# 第16話「先生……ご飯……」
メルダの指が動いた。
右手の小指。次に薬指。握りしめていた毛布の端が、わずかに引っ張られた。
だが目は開かない。
黒い靄がメルダの体を覆い直す。浮上しかけた意識を、呪縛が底へ引きずり込もうとしている。城の壁が黒く脈動するたびに、靄が濃くなっていく。
バルタザールはベッドの横に立っていた。鍋の蓋を外したまま、シチューの匂いをメルダに送り続けている。
「先生、呪縛が匂いを遮ろうとしてる」
ルナリアが声を張った。メルダの周囲に黒い靄が壁を作りはじめている。匂いの粒子がその壁に阻まれ、薄まっていく。
「わかってる」
「どんどん濃くなっていくわ。このままじゃ——」
「もう少しだ」
バルタザールの目はメルダだけを見ていた。
「あいつの意識はもう水面の近くにいる。あと少しで届く」
セラフィナが一歩前に出た。
「先生、力ずくで呪縛を砕けないの? 私の時みたいに精神世界に入るのは無理でも、外から叩き壊すことは——」
「できる」
バルタザールは即答した。
「だがリスクがある。お前の時にあの声が言っただろう。魂と融合した呪縛を力で砕けば、本人も壊れると」
「でも融合はまだ完了してないんでしょう? 今なら——」
「途中で殴ったら、どこまで壊れるか読めない。半端に砕けば呪縛が暴走する可能性もある」
フレアが拳を握った。
「じゃあどうするの。先生でもどうにもできないの」
バルタザールは鍋を床に置き、ベッドの横に腰を下ろした。
「待つ」
「待つ?」
「あいつが自分で起きるのを待つ。俺にできるのは——飯を作って、ここで待ってることだけだ」
三人が黙った。
大賢者バルタザール。手を振れば軍が吹き飛び、デコピンで魔王の呪縛を砕く男。その男が——待つと言っている。
力では届かない場所がある。セラフィナの時に学んだことを、バルタザールは実践していた。
ベッドの横に座り、黒い靄に包まれた少女を見つめる。
小さな寝顔だった。
1000年前を思い出す。
メルダは朝が起きられない弟子だった。他の弟子たちが日の出とともに修行を始めても、メルダだけは布団に包まって動かない。水をかけても起きない。布団を剥がしても丸まって寝る。ルナリアが怒鳴っても、フレアが揺すっても、セラフィナが呆れても、起きない。
だが一つだけ、確実に起きる方法があった。
バルタザールが台所に立つ。
きのこのクリームシチューを作る。匂いが広がる。すると——ふらふらと、目を半分閉じたまま、メルダが台所に現れる。
「先生……ご飯……」
毎朝、同じ台詞だった。
寝ぼけたままバルタザールの足にしがみつき、ずるずると引きずられながら食卓に着く。スプーンを持つ手がふらふらして、三回に一回は口からこぼす。それでもシチューを食べ終わる頃には目が覚めている。
「先生のそばが一番楽」
メルダの口癖だった。
錬金術の才能は弟子の中でも随一だった。やる気を出せば誰よりも精密な術式を組み上げる。だがそのやる気を出すのは——師匠の飯と、師匠に褒められた時だけ。
修行をサボって、バルタザールの膝の上で寝ていたことも何度もあった。降ろしても戻ってくる。諦めて膝に乗せたまま本を読んだ。
「……めんどくさい弟子だったな、お前は」
バルタザールは呟いた。
ベッドの上の少女は答えない。黒い靄が脈動している。
十分が経った。
二十分が経った。
バルタザールは動かなかった。
ルナリアが心配そうに見ている。フレアが落ち着かない様子で尻尾を揺らしている。セラフィナが壁の黒い光を監視している。
シチューの匂いは薄れない。バルタザールが鍋に手をかざし、魔力で温度を保ち続けていた。冷めないシチュー。匂いが途切れない。
