# 第13話「完璧な女の不完全な夜」
三人目の魔王が消えた。
しかも今度は、空から宮殿が降ってきた。
黄金天宮の墜落は大陸全土を揺るがした。着弾地点から数十キロ先の街でも地震が観測され、黄金の破片が雨のように降り注いだ。幸い人的被害は軽微だったが——「被害が軽微で済んだ」という事実そのものが、各国の為政者を震え上がらせた。
「あの規模の落下物を、被害を最小限に抑えながら処理した。つまり——制御できている」
「制御できる人間が、七魔王を次々と潰している。魔王の次は誰だ? 我々ではないのか?」
恐怖の質が変わりはじめていた。
魔王を倒してくれる英雄。そう呼ぶには、あまりにも規格外すぎる存在。
王国騎士団の最高司令部が動いた。
「聖騎士シルヴィア・レイン」
「はっ」
銀髪を短く切り揃えた女騎士が、膝をついた。背筋は定規で測ったように真っ直ぐだった。
「バルタザールと名乗る男の身柄を確保せよ。敵か味方かの判断は——お前に任せる」
「了解であります」
シルヴィアは立ち上がり、踵を鳴らして退室した。
大陸最強の聖騎士が、バルタザールを追いはじめた。
当の本人は、別の問題に頭を抱えていた。
「服がない」
セラフィナが腕を組んで仁王立ちしていた。
黄金の鎧が砕けた今、セラフィナが身につけているのは鎧の下の薄い衣だけだ。天使族の正装らしいが、絹より薄く、朝日に透ける。透ける程度ならまだいいが、破れている箇所もある。
「先生の外套を貸しなさい」
「それはルナリア姉がやったでしょ」
フレアが口を挟んだ。
セラフィナの眉がぴくりと動いた。
「……知ってるわよ。だから同じことはしないわ。私はもっと上品に——」
「じゃあ私のマント貸すよ、セラフィナ姉」
フレアが自分のマントを脱いで差し出した。道中の街で買った予備だ。竜人サイズなのでセラフィナには大きい。
セラフィナは受け取って羽織った。
肩幅が余る。丈は足首を超える。だが問題はそこではなかった。
胸元が合わない。
フレアは細身の竜人体型で、セラフィナは天使族特有の豊かな体つきだ。マントの前を合わせようとすると、胸元の布が足りない。留め金を一番外側にしても、隙間から白い肌が覗く。
セラフィナが必死に前を押さえている。
バルタザールが一瞥して言った。
「紐を結べ。はだける」
セラフィナが固まった。
「……見てたの」
「見てなかったらはだけてるの気づかないだろ」
正論だった。だが正論であることが余計に腹立たしい。
「べ、別にいいでしょう! 私の美しさを目にできるのは光栄なことなんだから!」
「光栄かどうかは知らんが、歩きにくいだろう。ほら」
バルタザールが外套の内ポケットから紐を取り出し、セラフィナの腰の位置でマントを結んだ。手つきは完全に実務だった。娘の着付けを手伝う父親のような、色気のかけらもない手際。
セラフィナの心臓が跳ねた。
意味がわからなかった。
これまで何千人もの男が、セラフィナの美貌に跪いてきた。視線を合わせるだけで恋に落ち、声を聞くだけで骨抜きになった。それが天使の魅了。それが強欲の魔王の力。
この男には何も効かない。
美のポーズも、流し目も、微笑みも、全て素通りする。なのに——腰に紐を結ぶだけの事務的な手つきで心臓が暴れる。
「……この男、おかしいのよ。絶対おかしい」
「何か言ったか」
「何も言ってないわ!」
ルナリアがため息をついた。
「セラフィナ、慣れなさい。先生はああいう人なのよ。1000年前からずっと」
「慣れるわけないでしょう!」
三人旅が四人旅になった。
騒がしさは確実に増した。
夕方、街道沿いの林で野営の準備をした。
バルタザールが焚き火を起こし、魚を焼く。ルナリアが木の実を集め、フレアが薪を割る。セラフィナは——何もしなかった。
「あんた手伝いなさいよ」
「私は手を汚す仕事はしないの」
「魔王やってた人間が何言ってんのよ」
「魔王は手を汚す仕事じゃないわ。統治よ」
ルナリアのこめかみに青筋が浮いた。フレアが「まあまあ」となだめる。
食後。
焚き火が赤く燃えている。バルタザールが火の番をしながら、明日の行程を考えていた。
「先生」
セラフィナの声がした。
振り向くと、セラフィナが焚き火の向こう側に立っていた。
月光の下で、六枚の翼をゆっくりと広げた。白い翼が月の光を受けて銀色に輝く。金色の巻き髪が夜風にたなびく。碧い瞳が焚き火の光を映して、宝石のように煌めいていた。
完璧なポーズだった。
天使族一の美貌が、最高の角度で、最高の照明の下に晒されている。これを見て動揺しない男は大陸に存在しない——はずだった。
「先生、私の横顔をどう思うかしら?」
セラフィナが首を傾げた。計算し尽くされた角度だ。顎のラインが月光に映え、睫毛の影が頬に落ちる。完璧な美。
バルタザールはセラフィナの顔をじっと見た。
