# 第14話「廃墟の錬金城」
メルダの領域に向かう途中、商業都市ラステルに立ち寄った。
バルタザールの足が、街の入り口で止まった。
「……何だこれは」
目の前に広がっていたのは、巨大な市場だった。
通りの両側に露店が並び、天幕の下に商品が山積みになっている。肉屋、八百屋、魚屋、布屋、金物屋、薬屋。それぞれが独立した店を構え、看板を掲げ、客を呼び込んでいる。
「……肉屋と八百屋が別の店になってる」
「当たり前でしょう。……あれ、そういえば昔はそうじゃなかったわね」
ルナリアが言いかけて、自分の言葉に首を傾げた。
「そうだよ。物々交換だった。肉が欲しければ猟師のところに行って、自分が持ってるものと交換した。店なんかなかった」
「あー……そうだった。忘れてた。何百年も前にこっちに慣れちゃって」
フレアが頭を掻いた。セラフィナが小さく頷く。「言われてみれば、私も最初は通貨の概念がわからなくて苦労したわ。もう思い出せないけど」
弟子たちはバルタザールと同じ時代を生きていた。ただ、1000年かけてゆっくり現代に馴染んだ彼女たちと、つい最近まで1000年前の感覚で眠っていたバルタザールでは、世界の見え方がまるで違う。
バルタザールは市場の中に足を踏み入れた。
目が輝いていた。本人は気づいていないが、弟子三人にはわかった。先生が「楽しんでいる」顔だ。1000年前の戦闘中にも滅多に見なかったあの目。
「この野菜は何だ」
「トマトですよ、おじさん。知らないの?」
「知らん。赤いな。うまいのか」
「生でも焼いても煮てもうまいよ。一袋どうだい」
「もらう」
バルタザールはトマトを買い、ナスを買い、知らない香草を買い、干し肉の質を品定めし、魚屋で保存方法について店主と議論した。完全に主婦の買い物だった。
大賢者の威厳はどこにもなかった。
「先生、この黒い飲み物、飲んでみて」
フレアが屋台から何かを買ってきた。黒い液体が入った陶器のカップ。湯気が立っている。
「何だこれ」
「コーヒーっていうの。苦いけどおいしいよ」
バルタザールは一口飲んだ。
眉が寄った。
もう一口飲んだ。
もう一口。
「……苦い」
「おいしくない?」
「苦いが——悪くない。もう一杯」
結局三杯飲んだ。コーヒーという飲み物は1000年前には存在しなかった。豆を焙煎して抽出するという発想が面白い。誰が考えたんだ。天才だろう。
バルタザールは感心しながら四杯目を頼んだ。
「先生、飲みすぎよ」
「うるさい。1000年分のコーヒーを取り戻してる」
「そんな取り戻し方ある?」
市場の一角に地図屋があった。バルタザールは大陸の全域図を一枚買った。
広げて、目を細める。
「……ここ、昔は山だったんだが」
指が地図の中央あたりの平野を指していた。
「先生が戦闘で吹き飛ばしたんじゃないの」
ルナリアが冷静に言った。
「……そうだったかもしれん」
バルタザールはそっと地図を畳んだ。
市場を抜けて、街の外れに出た。
そこで、バルタザールの足がまた止まった。
畑だった。
街の外壁の外側に、よく手入れされた農地が広がっている。黒い土。整然と並んだ畝。青々とした葉物野菜が風に揺れている。遠くに用水路が見えた。
バルタザールはしゃがみ込んで、土を一掴み手に取った。
指の間から零しながら、匂いを嗅いだ。
「……いい土だ。黒くて肥えてる。腐葉土が混ざってるな。水源も近い」
「先生、何してるの」
「畑を見てる」
「なんで」
「いい農地を探してる」
三人が固まった。
「大賢者が……農地を……?」
セラフィナが信じられないという顔をした。
フレアが笑った。「先生は昔からそうだよ。戦いの合間に野菜育ててた。トマトがあるならここもいいかもね」
バルタザールは立ち上がって、農地を見渡した。
「気候もいい。日当たりも悪くない。だが——四人で住むには手狭だな。あと七人増える予定だし」
沈黙が落ちた。
ルナリアが最初に反応した。
「……先生。今、全員で住む前提で話してない?」
「当然だろう。弟子が路頭に迷ったら師匠の責任だ」
「そういう問題じゃなくて——」
ルナリアの耳が赤くなった。フレアの尻尾が高速で振れた。セラフィナは顔を背けたが、翼が小刻みに震えていた。
バルタザールは気づいていなかった。
昼時になったので、酒場に入った。
四人がテーブルに座る。バルタザールはボロ外套の中年男。その両隣に銀髪のエルフと赤髪の竜人。正面に六枚の翼を畳んだ金髪の天使。
店内の全員が振り返った。
「……なんだありゃ」
