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「俺が寝てる間に弟子が全員魔王になってた件、愛の鉄拳で魔王を更生させます——師匠、1000年ぶりの出勤」  作者: てん


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# 第12話「手のひらの温度」



闇の中に、バルタザールは立っていた。


ここは宮殿の中ではない。セラフィナの頬に手のひらを触れた瞬間、意識が引きずり込まれた。セラフィナの精神世界——心の内側だ。


1000年前、弟子たちの心を読む術を使ったことがある。あの頃は「めんどくさいから二度とやらない」と封印した技だった。他人の心を覗くのは、覗かれる側にも覗く側にも良いことがない。


だが今回は——覗くためではなく、会いに行くために使っている。


目の前に広がるのは、黄金の世界だった。


現実の宮殿と同じ。いや、もっと完璧だった。床も壁も天井も、一点の曇りもない黄金で満たされている。傷一つない。汚れ一つない。完璧に磨き上げられた、美の牢獄。


バルタザールは歩いた。


靴の音が黄金の床に響く。自分の足音以外、何も聞こえない。風もない。匂いもない。温度もない。完璧だが——何もない世界。


「こんなところに閉じこもってるのか、あいつは」


奥へ進む。


黄金の回廊が続く。壁には額縁が並んでいた。中に絵は入っていない。空の額縁だけが等間隔に掛けられている。かつて何かが飾られていた痕跡だけが残っていた。


「……記憶を捨てたのか」


額縁の一つに手を触れた。かすかに像が浮かぶ。森の中で魔法を練習する少女の姿。光の玉を作ろうとして、爆発させて、煤だらけになっている。


セラフィナの記憶だ。失敗の記憶。不完全な自分の記憶。それを額縁から抜き取って、捨てた。


黄金の世界に、失敗は存在しない。


完璧なものだけが許される。


だから——完璧でない自分自身も、奥に閉じ込めた。


回廊の突き当たりに扉があった。黄金ではない。古びた木の扉。取っ手が錆びている。この完璧な世界で唯一、美しくないもの。


バルタザールは扉を開けた。


小さな部屋だった。


石壁の、何の装飾もない部屋。暗い。窓もない。冷たい石の床に、少女が一人座っていた。


翼がなかった。鎧もなかった。金色の巻き髪は色を失い、白っぽくくすんでいた。碧い瞳は開いているが、何も映していない。


膝を抱えて、壁に背中を預けている。


1000年間、ここにいたのだろう。


「——セラフィナ」


バルタザールが名前を呼んだ。


少女の瞳が動いた。焦点が合うまでに、数秒かかった。


「……誰」


「バルタザールだ」


「知らない」


「お前の師匠だ」


「師匠は死んだ。1000年前に」


声に感情がなかった。怒りも悲しみもない。諦めた人間の声だった。


バルタザールは部屋の中に入り、セラフィナの前にしゃがんだ。目線を合わせる。


「死んでない。寝てただけだ」


「……嘘」


「嘘じゃない。めんどくさいが本当だ」


セラフィナの瞳がわずかに揺れた。だが次の瞬間、首を振った。


「嘘よ。何度もこうやって来たもの。先生の幻が。先生の声が。そのたびに期待して、そのたびに——」


「消えた、か」


「……」


セラフィナが膝を抱える腕に力を込めた。


「もう来ないで。ここにいれば傷つかない。期待しなければ裏切られない。完璧な世界に閉じこもっていれば——」


「完璧な世界?」


バルタザールが遮った。


「あの黄金の世界のことか。額縁が空っぽだったぞ。失敗の記憶を全部捨てたんだな」


セラフィナの肩が震えた。


「失敗は醜いもの。不完全は醜いもの。醜いものは——私の世界にはいらない」


「お前が最初に俺のところに来た日のことを覚えてるか」


セラフィナが顔を上げた。


「最初の日、お前は魔法を見せてくれた。光の矢を三本同時に出す魔法だった」


「……」


「二本しか出なかった」


セラフィナの唇が震えた。


「三本目がどうしても出なくて、お前は泣いた。『不完全なものを見せてしまった、恥ずかしい』と」


記憶が蘇る。幼い天使の少女が、両手を握りしめて俯いていた。完璧でなければ見せたくない。失敗を見られるくらいなら、最初からやらない方がいい。あの頃からそうだった。


「俺はなんて言った?」


セラフィナが答えない。覚えていないのか、覚えているが言いたくないのか。


バルタザールが言った。


「『下手でいい。見せろ』」


沈黙が落ちた。


小さな部屋に、バルタザールの声だけが残った。


「お前の魔法が完璧かどうかなんて、俺は気にしたことがない。お前が見せてくれるから見た。下手でも失敗でも、お前が一生懸命やったものは全部見た。覚えてるだろ」


セラフィナの目から、涙がこぼれた。


一筋だけ。


頬を伝って、顎の先から落ちた。音もなく石の床に染みた。


号泣ではなかった。泣き崩れもしなかった。ただ一筋の涙が——1000年分の我慢を溶かすように流れた。


「……先生」


声が変わった。女王の声ではなく、少女の声でもなく、弟子の声だった。


「先生、なの。本当に」


「本当だ。さっきからそう言ってる」


「でも——私、酷いことをたくさん——」


「知ってる」


「人を傷つけて、世界を壊して——」


「お前のせいじゃない」


「でも——」


「お前のせいじゃない」


二度目は、少しだけ強かった。


バルタザールは手を差し出した。拳ではない。開いた手のひら。


「出るぞ。こんな部屋にいるな」


セラフィナは手のひらを見つめた。長い間。


