# 第15話「大賢者、台所に立つ」
台所が見つからない。
バルタザールは錬金城の廊下を歩き回っていた。もう十分以上うろうろしている。
「先生、こっちにも扉があるわ」
ルナリアが指差した扉を開ける。その向こうにまた扉があった。開ける。扉。開ける。扉。五枚目でようやく部屋に出たが、さっき通った部屋だった。
「……ループしてる」
「錬金術の空間歪曲ね。侵入者を迷わせる構造よ」
セラフィナが壁の紋様を見て言った。
「階段は?」
フレアが階段を駆け上がった。三段目で壁にぶつかった。階段が途中で壁になっていた。
「なにこれ! 階段が嘘つく!」
「空間の接続が書き換えられてるの。錬金術で城の構造そのものを改変してある」
バルタザールは壁に手を触れた。
目を閉じる。城全体の魔力の流れを読む。錬金魔法の紋様がどう走っているか、空間がどう歪められているか。
「……なるほど。めんどくさい作りだが——台所の方向だけ防衛が薄い」
「なんで台所だけ?」
「あいつが料理しなかったからだろう。守る理由がない」
バルタザールは壁を押した。壁が錬金魔法の光を帯びて揺れ、穴が開いた。その向こうに——台所があった。
埃だらけだった。
何百年も使われていない台所。石造りのかまどに蜘蛛の巣が張っている。棚には錆びた鍋と罅の入った皿。水場の蛇口は固着して回らない。
「ここで料理するの……?」
ルナリアが引きつった顔をした。
バルタザールは外套の袖をまくった。
鍋を手に取り、表面に手を当てた。魔力が流れる。錆が剥がれ、金属が元の輝きを取り戻す。三秒で新品同様になった。
蛇口に手をかけ、捻る。固着していた金属が軋みながら回り、赤い水が出た。しばらく流すと透明な水に変わる。
かまどの錬金窯に手をかざすと、炎が灯った。バルタザールの魔力で強制的に起動させた。
「道具は揃った」
外套の内ポケットから、道中で買った食材を取り出す。市場で仕入れたトマト、きのこ、玉ねぎ、香草。干し肉と乳。塩と胡椒。
「先生、いつの間にそんなに買い込んでたの」
「いい食材があれば買う。基本だろう」
大賢者の基本がどこを向いているのか、弟子たちには理解しがたかった。
包丁を棚から取り出した。
錆びている。鍋と同じ要領で錆を落とそうとした瞬間——包丁の刃が液体金属に覆われた。
銀色の液体がうねり、刃を飲み込み、柄まで侵食していく。呪縛の自動防衛だ。刃物を武器と判定したらしい。
バルタザールは包丁を置いた。
きのこを手に取った。
素手で千切りにした。
爪の先で繊維に沿って裂き、均一な太さに整える。包丁より速かった。玉ねぎも素手で皮を剥き、指先の魔力で細胞を切断してみじん切りにした。涙は出ない。魔力で揮発成分を分解したからだ。
「先生、人間の手でやっていいことじゃないわよそれ」
「包丁が使えないんだからしょうがないだろう」
鍋に水を入れ、かまどにかける。
火が点いた瞬間、壁から錬金ゴーレムが湧いた。石と金属の合成体が鍋に手を伸ばす。
バルタザールはゴーレムの額にデコピンを放った。
頭部が消し飛んだ。胴体だけが残り、腕を伸ばしたまま固まった。
バルタザールはその胴体を引き寄せ、鍋の横に置いた。
「ちょうどいい。鍋置きにする」
「ゴーレムを鍋置きに!?」
フレアが目を丸くした。首のないゴーレムの胴体の上に鍋蓋が置かれている。異様な光景だ。
玉ねぎを炒め始める。錬金窯の火力は安定していた。油は持っていなかったので、干し肉の脂で代用した。
甘い匂いが台所に広がる。
その匂いに反応したのか——天井から薄紫色の霧が降りてきた。
眠りの霧。14話の廊下で弟子三人を眠らせたあの霧が、台所にも流入してきた。
ルナリアの目がとろんとした。「また……この霧……」
フレアが壁にもたれかかった。「ね、む……」
セラフィナが翼で顔を覆おうとして、間に合わず膝をついた。
三人が倒れた。二度目だった。
バルタザールは鍋をかき混ぜながら、大きく息を吸った。
そして吹いた。
息が突風になった。台所の窓が吹き飛び、眠りの霧が窓から外へ押し出されていく。数秒で台所の空気が澄んだ。
「……お前ら、また寝たのか」
床に転がっている三人を見下ろした。返事はない。三人とも穏やかな寝顔で眠っている。
「今回は起こさん。邪魔だ」
バルタザールは料理に戻った。
一人で黙々と作る。
玉ねぎが飴色になったら、きのこを加える。干し肉を細かく裂いて入れる。水を足し、弱火で煮込む。香草を刻んで加え、乳を少しずつ注いでいく。
きのこのクリームシチュー。