「虫がついてるぞ」
「……は?」
「髪。左の巻き毛のところ」
セラフィナが左手で髪に触れた。
指先に、何かが触れた。
柔らかくて、粉っぽくて、ばたばた動くもの。
蛾だった。
大きめの茶色い蛾が、セラフィナの黄金の巻き毛に止まっていた。焚き火の光に引き寄せられたのだろう。月光に輝く完璧な美の横顔に、茶色い蛾が一匹。
「いやぁぁぁぁぁっっ!!」
絶叫が夜の森に響いた。
セラフィナが頭を振り乱して蛾を払おうとする。翼がばたばたと暴れ、焚き火の火の粉が散る。完璧な美のポーズは跡形もなく崩壊した。
ルナリアが腹を抱えて笑っていた。声を殺す余裕もなく、地面に転がっている。フレアは涙を流しながら尻尾で地面を叩いていた。
「と、取って! 取ってちょうだい! 私の髪に虫が——!」
「動くな」
バルタザールが立ち上がり、セラフィナの髪に手を伸ばした。
蛾を摘まんで、ふっと息を吹きかけて飛ばした。茶色い蛾が夜の闇に消えていく。
「取れたぞ」
「……っ」
セラフィナが動かなかった。
バルタザールの手がまだ髪に触れていた。蛾を払った流れで、乱れた巻き毛を指先で整えていた。無意識の動作だった。弟子の身だしなみを直す、師匠の癖。
その手つきがあまりにも自然で——セラフィナの心臓が止まりかけた。
「……なんで」
「ん?」
「虫を払っただけで……なんでこんなに動揺するのよ……」
最後の方は聞き取れないほど小さかった。
セラフィナは顔を背けて、自分の胸を押さえた。碧い瞳が揺れている。
美を武器に攻めたはずだった。師匠を篭絡するはずだった。なのに——蛾一匹で崩壊して、髪を直されただけで陥落しかけている。
「わ、私の美的戦略が……蛾に……」
「何の戦略だ」
「うるさいわね!」
就寝の時間になった。
バルタザールが木に寄りかかって目を閉じる。いつもの姿勢だ。
「先生、私は右側で寝るわ」
セラフィナが宣言した。
「右は私よ」
ルナリアが即座に反応した。
「左は私ー」
フレアが手を挙げた。
セラフィナの目が据わった。
「なら正面で」
「正面は焚き火だ」
バルタザールの冷静な指摘が入った。
三秒の沈黙。
「……焚き火の向こう側で寝るわ。先生の顔が見える位置で」
「好きにしろ」
結局、バルタザールは木に寄りかかり、右肩にルナリア、左肩にフレア、正面の焚き火の向こうにセラフィナという配置になった。
身動きが取れなかった。
ルナリアとフレアはすぐに寝息を立てはじめた。二人とも師匠の隣で寝ることに慣れつつある。それはそれでどうかと思うが、今は放っておく。
セラフィナは寝つけなかった。
焚き火の向こうで横になり、炎越しにバルタザールの顔を見つめている。
ルナリアが右肩に寄りかかっている。フレアが左肩にくっついている。二人の寝顔は安心しきっていた。
セラフィナの胸が締めつけられた。
嫉妬ではない。もっと根の深い感情だった。
1000年間、あの黄金の牢獄で一人だった。完璧な世界に閉じこもって、誰にも触れず、誰にも触れさせず。それが——手のひら一つで壊された。
「……本当に帰ってきたのね、先生」
声にならないくらいの呟きだった。
だが聞こえた人間が、もう一人いた。
ルナリアが薄く目を開けていた。
二人の視線が、焚き火越しに交わった。
気まずい沈黙が落ちた。
ルナリアは何も言わなかった。セラフィナも何も言わなかった。
言葉は要らなかった。
1000年間、同じ痛みを抱えていた弟子同士だ。師匠がいない夜がどれほど長かったか。その長さを知っているのは、互いだけだ。
ルナリアが小さく頷いた。
セラフィナが小さく頷き返した。
それだけで十分だった。
二人は同時に目を閉じた。
翌朝。
バルタザールが全員を起こし、簡単な朝食を取った。セラフィナは文句を言いながらも、バルタザールの作ったスープを三杯飲んだ。
「次はどこに行くの」
ルナリアが聞いた。
「メルダだ」
三人の顔が微妙になった。
「あの子……起きるかしら」
「1000年前から寝坊だったもんね」
「怠惰の魔王。あの子の呪縛は厄介よ」
セラフィナが腕を組んだ。
「本人が寝てるの。ずっと。呪縛が自動で城を守っているけれど、メルダ本人は起きていない。対話しようにも、相手が寝ていたら——」
「精神世界にも入れない、か」
バルタザールがセラフィナの言葉を引き取った。セラフィナの精神世界に入れたのは、本人に意識があったからだ。眠っている相手には使えない。
力では解けない。対話もできない。相手は寝ている。
「……寝てる奴を起こすのが一番めんどくさい」
バルタザールが心底面倒そうに言った。
三人が深く頷いた。経験者は語る、という顔だった。
四人は北西へ向かう街道を歩きはじめた。
怠惰の魔王が眠る廃墟の錬金城へ——まず起こすところからはじめなければならない。