靄が匂いを遮ろうとする。匂いが靄をすり抜ける。遮る。すり抜ける。その繰り返しが続いていた。
三十分が経った。
城の振動が強くなった。黒い光が壁だけでなく床にも天井にも広がっている。デミウルゴスの遠隔強化が最終段階に入りつつある。
「先生……融合が近い」
セラフィナの声が切迫していた。
バルタザールはメルダを見つめていた。
黒い靄がメルダの全身を覆い尽くそうとしている。あと数分で——あるいは数十秒で——呪縛と魂の融合が完了する。
そうなったら、もう取り返しがつかない。
殴るか。
リスクを承知で、力ずくで砕くか。
バルタザールの右手が握られた。拳が固くなる。
だが——振り下ろさなかった。
代わりに口を開いた。
「メルダ」
名前を呼んだ。
「起きろ」
静かな声だった。怒鳴りもしない。急かしもしない。1000年前の毎朝と同じ声。
「飯ができてる。お前の好きなきのこのシチューだ」
黒い靄が揺れた。
「冷めるぞ。起きないと食えないだろう」
靄がまた揺れた。大きく。
「——起きろ、メルダ」
メルダの目が開いた。
半開き。焦点が合っていない。瞳孔がぼんやりと広がっている。何百年ぶりの覚醒。意識が水面に浮上した——その一瞬。
バルタザールは逃さなかった。
右手の人差し指が伸びた。
デコピン。
額に一発。正確に。呪縛の核を避け、まだ融合していない「外付け」の部分だけを砕く。針の穴を通すような精度だった。
ぱちん。
黒い靄が弾け飛んだ。
メルダの体から黒い煙が噴き出し、天井に向かって散っていく。城の壁の黒い光が急速に消えていく。緑色の錬金光が戻りはじめる。
呪縛が砕けた。
ベッドの上に残ったのは——小柄な少女だった。
茶色いぼさぼさの髪。丸い頬。眠たそうな目。穴の空いた寝間着。口元によだれの跡。
怠惰の魔王メルダ。だったもの。今はただの、寝ぼけた少女。
メルダの焦点がゆっくりとバルタザールに合った。
三秒かかった。
「……先生?」
「ああ。起きたか」
「……ご飯は」
バルタザールは鍋を持ち上げた。蓋を開ける。湯気が立ち昇る。きのこのクリームシチューの匂いが、もう何にも遮られることなくメルダの顔に届いた。
メルダの目が見開かれた。寝ぼけていた瞳に、初めて光が宿った。
「……先生のシチュー」
声が震えていた。
「先生のシチューだ……」
ベッドから出ようとした。足に力が入らない。何百年も寝ていたのだから当然だ。ベッドの端から体がずり落ちていく。
バルタザールが片手で支えた。
メルダの体は軽かった。小柄で、華奢で、羽のように軽い。その軽い体が、バルタザールの胸にしがみついた。
両手で外套を掴み、顔を押しつけた。
「先生……ご飯……先生のご飯……」
同じ言葉を繰り返している。語彙が追いつかないのか、他に言葉が出てこないのか。
「食べたかった……ずっと……先生のご飯……」
泣いてはいなかった。
泣くのもめんどくさいのかもしれない。ただ目の縁が赤くなっていて、しがみつく指先だけが震えていた。
それが——一番きた。
ルナリアが目を伏せた。フレアが唇を噛んだ。セラフィナが顔を背けた。三人とも自分の時を思い出していた。師匠に再会した瞬間の、あの溢れるものを。
バルタザールはメルダの頭に手を置いた。
「冷める前に食え」
「……食べさせて」
「は?」
「腕上がんない。めんどい。先生が食べさせて」
「……自分で食え」
「むり。何百年寝てたから腕がだるい。先生のせい」
「俺のせいか」
「先生がいなくなったから寝てたんだから。先生のせい」
理屈になっていない。だが反論する気力もなかった。
バルタザールは鍋からシチューをすくった。木のスプーンに白いクリームときのこが乗っている。
