# 第10話「黄金天宮」
二人目の魔王が消えた。
その報せは、一人目の時より早く大陸を駆け抜けた。
「焦熱の王国が——沈黙した?」
「火山の噴火が止まったそうだ。何百年も燃え続けていた大地が、一夜にして冷えはじめている」
「まさか、傲慢の魔王に続いて憤怒の魔王も……」
「同一人物の仕業だという説が出ている。ボロい外套の男。名前はバルタザール」
「大賢者と同じ名前だと? 馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しかろうが、七魔王のうち二人を単独で倒した事実は動かない」
各国の王宮が再び騒然となった。一人なら偶然かもしれない。だが二人連続となれば話が変わる。
情報が集められた。
街道沿いの宿場町で魔物二百体をあくびで消し飛ばした男。ギルドでランク外認定を受けた男。銀月城塞に単身で乗り込み、十万の軍勢を歩いて突破した男。焦熱の王国で竜化した魔王を素手でねじ伏せた男。
全ての証言が同一人物を指していた。
「本当に——大賢者なのか?」
誰かが冗談のように言った。
誰も笑わなかった。
そんな世界の動きを、当の本人は知らない。
「先生、次はセラフィナのところ?」
フレアが尻尾を揺らしながら聞いた。三人は南東へ向かう街道を歩いている。
「ああ。黄金天宮だったか」
「天界に浮かんでるのよ、あの宮殿」
ルナリアが補足した。
「浮かんでる? 空に?」
「そう。セラフィナが天使の力で持ち上げたの。地上の汚いものに触れたくないって」
「……1000年前はそこまで潔癖じゃなかったが」
「強欲の呪縛のせいよ。美しいものだけを集めて、醜いものを全て排除する。あの子の完璧主義が歪んだ形で出てるの」
バルタザールは空を見上げた。雲の向こうに、かすかに金色の光が見える。
「どうやって上がる」
「飛べばいいんじゃない?」
フレアが当然のように言った。翼があるから飛べる。竜人の論理だ。
「俺は飛べないが」
「先生なら跳べばよくない? 先生のジャンプ力なら雲くらい届くでしょ」
「……まあ、届くか」
届くのか、とルナリアが呆れた顔をしたが、何も言わなかった。もう驚くのをやめたらしい。
「その前に聞いておきたい。セラフィナは今どんな状態だ」
二人の顔がわずかに曇った。
「セラフィナは——私たちの中で一番、呪縛を受け入れてるかもしれない」
ルナリアが慎重に言葉を選んだ。
「受け入れてる?」
「強欲の呪縛は、あの子の元々の性格と噛み合っちゃったの。美しいものを愛でて、コレクションして、自分の美しさに酔う。それはあの子が呪縛の前からやっていたことよ。だから呪縛と本人の境界が曖昧で——」
「自分が呪縛されてることに気づいてない可能性がある、と」
「そう」
フレアが口を挟んだ。
「あとセラフィナ姉、プライドがめちゃくちゃ高くなってる。私やルナリア姉のことも見下してたし。1000年前はもうちょっと可愛げあったんだけどなあ」
「可愛げ……あったか?」
「先生の前ではあったでしょ。『先生、私の魔法見て見て』って」
「ああ、あったな」
バルタザールの脳裏に、白い翼の少女が浮かんだ。金色の巻き髪。碧い瞳。天使族の中でも際立った美貌を持っていたが、性格は——まあ、確かに高飛車だった。ただ、師匠の前では見栄を張りたがるだけの、普通の弟子だった。
「あの子の厄介なところは、美しさを武器にするところよ」
ルナリアが真剣な顔で言った。
「見た目で相手を圧倒して、跪かせる。天使族の魅了の力に呪縛の魔力が加わって——大陸最強の魅了術になってる。目を合わせたら最後、男は全員あの子の虜になるわ」
「俺にも効くのか?」
「……先生には効かないと思うけど」
「じゃあ問題ない」
「問題はそこじゃなくて——」
ルナリアが何か言いかけたが、フレアが上を指差した。
「着いたよ」
見上げると、雲の切れ間に黄金の宮殿が浮かんでいた。
遠くから見たときは光の点にすぎなかったが、真下に来ると規模がわかる。城どころではない。一つの島がまるごと浮いているのだ。島の底面から黄金の鎖が垂れ下がり、表面には宝石がちりばめられた建造物が林立している。光を浴びて全体が輝いており、見上げているだけで目がくらむ。
「成金趣味だな」
「言わないでよ。本人の前で言ったら戦争になるわ」
バルタザールは足元を見た。普通の草地だ。ここから雲の上まで——目測で三千メートルといったところか。
「フレア、ルナリアを連れて飛べ」
「了解! ルナリア姉、つかまって」
「ちょっと、もう少し丁寧に——きゃあっ!」
フレアが翼を広げてルナリアを抱え上げ、一気に空へ飛び立った。ルナリアの悲鳴が小さくなっていく。
バルタザールは一人残された。
軽く屈伸をした。膝を曲げ、地面を踏みしめる。
跳んだ。
