# 第11話「砕けない鎧」
セラフィナが動いた。
六枚の翼が開き、黄金の光が爆発する。宮殿全体が光に包まれ、空間そのものが歪んだ。
「あなたが本物の先生かどうかなんて、どうでもいいわ」
セラフィナの声が変わっていた。高飛車な仮面を被り直した、完璧な女王の声。
「この宮殿に招かれざる客は——排除する」
黄金の鎖が虚空から現れた。
一本ではない。何十、何百と。天井から、壁から、床から、あらゆる方向から黄金の鎖が射出され、バルタザールに殺到する。
バルタザールは右手を振った。
鎖が千切れ——なかった。
「……ほう」
バルタザールの目が細くなった。
手で弾いた鎖が、弾かれた端から再生している。切っても切っても繋がり直す。しかも一本一本に込められた魔力の質が高い。ルナリアやフレアの攻撃とは根本的に違う。
「この鎖、お前の魔法じゃないな」
「何を言っているの。私の宮殿にあるもの全てが、私のものよ」
セラフィナの声に揺らぎはなかった。自分のものだと本気で信じている。
だがバルタザールの目には見えていた。黄金の鎖の奥に這う、黒い筋。呪縛の魔力が鎖の芯に埋め込まれている。セラフィナの魔力と呪縛の魔力が絡み合い、区別がつかないほど融合していた。
鎖がバルタザールの腕に巻きついた。足にも。胴にも。数百本の黄金の鎖がバルタザールの全身を縛り上げていく。
「先生っ!」
ルナリアが駆け寄ろうとした。
だがルナリアの足元にも鎖が伸び、足首を捕らえた。フレアの翼にも鎖が絡みつく。
「あぐっ——これ、引き剥がせない!」
フレアが炎を吹いたが、鎖は融けなかった。ルナリアが魔法で断ち切ろうとしたが、切った瞬間に再生した。
「無駄よ。この宮殿の中では、全てが私に従うの」
セラフィナが腕を広げた。宮殿の壁が輝き、床が波打つ。建物全体が一つの巨大な魔法陣として機能していた。
「なるほど。宮殿そのものが呪縛の装置か」
バルタザールは鎖に縛られたまま、感心したように言った。
「ルナリアは鎧だけだった。フレアは怒りに乗せて暴走していた。だがお前の場合は——宮殿ごと呪縛に取り込まれている」
「呪縛? 何のことかしら。これは私の力よ。私の美の結晶。私が望んで作り上げた世界」
「セラフィナ」
バルタザールの声が静かになった。
「お前がこの宮殿を出たのは、いつが最後だ」
セラフィナの口が閉じた。
「外の景色を見たのは? 地上を歩いたのは? 誰かと——お前の宝物じゃなく、生きた誰かと話をしたのは?」
「……そんなもの、必要ないわ」
「必要ないと思わされてるんだ。それが呪縛だ」
バルタザールは鎖を引きちぎった。
ルナリアやフレアの攻撃を鼻で笑ってきた男が、初めて「力を入れて」鎖を断った。再生を上回る速度で次々と引きちぎり、全身の拘束を振り払う。
セラフィナの目が見開かれた。
「ば——馬鹿な。あの鎖は大陸最高硬度の——」
バルタザールは一歩踏み込んだ。
セラフィナが反射的に後ずさる。だが背後は玉座だ。逃げ場がない。
バルタザールの右手が上がった。人差し指が伸びる。いつものデコピンの構え。
「解いてやる。じっとしてろ」
指が、セラフィナの額に触れた。
ぱちん。
衝撃が走った。黄金の鎧に亀裂が——
——入らなかった。
バルタザールの指が、弾かれた。
「……何?」
初めて。
この旅で初めて、バルタザールの顔に驚きが浮かんだ。
デコピンが効かない。ルナリアの全力魔法を消し飛ばし、フレアの呪縛の鎧を粉砕したデコピンが——セラフィナには通らなかった。
「なぜだ」
答えたのはセラフィナではなかった。
宮殿の奥——玉座の背後の壁に、黒い亀裂が走った。
壁ではない。空間に、裂け目が生まれていた。
そこから声が響いた。