1000年前、メルダが一番好きだった料理だ。
あの頃はバルタザールが毎朝これを作ると、メルダだけは確実に起きてきた。どんなに深い眠りでも、この匂いだけは届いた。他の弟子たちが水をぶっかけても叩いても起きないのに、シチューの匂いだけで目を擦りながらふらふらと台所に現れた。
「先生……ごはん……」
寝ぼけた声で、毎朝同じ台詞を言った。
バルタザールは鍋をかき混ぜながら、少しだけ目を細めた。
煮込み始めて十分が経った頃、空気が変わった。
城の壁を走る錬金魔法の光が——緑から黒に変わりはじめた。
バルタザールの手が止まった。
「……来たか」
黒い光が紋様に沿って城全体に広がっていく。壁が軋み、床が振動する。城の構造が変質している。
デミウルゴスだった。
声はない。セラフィナの時のように直接語りかけてはこない。だが呪縛の質が変わったのを、バルタザールは感じ取っていた。
遠隔操作。離れた場所からメルダの呪縛を強化している。
セラフィナが目を覚ました。眠りの霧が消えたことで、弟子たちの眠りも浅くなっていた。壁の黒い光を見て、顔色が変わった。
「デミウルゴスが動いてる。メルダの呪縛を——」
「ああ。強化してる」
「私の時と同じ。いえ——私の時より速い。学習してるわ」
バルタザールは寝室の方角を見た。壁の向こう、メルダが眠っている部屋で、黒い靄が濃くなっていくのが魔力の流れでわかる。
「セラフィナの時は俺が手のひらで入った。あれを警戒して、今度は入る前に呪縛を完成させるつもりだ」
「つまり——メルダが目を覚ます前に、呪縛が魂と融合する?」
「そうなったら、俺でも手が出せなくなる」
ルナリアとフレアも起き上がっていた。城の異変を肌で感じている。
「先生、どうするの」
バルタザールは鍋に向き直った。
「急ぐ」
火力を上げた。錬金窯が唸りを上げる。シチューが煮立ち、湯気が激しく立ち昇る。
乳を加える。塩を振る。胡椒を挽く。味見をして、香草を足す。
手際は完璧だった。1000年のブランクがあっても、この料理だけは体が覚えていた。何百回と作った。毎朝、あの子を起こすために。
城の壁がさらに黒く染まっていく。振動が強くなる。時間がない。
バルタザールは鍋の蓋を取った。
シチューが完成していた。
白いクリームの表面にきのこの断面が浮かび、香草の緑が散っている。湯気が天井まで立ち昇り、甘くて温かい匂いが台所を満たした。
「……これだ。この匂いだ」
バルタザールは鍋を持ち上げた。
台所を出て、廊下を歩く。鍋から立ち昇る湯気が、廊下に匂いを撒き散らしていく。
きのこの旨味。乳の甘さ。香草の爽やかさ。バルタザールの料理でしか出せない、あの匂い。
匂いが廊下を流れた。
黒い靄が反応した。匂いを遮るように、靄が廊下に壁を作った。黒い魔力の壁が匂いの前に立ちはだかる。
匂いが止まった。
——いや。
匂いは、靄をすり抜けた。
魔力の壁は物理的な障壁だ。剣も魔法も弾く。だが匂いは物質ではない。空気に溶けた微粒子だ。壁の隙間を、分子の一つ一つがすり抜けていく。
呪縛は力を止められる。
呪縛は魔法を止められる。
だが——飯の匂いは止められない。
匂いが寝室に届いた。
黒い靄に包まれたメルダの鼻に、きのこのクリームシチューの匂いが触れた。
何百年も動かなかった体に、変化が起きた。
指が動いた。
右手の小指が、ぴくりと跳ねた。
唇が動いた。閉じた目の下で眼球が揺れた。寝返りを打とうとするかのように、肩が動いた。
そして——唇が開いた。
何百年ぶりの声。かすかな、かすれた、寝ぼけた声。
「……せん、せ……ごはん……」
バルタザールは寝室の入り口に立っていた。鍋を持ったまま。
メルダの声を聞いて、口元がかすかに緩んだ。
「ああ。できてるぞ」
だがメルダの体はまだ起き上がらなかった。
黒い靄が濃くなっていく。メルダの意識が浮上しかけているのを、呪縛が必死に引き戻そうとしている。匂いで目覚めかけた意識と、眠りに沈めようとする呪縛が、メルダの中でせめぎ合っている。
「先生、メルダの呪縛がさらに——」
ルナリアの声が切迫していた。
バルタザールは鍋を床に置いた。
メルダのベッドに歩み寄る。
毛布に包まれた小さな体。黒い靄がうねりながら少女を包んでいる。意識は浮上しかけている。あと少し。あと少しで目が覚める。
だが呪縛が、それを許さない。
バルタザールは右手を握った。
拳。
「起きろ、メルダ」
声に力を込めた。師匠が弟子を叩き起こす、1000年前と同じ声。
あとは——メルダの目が開いた瞬間に、全てを決める。