「美人三人引き連れてるぞ、あのおっさん」
「しかもなんだ、あの銀髪のエルフ、おっさんにべったりじゃねえか」
「赤い方もくっついてるし」
「金髪のはなんかツンとしてるけど、ちらちら見てるな」
バルタザールは周囲の視線を完全に無視して、メニューを眺めていた。
「肉と魚のどっちにするか」
「両方頼めばいいでしょう」
「贅沢だな」
「先生、1000年前の金貨一枚で一年暮らせるのよ。贅沢とかいう次元じゃないわ」
料理が来た。四人で食べはじめる。
隣のテーブルで、冒険者の一団が掲示板から外した手配書を広げていた。
「おい、この傲慢の魔王の顔……あの銀髪のエルフに似てね?」
「馬鹿言え。魔王がこんな街で飯食うかよ」
「それもそうだな。はは」
ルナリアがさりげなく顔を背けた。フレアが「にしし」と笑ってごまかした。セラフィナだけが正面を向いたまま堂々とスープを飲んでいた。
「お前ら、もう少し目立たないようにできんのか」
バルタザールが小声で言った。
「「「先生が一番目立ってる」」」
三人の声が揃った。
食後、街を出る前に鍛冶屋の前を通りかかった。
バルタザールの足が止まった。三度目だ。この男は興味を引かれると足が勝手に止まるらしい。
店先に剣や槍が並んでいる。バルタザールは一本の剣を手に取り、指で刃を弾いた。澄んだ音が鳴る。
「いい鉄だ。精錬技術が上がってる」
店の奥から鍛冶師が出てきた。腕の太い、日焼けした中年の男だった。
「あんた、目利きだな。うちの鉄はドワーフ山脈の鉱石を使ってる」
「ドワーフ山脈か。まだあるのか。あそこには昔、面白い鉱石があったんだが」
「面白い鉱石?」
「星鉄と言ってな。銀色に光る鉱石で、魔力を通すと——」
バルタザールは言葉を切った。鍛冶師が目を丸くしている。
「星鉄だと!? あんた、星鉄を知ってるのか!?」
「知ってるも何も——」
「伝説の素材だぞ! 古文書にしか載ってない、今は採掘できる場所なんかどこにも……。あんた何者だ」
バルタザールは剣を棚に戻した。
「通りすがりだ。星鉄はもうないのか」
「噂はいくつかある。大陸のどこかに眠ってるとか、古代の遺跡に欠片が残ってるとか。だがどれも裏が取れてない」
「そうか」
バルタザールは少し残念そうな顔をした。
「あったら面白かったんだがな」
何が面白いのか、鍛冶師には理解できなかった。ただボロ外套の男が「星鉄」を当然のように語る姿に、背筋が寒くなるものを感じていた。
街を出た。
北西へ半日歩くと、景色が変わった。
緑が減る。草が枯れ、木が朽ちている。だが焦熱の王国のように焼けているのではなく——腐っていた。大地が不自然に黒ずんでおり、空気に錆びた金属のような臭いが混じっている。
「錬金汚染よ」
ルナリアが顔をしかめた。
「メルダの呪縛から漏れた錬金魔力が、土地を変質させているの。何百年もかけて」
荒野の中央に、城が見えた。
城——と呼べるかどうか怪しい。塔は傾き、壁は苔むし、門は錆びて半開きのまま固まっている。華やかさのかけらもない。ルナリアの銀月城塞やセラフィナの黄金天宮とは対極の、打ち捨てられた廃墟だった。
だが表面を見ると、別の話だった。
崩れた壁の継ぎ目に緑色の光が走っている。錬金魔法の紋様だ。壁が崩れる端から、魔法が自動で修復をかけている。完全に直すのではなく「これ以上崩れない」程度の最低限の修復。堀の水は透明ではなく、黄緑色に光っている。酸だ。
「兵士がいない」
バルタザールが言った。
門の前にも、壁の上にも、見張り台にも、誰もいない。軍を組織した形跡すらない。
「あの子が軍なんか作るわけないわ。面倒くさがって」
セラフィナがため息をついた。
「城の防衛は全部、錬金魔法の自動制御。メルダ本人は一切関わっていない。寝てるだけ」
「あいつらしい」
バルタザールは錆びた門に手をかけた。
門が動く前に、罠が発動した。
門の表面から液体金属が噴き出し、バルタザールの手を包み込もうとした。銀色の液体が蛇のように腕を這い上がっていく。
バルタザールは腕を振った。液体金属が弾け飛ぶ。
門を押し開けて中に入った。弟子三人が続く。
城内は暗かった。窓が全て塞がれている。錬金魔法の緑色の光だけが、廊下をぼんやりと照らしていた。
一歩踏み出した瞬間、床が変質した。
石畳が液体金属に変わり、足が沈みはじめる。沈むのではなく「吸い込む」動きだ。底なし沼のように足を引き込んでいく。
バルタザールは構わず歩いた。足が吸い込まれる力より、踏み出す力の方が圧倒的に強い。液体金属がぎちぎちと音を立てて彼の足を掴もうとするが、一歩ごとに引き剥がされていく。