それからゆっくりと腕を解き、膝から手を離し、震える指先をバルタザールの手に重ねた。


触れた瞬間、世界が砕けた。


黄金の壁が割れ、天井が崩れ、完璧な世界が粉々に砕けていく。だがそれは崩壊ではなかった。黄金の破片が光に変わり、闇を押し退け、小さな部屋を満たしていく。


セラフィナの髪に色が戻った。くすんだ白が、鮮やかな金色に。瞳に光が宿る。背中から、六枚の翼が広がった。白い、純粋な光の翼。黒い鎧の欠片は一つもなかった。


呪縛が——内側から砕けた。


本人が拒絶したのだ。この牢獄は自分のものではないと。


精神世界が消える。意識が現実に戻る。


目を開けた瞬間、バルタザールの体に重力が襲いかかった。


落ちている。


宮殿ごと、自由落下していた。窓の外の雲が猛烈な速度で上へ流れていく。黄金の壁が崩壊し、天井が剥がれ、宝石が散る。数千トンの瓦礫が地上に向かって落ちていく。


「先生っ!」


フレアの声が聞こえた。離れた場所でルナリアを抱えている。二人とも無事だ。


腕の中にセラフィナがいた。意識を失っている。呪縛が解けた直後で、体が追いついていないのだろう。


地上まで——あと数百メートル。


バルタザールはセラフィナを抱え直した。左腕一本で少女の体を支え、右手を地面に向ける。


掌底。


空気を殴った。


衝撃波が下方に放たれ、落下速度を殺した。だが宮殿の瓦礫はそのまま落ちていく。巨大な黄金の柱が頭上から迫る。


バルタザールは跳んだ。瓦礫の間を縫うように、空中で体を回転させ、崩壊する宮殿から飛び出す。


セラフィナを抱えたまま地上に着地した。衝撃で地面が陥没し、クレーターができた。三度目のクレーターだ。


直後、背後で宮殿が地上に激突した。


轟音。爆風。黄金の破片が雨のように降り注ぐ。大地が揺れ、土煙が空を覆い、数キロ先まで衝撃波が広がった。


数十秒後、静寂が戻った。


バルタザールはクレーターの中心に立っていた。腕の中のセラフィナは無傷。外套に包まれて、穏やかな寝息を立てている。


フレアがルナリアを連れて降りてきた。


「先生、無事!?」


「ああ」


「セラフィナ姉は——」


「寝てる」


見下ろすと、セラフィナの顔は安らかだった。黄金の鎧はなく、黒い脈も消えている。纏っているのは薄い白い衣だけだ。


天使の少女が、師匠の腕の中で眠っている。


ルナリアが近づいてきた。セラフィナの寝顔を覗き込んで、小さく息を吐いた。


「……よかった。戻ってきたのね、あの子」


「ああ」


「先生、今回は——殴ってないわよね」


「殴ってない。手のひらで触れただけだ」


ルナリアとフレアが顔を見合わせた。


「先生のデコピンで砕けない呪縛を、手のひらで……」


「力では壊せなかった。あいつの呪縛は、あいつ自身の心と繋がってた。だから——」


バルタザールは言葉を切った。


腕の中のセラフィナを見下ろす。


「——あいつ自身に、壊してもらった」


風が吹いた。


宮殿の残骸が散らばる平原に、砂埃が舞う。空は晴れていた。浮遊島があった場所には、ぽっかりと青い空だけが広がっている。


バルタザールはセラフィナを抱えたまま、残骸の上に腰を下ろした。


しばらくこのまま寝かせておこう。目が覚めたら——面倒なことになるのは目に見えている。


「先生」


ルナリアが横に座った。


「どうした」


「……次の子も、こうやって助けられる?」


バルタザールは答えなかった。


正直に言えば、わからなかった。今回はたまたまうまくいった。セラフィナの心の中に、まだ光が残っていたから。だが次の弟子はどうだ。その次は。そのまた次は。


呪縛は強くなっている。デミウルゴスは学習している。


力だけでは届かない場所がある。それを今日、思い知った。


1000年前も——同じだった。


デミウルゴスを倒しきれなかったのは、力が足りなかったからじゃない。力の使い方が——足りなかったのだ。


「……なんとかする」


バルタザールの答えは、いつもより一拍遅かった。


腕の中で、セラフィナが身じろぎした。


薄く目を開ける。碧い瞳が、至近距離でバルタザールの顔を映した。


三秒の沈黙。


状況を理解するのに、天使の頭脳でも三秒かかった。


自分が。師匠に。抱えられている。お姫様抱っこで。薄着で。


セラフィナの顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。


「お、お、降ろしなさい!! 今すぐ!! 何をしているの!!」


「起きたか。自分で立てるか?」


「立てるに決まって——」


立てなかった。膝が笑って、バルタザールの腕から滑り落ちそうになり、反射的にしがみついた。


「……っ」


「ほら、立てないだろ。もう少しそのままでいろ」


「か、勝手にしなさい……! べ、別にあなたに抱かれたいわけじゃないんだから……!」


「わかってる」


「わかってるなら顔を見ないで! 今の私は完璧じゃないの! こんな姿見られたくないのよ!」


「完璧じゃなくていいと言っただろ」


セラフィナの口が閉じた。精神世界での言葉を覚えている。碧い瞳がまた潤んだ。だが今度は——泣かなかった。唇を噛んで堪えて、バルタザールの胸に顔を押しつけた。


「……ずるいのよ、先生は。昔から」


小さな声だった。


後ろで。


「なんでセラフィナだけお姫様抱っこなのよ!」


「ずるい! 私もやって! 先生やって!」


騒がしい声が二つ。


バルタザールは空を見上げた。


三人目。あと八人。


面倒は加速する一方だが——腕の中の重みは、悪くなかった。

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