地面が爆ぜた。バルタザールが立っていた場所にクレーターができ、衝撃波が周囲の草を薙ぎ倒す。人間一人が跳躍しただけで地形が変わった。
風を切って上昇する。雲を突き抜ける。三千メートルの高度を一跳びで超えた。
黄金の島が目前に迫る。
バルタザールは島の端に着地した。着地の衝撃で黄金の床タイルが数枚割れた。
「……また加減を間違えた」
周囲を見渡す。
黄金。どこを見ても黄金だった。床も壁も柱も黄金。噴水から流れているのも金色の水だ。庭園の花まで金色に輝いている。
「目がちかちかする」
少し遅れてフレアとルナリアが降りてきた。ルナリアの髪が風で盛大に乱れており、不機嫌な顔をしている。
「フレア、次はもう少し——」
「しっ」
バルタザールが手で制した。
気配がある。
宮殿の正面——巨大な黄金の扉の向こうから、圧倒的な魔力が流れてきていた。ルナリアやフレアのものとは質が違う。冷たくて、甘くて、触れた者の意識を蕩かすような魔力。
扉が、ゆっくりと開いた。
光が溢れた。
黄金の光ではない。もっと純粋な、白い光。天使の翼が放つ光だった。
扉の向こうに、一人の女が立っていた。
六枚の翼。黄金の鎧。金色の巻き髪が腰まで流れ、碧い瞳が宝石のように輝いている。肌は陶磁器のように白く、唇は薄い紅色。完璧な左右対称の顔。人間が「美」という概念を体現したら、こうなるのだろう。
強欲の魔王セラフィナ。
その美貌から放たれる魅了の波動が、空間を満たした。見る者全てを跪かせる、絶対的な美の暴力。
フレアが一瞬よろめいた。ルナリアが歯を食いしばって耐えている。魔王同士でも影響を受けるほどの魅了。
バルタザールは——
「久しぶりだな、セラフィナ」
普通に喋った。
セラフィナの碧い瞳がわずかに見開かれた。
魅了が効いていない。世界最強の魅了術が、目の前の男には塵ほどの影響も与えていない。
セラフィナは動揺を飲み込み、薄い笑みを浮かべた。
「……珍しいわね。私の美に跪けない男がいるなんて」
碧い瞳がバルタザールを上から下まで値踏みするように見た。ボロい外套。無精髭。飾り気のない顔。だが——その奥にあるものを、天使の目は見抜いていた。
「あなた、私の美的センサーに引っかかった初めての男よ」
「光栄だが、俺は弟子に口説かれる趣味はない」
セラフィナの眉がぴくりと動いた。
弟子。
その一言で、空気が変わった。
「……弟子、ですって?」
セラフィナの声が低くなった。笑みが消え、碧い瞳が鋭くなる。
「あなた——まさか」
「バルタザールだ。お前の師匠の」
沈黙が落ちた。
宮殿全体が静まり返った。風の音すら消えたように思えた。
セラフィナの完璧な表情が——ほんの一瞬だけ、崩れた。
唇が震え、瞳が揺れ、六枚の翼が小さくはためいた。千年の間、誰にも見せなかった動揺が表面に滲んだ。
だが。
次の瞬間には、全て消えていた。
セラフィナは完璧な笑みを貼り直し、黄金の鎧を鳴らして一歩前に出た。
「面白いことを言うのね。大賢者バルタザールは1000年前に死んだわ。そんな安い嘘で私が動揺するとでも?」
「動揺してただろ。今」
「してないわ」
「翼が震えてたが」
セラフィナの翼がぴたりと止まった。意識して制御したのがわかった。
「……仮に本物だとして」
セラフィナは腕を組んだ。黄金の鎧が光を弾く。
「1000年も弟子を放置した師匠が、今さら何の用かしら」
「迎えに来た」
「迎え? 私を?」
「お前を」
セラフィナは笑った。高く、朗らかに、そして冷たく。
「迎えなんて必要ないわ。見なさい、この宮殿を。この美を。この完璧な世界を。私はここで満たされている。何一つ不足はない」
両腕を広げ、宮殿を示す。黄金と宝石に彩られた、美の結晶。
「あなたに迎えに来てもらう理由がないのよ、先生——」
言ってしまった。
先生。
セラフィナの口が閉じた。自分の口から出た言葉に、自分で驚いている。
呼ぶつもりはなかった。1000年間、その呼び方を封じていた。なのに——目の前にあの顔があるだけで、勝手に口が動いた。
バルタザールは黙っていた。
セラフィナの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。完璧な白磁の肌が、耳の先まで染まっている。
「い、今のは——言い間違いよ! 何でもないわ! 忘れなさい!」
「別に忘れなくていいだろ。俺は先生だ」
「うるさいわね! いいからそこを動かないで! 今から私があなたの正体を暴いて——」
「好きにしろ。ただ」
バルタザールはセラフィナの目をまっすぐに見た。
「先に言っておく。お前の鎧——それは、お前のものじゃない」
セラフィナの動きが止まった。
黄金の鎧。天使の翼。完璧な美。
その奥に——黒い何かが、蠢いていた。
バルタザールの目には、はっきりと見えていた。