低く、古く、世界の底から湧き上がるような声。
『——久しいな、バルタザール』
空気が凍った。
ルナリアとフレアの顔が同時に青ざめた。この声を知っている。1000年前、呪縛とともに聞こえてきた声だ。
バルタザールの目が、初めて鋭くなった。
「お前か。デミウルゴス」
『封印が解けて1000年。よく目覚めた。だが遅すぎたな』
黒い亀裂から、闇が溢れ出した。
宮殿の黄金が侵食されていく。壁が、床が、天井が、黒い靄に覆われ、変質していく。美しかった黄金の世界が、禍々しい闇に呑まれていく。
セラフィナは動かなかった。
動かないのではなく——動けなかった。黄金の鎧から黒い脈が浮き上がり、全身を縛り付けている。瞳の焦点が合っていない。
「セラフィナ!」
バルタザールが叫んだ。
『無駄だ。この器は私のもの。他の二つと違って——この娘は自ら望んで鎧を受け入れた。外から砕くことはできない』
「望んでなどいない。お前が絶望につけ込んだだけだ」
『同じことだ。絶望した心が鎧を求め、鎧が心を包み、やがて一つになる。この娘の魂は既に鎧と融合している。お前の拳で砕けば——娘の魂も砕ける』
バルタザールの拳が握られた。
そういうことか。
ルナリアとフレアの場合、呪縛の鎧は「外から被せられた」ものだった。だから外から砕けた。だがセラフィナの場合は違う。鎧と魂が一体化している。力ずくで砕けば、セラフィナ自身が壊れる。
「先生……」
ルナリアの声が震えていた。
「どうするの? セラフィナを……」
バルタザールは答えなかった。
デミウルゴスの声が続く。
『面白い選択肢を与えてやろう。この娘を力ずくで救えば、娘は壊れる。放置すれば、娘は私の器として完成する。どちらを選ぶ?』
「どっちも選ばない」
バルタザールの声は静かだった。
『ほう。では第三の選択肢があると?』
「ある。これから考える」
沈黙が落ちた。
そしてデミウルゴスは——笑った。
世界の底から響く笑い声が、宮殿全体を振動させた。
『考える時間はない。この宮殿は間もなく落ちる。私の力で浮いていたからな。私が手を引けば——地上まで三千メートル。この娘もろともだ』
宮殿が揺れた。
大きく。
床が傾く。天井から黄金の装飾が落ちてくる。浮遊島全体が、ゆっくりと高度を下げはじめた。
黒い亀裂が消えた。デミウルゴスの気配が薄れていく。去ったのだ。罠だけ仕掛けて。
「先生、宮殿が落ちる!」
フレアが叫んだ。
ルナリアが駆け寄ってくる。「セラフィナを連れて脱出しないと——」
「待て」
バルタザールはセラフィナの前に立っていた。
意識を失った天使の少女。黄金の鎧の奥で、黒い脈が蠢いている。触れれば壊れる。放置すれば沈む。
力ずくで解決できない問題を、バルタザールは初めて突きつけられていた。
「……めんどくさいな」
同じ言葉。だが声の響きが、今までと違っていた。
宮殿の落下速度が上がる。窓の外の雲が、上へ流れていく。
残り時間は——わずかだった。
バルタザールはセラフィナを見つめた。意識のない碧い瞳の奥に、かすかに光るものがあった。
黄金ではない。黒でもない。
もっと小さな、弱い光。
あの頃と同じ——師匠に褒められたくて、必死に魔法を見せていた少女の目の光。
「……まだ残ってるな」
バルタザールは拳を下ろした。
代わりに——手を伸ばした。
拳ではなく、開いた手のひらを。
「先生、何を——」
ルナリアの問いに答える時間はなかった。
宮殿が悲鳴を上げている。崩壊が始まっていた。黄金の壁が裂け、宝石が散り、天井が崩れ落ちてくる。
落下まで、あと数分。
バルタザールの手がセラフィナの頬に触れた瞬間——
宮殿が、闇に呑まれた。