メルダの口元に運んだ。
「……ほら」
メルダが口を開けた。
スプーンが入る。もぐもぐと咀嚼する。飲み込む。
頬を両手で押さえた。
「……おいしい」
声がかすれた。
「1000年ぶりに……おいしい……」
もう一口。もう一口。バルタザールがスプーンを運ぶたびに、メルダが口を開ける。大賢者バルタザールが弟子にあーんをしている。絵面としては完全に崩壊していた。
背後で空気が凍った。
バルタザールは気づいていた。気づいていたが、無視した。無視しきれないことも知っていた。
「先生」
ルナリアの声が低かった。
「今——あーん、してたわよね」
「……手が動かないと言うから」
「あーん、よね」
「食事介助だ」
「あーんでしょう」
言い方を変えても事実は変わらなかった。
フレアが手を挙げた。
「私もやってほしい。先生のあーん」
セラフィナが翼を震わせた。
「あ、あんな……あんな破廉恥なこと……私にもしなさい」
「矛盾してるぞ」
メルダはバルタザールの胸に顔を埋めたまま動かなかった。三人の声が聞こえているはずだが、反応しない。
「メルダ、起きてるか」
「……起きてる。めんどいから動かない」
「降りろ」
「やだ。先生あったかい。1000年ぶりにあったかい。先生のせいで寒かったんだから、あったまるまで動かない」
バルタザールが引き剥がそうとした。メルダの腕が離れない。小柄で華奢な体からは想像できない握力だった。錬金術師の指は強い。
「……先生」
メルダの声が小さくなった。胸に顔を埋めたまま、くぐもった声。
「先生がいなくなったから……何もかもめんどくさくなっちゃった」
「……」
「起きるのも。食べるのも。生きてるのも。全部めんどくさかった」
指の力が少しだけ強くなった。
「でも先生のシチューの匂いがして……やっぱり起きなきゃって思って……」
声が消えていく。
「先生の……せい……」
語尾がとろけた。規則正しい寝息に変わった。
今度は呪縛ではない。ただの睡眠。安心して、力が抜けて、師匠の胸の上で眠ってしまっただけだ。
バルタザールはメルダの頭を見下ろした。
茶色いぼさぼさの髪。小さな寝息。何百年分の疲れを取り戻すように、深く穏やかに眠っている。
「……重い」
嘘だった。羽のように軽い。ただ、胸の奥にかかる重さは——確かにあった。
五人目だ。
五人の弟子が、1000年間、自分を待っていた。その重さを、バルタザールは一人ずつ受け取っている。
城の壁の黒い光が完全に消えた。錬金魔法の緑色が穏やかに灯っている。自動防衛も沈静化し、ゴーレムは石に戻り、液体金属は固まり、城がようやく「ただの古い城」に戻った。
バルタザールはメルダを抱えたまま立ち上がった。
ふと、足元の床に目をやった。
城の地下。この床の遥か下に——何かが微かに脈動しているのを感じた。
錬金魔法ではない。呪縛の残滓でもない。もっと古い何かだ。
気のせいか。
いや——気のせいではない。だが今は追わない。メルダが起きてから調べればいい。
バルタザールは弟子三人を振り返った。
「出るぞ。こいつが目を覚ましたら飯の続きを食わせないといけない」
「先生、私にも食べさせて」
「自分で食え、フレア」
「えー」
「私は自分で食べられるけど、先生が食べさせたいなら受け入れてあげてもいいわ」
「いらん」
「ルナリアは? ルナリアは先生にあーんしてほしくないの?」
「……べ、別にそんなこと思ってないのよ。でも公平性の観点から言えば——」
「正直に言え」
「うるさいのよフレア!」
騒がしい一行が城を出ていく。
バルタザールの腕の中で、メルダは何も知らずに眠っていた。
小さな唇が、寝言を呟いた。
「……おかわり……」




