11
第11話:扉の向こう
「――ここ!」
結衣が足を止めた。
視線の先にあるのは、大きな日本家屋だった。
門をくぐり、手入れの行き届いた庭を抜け、玄関の前に立つ。
「……ここ?」
思わず、声が漏れる。
想像していた“先生の家”とは、あまりにも違っていた。
広い。
静かで、重厚で。
どこか、現実味が薄い。
「いいから入って!」
結衣が先に玄関を開ける。
靴も揃えず、そのまま中へ駆け込んでいく。
「先生!ただいま戻りました!」
奥へと響く声。
「……」
一瞬、立ち尽くす。
でも。
ここまで来て、引き返す理由はなかった。
「お邪魔します……」
小さく呟いて、靴を脱ぐ。
廊下に足を踏み入れる。
ひんやりとした床。
静まり返った空気。
生活感はあるのに、人の気配が薄い。
その違和感が、少しだけ胸に引っかかる。
「こっち!」
結衣の声に呼ばれる。
奥へ進む。
いくつかの部屋を通り過ぎ、ひとつの引き戸の前で止まる。
「先生、入りますよ!」
返事はない。
結衣が、ゆっくりと戸を開ける。
「……」
布団。
その上に、横たわる人影。
薄暗い室内。
カーテンの隙間から入る光が、わずかに輪郭を照らしている。
「先生、大丈夫ですか!?」
結衣が駆け寄る。
「……ん」
かすかな声。
その声に、胸がざわつく。
ゆっくりと、顔が見える。
「……あ」
時間が、止まる。
「……陽斗、くん?」
弱々しい声。
掠れている。
それでも。
はっきりと、自分の名前だった。
「……弓乃さん」
呼び返す。
それだけで。
胸の奥が、強く締めつけられる。
「……来て、くれたんだ」
少しだけ、笑う。
でも。
その笑顔は、いつもと違う。
力が抜けている。
焦点が、少しだけ曖昧だ。
熱でぼんやりしているのが、分かる。
「……」
言葉が出ない。
ただ、そこに立っていることしかできない。
「……っ」
弓乃の目が、わずかに揺れる。
ぼんやりとしたまま。
それでも、確かにこちらを見ている。
「……よかった」
ぽつりと、零れる。
その声が、妙に小さくて。
やけに、遠く感じる。
一歩、近づく。
無意識だった。
「……会いたかった」
その一言と同時に。
ぽろ、と。
涙が落ちる。
「……っ」
呼吸が止まる。
弓乃自身も、驚いたように目を瞬かせる。
「……あれ」
自分の頬に、そっと触れる。
「……なんで」
戸惑いが、そのまま言葉になる。
でも。
止まらない。
ぽろ、ぽろ、と。
次々に涙が零れていく。
「……ごめん」
弱々しく、笑う。
「……ちょっと、熱で……」
言い訳のような言葉。
でも。
違うのは分かる。
「……」
言葉が出ない。
代わりに。
体が動く。
ゆっくりと、近づく。
「……無理しないでください」
やっと、それだけ言う。
「……」
弓乃は、目を細める。
安心したように。
少しだけ、力を抜く。
「……うん」
小さく、頷く。
でも。
視線は、離れない。
「……ほんとに」
もう一度。
「会いたかった」
今度は、はっきりと。
逃げない言葉。
真っ直ぐに、届く。
「……」
一瞬、迷う。
でも。
「……俺もです」
自然と、出た。
考えるよりも先に。
そのままの、本音が。
「……」
弓乃が、少しだけ笑う。
さっきよりも。
柔らかくて。
どこか、安心した顔。
「……よかった」
その一言で。
この一ヶ月が、静かにほどけていく。
「……あ、ゼリー用意してきますね」
結衣が、空気を読むように立ち上がる。
そっと部屋を出ていく。
戸が、静かに閉まる。
二人きりになる。
「……」
静かな空間。
時計の音すら聞こえない。
「……水、飲めますか?」
自然と、声が出る。
「……うん」
体を起こそうとする。
ふらつく。
「……あ」
とっさに手を伸ばす。
支える。
肩に触れる。
熱い。
想像よりも、ずっと。
「……すみません」
「……いいです」
距離が、近い。
息が、少しだけ触れる。
心臓の音が、やけに大きく感じる。
「……」
ゆっくりと、水を手に取る。
キャップを開ける。
差し出す。
「……どうぞ」
「……ありがと」
少しずつ、口にする。
喉を通る音が、やけに静かに響く。
「……ふぅ」
小さく、息をつく。
その様子を、見ていることしかできない。
「……陽斗くん」
名前を呼ばれる。
さっきよりも、少しだけ弱い声で。
「……はい」
自然に返す。
「……もうちょっとだけ」
ゆっくりと、目を閉じる。
「……いても、いい?」
その一言が、静かに落ちる。
「……はい」
迷いはなかった。
その言葉を聞いて。
弓乃は、ほんの少しだけ。
安心したように、笑った。
――距離は、静かに縮まっていく。
まだ、言葉にならないまま。




