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第29話:違うもの
「……」
キーボードを叩く音が、今日はやけに規則正しい。
昨日までの重さが、嘘みたいに少しだけ軽い。
「……」
画面の文字も、頭に入ってくる。
修正箇所も見える。
判断もできる。
「……」
(やっと、か)
完全じゃない。
でも。
少なくとも、止まってはいない。
「……」
それだけで、十分だった。
「……」
ふと、手が止まる。
視線が、無意識に横へ流れる。
そこにあるのは。
スマホ。
「……」
(……来てるか)
自分でも呆れるくらい、自然な動き。
手に取る。
画面をつける。
通知。
一件。
「……」
紗季。
「……」
開く。
――昨日楽しかったっすね
「……」
口元が、少しだけ緩む。
「……」
――おう、楽しかったな
送る。
数秒。
既読。
すぐに返ってくる。
――でしょ?
――あの店、正解でしたよね
――また行きましょ
「……」
(テンポいいな)
小さく息を吐く。
「……」
――そうだな、また行こう
軽く返す。
「……」
やり取りは、すぐに終わる。
軽くて。
無駄がなくて。
心地いい。
「……」
(ほんと、楽だったな)
昨日のことを思い出す。
居酒屋。
バー。
帰り道。
「……」
紗季は、ずっとあのままだった。
明るくて。
ズカズカ来て。
でも。
「……」
どこかちゃんと、こっちを見ていた。
「……」
(いいやつだよな)
素直に思う。
一緒にいて、楽しい。
気を使わない。
無理もしない。
「……」
(……なのに)
「……」
指が止まる。
「……」
胸の奥に、少しだけ引っかかるもの。
「……」
(なんだよ、これ)
自分でも分からない違和感。
「……」
もう一度、スマホを見る。
紗季のトーク画面。
軽い言葉。
軽い空気。
「……」
(……違うな)
ぽつりと、心の中で言葉になる。
「……」
そのまま、スマホを閉じる。
「……」
視線を、画面に戻す。
「……」
戻す、はずだった。
でも。
「……」
頭の中に、別の顔が浮かぶ。
「……」
弓乃。
「……」
静かな部屋。
落ち着いた声。
少しだけ距離のある空気。
「……」
(……なんでだよ)
「……」
何気ない会話。
短いやり取り。
ベンチでの時間。
「……」
(……落ち着く)
自然と出てくる感覚。
「……」
紗季とは違う。
でも。
「……」
(嫌じゃないとかじゃなくて)
「……」
(……そっちがいい)
「……」
自分でも、少し驚く。
「……」
(ああ)
ようやく、分かる。
「……」
キーボードから手を離す。
「……」
天井を見る。
「……」
頭の中で、ゆっくり整理されていく。
「……」
紗季といる時間は、“楽しい”。
弓乃さんといる時間は――
「……」
(……会いたい)
「……」
その感覚が、はっきりする。
「……」
理由も、言葉もいらない。
「……」
ただ。
そう思う。
「……」
「……弓乃さん」
小さく、口に出る。
「……」
その呼び方が、やけに自然だった。
「……」
(……そうか)
「……」
ようやく、納得する。
「……」
昨日、答えられなかった理由。
「……」
(答え、出てたんだな)
気づいてなかっただけで。
「……」
ふっと、息を吐く。
「……」
でも。
「……」
頭に浮かぶ。
紗季の顔。
「……」
「アタシじゃダメっすか?」
「……」
あの瞬間。
あの目。
「……」
(……悪いな)
「……」
罪悪感が、胸に残る。
「……」
紗季は、本気だった。
冗談じゃなかった。
「……」
(ちゃんと向き合わねえと、ダメだよな)
「……」
でも。
「……」
全部は、選べない。
「……」
それだけは、分かっている。
「……」
ゆっくりと、スマホを手に取る。
「……」
開く。
トーク画面。
弓乃さん。
「……」
指が、止まらない。
「……」
打つ。
――少し、話せますか
「……」
画面を見つめる。
「……」
一瞬だけ、迷う。
(重いか?)
(今じゃないか?)
(またズレるか?)
「……」
でも。
「……」
指は、止まらない。
「……」
送信。
「……」
既読がつくまでの時間が、やけに長く感じる。
「……」
数秒。
「……」
既読。
「……」
心臓が、少し強く鳴る。
「……」
(……来るか)
「……」
数秒。
十秒。
「……」
――いいですよ
短い返信。
「……」
一気に、息が抜ける。
「……」
(……よかった)
小さく、笑う。
「……」
すぐに打つ。
――今から大丈夫ですか
「……」
送る。
「……」
すぐに既読。
「……」
――少しなら
「……」
(少しでいい)
それで十分だった。
「……」
椅子から立ち上がる。
「……どこ行くんだよ」
同僚の声。
「ちょっと外」
適当に返す。
「……」
スマホを握る。
「……」
足が、自然と動く。
「……」
(逃げてねえな)
心の中で、ぽつりと思う。
「……」
昨日までの自分とは、少し違う。
「……」
迷っているのは変わらない。
でも。
「……」
進んでいる。
「……」
それだけで、十分だった。
⸻
――迷いの先に、ようやく一歩を踏み出した。