後ろで悲鳴が上がった。
「きゃっ——足がっ!」
「うわ、これ引っ張られる!」
「汚いわね! 私の足に触らないで!」
ルナリア、フレア、セラフィナが三人とも足を取られていた。元魔王でも、不意打ちには弱い。
バルタザールは振り返り、右手を伸ばした。
三人の襟首を掴んで、まとめて引き上げた。
「……重い」
「重いって言わないで!」
「先生のせいでしょ、さっさと進むから!」
「私は軽いわよ! この二人が重いのよ!」
「「セラフィナ(姉)が一番重いでしょ!」」
「翼の分よ!!」
騒がしい一行が廊下を進む。
次のトラップは壁だった。
壁面から錬金ゴーレムが湧き出してくる。石と金属の合成体。人間大のそれが次々と壁から剥がれて立ち上がり、行く手を塞ぐ。
フレアが炎で薙ぎ払った。ゴーレムが崩れる。だが崩れた破片がすぐに再構成され、新たなゴーレムとして立ち上がる。
「壊しても復活するのよ。素材が再利用されるの」
ルナリアが叫んだ。
「なら素材ごと消す」
バルタザールが右手を振った。
廊下が消えた。
ゴーレムも壁も床も天井も、バルタザールの前方十メートルがまるごと消滅した。向こう側の廊下が見える。
「……先生、城ごと壊す気?」
「壊してない。消しただけだ」
「同じよ!」
最後のトラップは、霧だった。
廊下の奥から、薄紫色の霧が流れてきた。甘い匂いがする。嗅いだ瞬間、意識が遠くなる。
ルナリアが最初に膝をついた。「これ……眠り……の……」
フレアが壁にもたれかかった。「ね……む……」尻尾がだらんと垂れた。
セラフィナが翼で顔を覆おうとしたが間に合わなかった。「こん……な……安い罠に……」
三人が倒れた。
バルタザールは霧の中に立っていた。平然としている。
「俺には効かんが……」
三人を見下ろした。
ルナリアが床に倒れている。フレアが壁に寄りかかって寝ている。セラフィナが翼を広げたまま床に伏している。三人とも穏やかな寝顔だ。
「……担ぐしかないか」
右腕にルナリア。左腕にフレア。背中にセラフィナ。三人まとめて抱えて歩きはじめた。
「めんどくさい」
心からそう思った。
城の最奥に辿り着いた。
巨大な扉を蹴り開けると——寝室だった。
部屋の中央に、異常に大きなベッドがある。天蓋つきの四柱式。シーツは皺だらけで、枕は三つ重ねてある。周囲の床には空の薬瓶、砕けた試験管、散乱した錬金道具、食べかけのパンの化石。
そしてベッドの真ん中に——小さな塊があった。
毛布に包まれた、人の形をした塊。ぼさぼさの茶色い髪だけが毛布の端から覗いている。規則正しい寝息が聞こえる。
怠惰の魔王メルダ。
数百年間、ここで眠り続けている。
バルタザールは三人を床に下ろし、ベッドに近づいた。
メルダの顔を覗き込む。
小柄だ。1000年前から成長していないように見える。丸い頬。閉じた目。口元にはよだれの跡。寝間着は何百年も前のものらしく、所々に穴が空いている。
バルタザールは右手の人差し指を額に向けた。
デコピン。
ぱちん。
——黒い靄が、指を弾いた。
手のひらに切り替える。メルダの額にそっと触れ、魔力を流し込もうとする。セラフィナの時のように、精神世界に入ろうとした。
入れなかった。
意識の海が深すぎる。眠りが深すぎて、入口が見つからない。メルダの心は何百年もの眠りの底に沈んでおり、外からの接触を受け付けなかった。
「……寝てる奴の心には、入口がない、か」
バルタザールは手を引いた。
眠りの霧から回復したルナリアが、ふらつきながら起き上がった。
「先生……メルダは……」
「駄目だ。殴っても通じない。手のひらでも入れない」
「どうするの……」
バルタザールはメルダの寝顔を見下ろした。
1000年前を思い出していた。
この子を起こすのは毎朝の日課だった。何をしても起きない。叩いても水をかけても起きない。ただ一つだけ、確実に起きる方法があった。
バルタザールは立ち上がり、部屋を見渡した。
「台所はどこだ」
「……え?」
「飯を作る」
ルナリアが目を丸くした。フレアが半分寝ぼけた状態で「飯?」と呟いた。セラフィナが翼で床を叩きながら起き上がろうとしている。
「あいつは腹が減れば起きる。1000年前からそうだった。どんなに深い眠りでも——飯の匂いだけは届く」
バルタザールは寝室を出て、廊下を歩きはじめた。
魔王の城で、台所を探している。
大賢者バルタザールの「弟子を起こす作戦」は——料理だった。




