


ぱちん。


黒い靄が弾け飛んだ。


メルダの体から黒い煙が噴き出し、天井に向かって散っていく。城の壁の黒い光が急速に消えていく。緑色の錬金光が戻りはじめる。


呪縛が砕けた。


ベッドの上に残ったのは——小柄な少女だった。


茶色いぼさぼさの髪。丸い頬。眠たそうな目。穴の空いた寝間着。口元によだれの跡。


怠惰の魔王メルダ。だったもの。今はただの、寝ぼけた少女。


メルダの焦点がゆっくりとバルタザールに合った。


三秒かかった。


「……先生?」


「ああ。起きたか」


「……ご飯は」


バルタザールは鍋を持ち上げた。蓋を開ける。湯気が立ち昇る。きのこのクリームシチューの匂いが、もう何にも遮られることなくメルダの顔に届いた。


メルダの目が見開かれた。寝ぼけていた瞳に、初めて光が宿った。


「……先生のシチュー」


声が震えていた。


「先生のシチューだ……」


ベッドから出ようとした。足に力が入らない。何百年も寝ていたのだから当然だ。ベッドの端から体がずり落ちていく。


バルタザールが片手で支えた。


メルダの体は軽かった。小柄で、華奢で、羽のように軽い。その軽い体が、バルタザールの胸にしがみついた。


両手で外套を掴み、顔を押しつけた。


「先生……ご飯……先生のご飯……」


同じ言葉を繰り返している。語彙が追いつかないのか、他に言葉が出てこないのか。


「食べたかった……ずっと……先生のご飯……」


泣いてはいなかった。


泣くのもめんどくさいのかもしれない。ただ目の縁が赤くなっていて、しがみつく指先だけが震えていた。


それが——一番きた。


ルナリアが目を伏せた。フレアが唇を噛んだ。セラフィナが顔を背けた。三人とも自分の時を思い出していた。師匠に再会した瞬間の、あの溢れるものを。


バルタザールはメルダの頭に手を置いた。


「冷める前に食え」


「……食べさせて」


「は?」


「腕上がんない。めんどい。先生が食べさせて」


「……自分で食え」


「むり。何百年寝てたから腕がだるい。先生のせい」


「俺のせいか」


「先生がいなくなったから寝てたんだから。先生のせい」


理屈になっていない。だが反論する気力もなかった。


バルタザールは鍋からシチューをすくった。木のスプーンに白いクリームときのこが乗っている。


メルダの口元に運んだ。


「……ほら」


メルダが口を開けた。


スプーンが入る。もぐもぐと咀嚼する。飲み込む。


頬を両手で押さえた。


「……おいしい」


声がかすれた。


「1000年ぶりに……おいしい……」


もう一口。もう一口。バルタザールがスプーンを運ぶたびに、メルダが口を開ける。大賢者バルタザールが弟子にあーんをしている。絵面としては完全に崩壊していた。


背後で空気が凍った。


バルタザールは気づいていた。気づいていたが、無視した。無視しきれないことも知っていた。


「先生」


ルナリアの声が低かった。


「今——あーん、してたわよね」


「……手が動かないと言うから」


「あーん、よね」


「食事介助だ」


「あーんでしょう」


言い方を変えても事実は変わらなかった。


フレアが手を挙げた。


「私もやってほしい。先生のあーん」


セラフィナが翼を震わせた。


「あ、あんな……あんな破廉恥なこと……私にもしなさい」


「矛盾してるぞ」


メルダはバルタザールの胸に顔を埋めたまま動かなかった。三人の声が聞こえているはずだが、反応しない。


「メルダ、起きてるか」


「……起きてる。めんどいから動かない」


「降りろ」


「やだ。先生あったかい。1000年ぶりにあったかい。先生のせいで寒かったんだから、あったまるまで動かない」


バルタザールが引き剥がそうとした。メルダの腕が離れない。小柄で華奢な体からは想像できない握力だった。錬金術師の指は強い。


「……先生」


メルダの声が小さくなった。胸に顔を埋めたまま、くぐもった声。


「先生がいなくなったから……何もかもめんどくさくなっちゃった」


「……」


「起きるのも。食べるのも。生きてるのも。全部めんどくさかった」


指の力が少しだけ強くなった。


「でも先生のシチューの匂いがして……やっぱり起きなきゃって思って……」


声が消えていく。


「先生の……せい……」


語尾がとろけた。規則正しい寝息に変わった。


今度は呪縛ではない。ただの睡眠。安心して、力が抜けて、師匠の胸の上で眠ってしまっただけだ。


バルタザールはメルダの頭を見下ろした。


茶色いぼさぼさの髪。小さな寝息。何百年分の疲れを取り戻すように、深く穏やかに眠っている。


「……重い」


嘘だった。羽のように軽い。ただ、胸の奥にかかる重さは——確かにあった。


五人目だ。


五人の弟子が、1000年間、自分を待っていた。その重さを、バルタザールは一人ずつ受け取っている。


城の壁の黒い光が完全に消えた。錬金魔法の緑色が穏やかに灯っている。自動防衛も沈静化し、ゴーレムは石に戻り、液体金属は固まり、城がようやく「ただの古い城」に戻った。


バルタザールはメルダを抱えたまま立ち上がった。


ふと、足元の床に目をやった。


城の地下。この床の遥か下に——何かが微かに脈動しているのを感じた。


錬金魔法ではない。呪縛の残滓でもない。もっと古い何かだ。


気のせいか。


いや——気のせいではない。だが今は追わない。メルダが起きてから調べればいい。


バルタザールは弟子三人を振り返った。


「出るぞ。こいつが目を覚ましたら飯の続きを食わせないといけない」


「先生、私にも食べさせて」


「自分で食え、フレア」


「えー」


「私は自分で食べられるけど、先生が食べさせたいなら受け入れてあげてもいいわ」


「いらん」


「ルナリアは? ルナリアは先生にあーんしてほしくないの?」


「……べ、別にそんなこと思ってないのよ。でも公平性の観点から言えば——」


「正直に言え」


「うるさいのよフレア!」


騒がしい一行が城を出ていく。


バルタザールの腕の中で、メルダは何も知らずに眠っていた。


小さな唇が、寝言を呟いた。


「……おかわり……」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