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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第八十二章 伏せた紙

皆さま、大変ご無沙汰しております。

長らく更新が途絶えてしまい、続きを待ってくださっていた皆さまには、大変お待たせいたしました。心よりお詫び申し上げます。


久しぶりの更新となりますので、これまでのお話を少しだけ振り返らせてください。


炉の稼働から三年。

世界のエネルギーの六割を担うまでになったこの国で、人々は豊かな日々を送っていました。

遊とひよりのもとには娘の花蓮が生まれ、鷹宮は澄乃と祝言を挙げることに。

しかしその足元で、炉から各地へ送られる力に、誰も気づかないほど小さな「揺らぎ」が生まれ始めていました。


ここから物語は、新たな人物たちを迎え、大きく動き出します。

改めまして、『器 -UTSUWA- 零』を、どうぞよろしくお願いいたします。

夜の情報管理室は、紙の匂いがした。


灯りは机の上に一つだけ。

壁際の棚には、綴じられた報告書が隙間なく並んでいる。

窓の外では、町の灯りが途切れることなく続いていた。


榊透子は、その報告書を三度読んだ。


一度目は、内容を知るために。

二度目は、書いた者の癖を知るために。

三度目は、書かれていないことを探すために。


『炉より各地へ送出される力に、微小な揺らぎを確認』

『炉本体の出力に異常なし』

『発生箇所、複数』

『頻度、漸増の傾向』


榊は報告書を置き、机の引き出しから町の地図を取り出した。


広げる。

四隅を文鎮で押さえる。


報告にあった場所へ、小さな印をつけていく。


工房の並ぶ東の町。

川沿いの受電所。

南の町の外れ。

北の街道沿いの宿場。


北の郡。

朝比奈という若い議員の地盤だと、榊は記憶していた。

あの男なら、気づけば必ず騒ぐ。


一つ。

また一つ。


印は、散らばっていた。


偏りがない。

それが、かえって嫌だった。


どこか一か所の故障なら、そこを直せば済む。

だが、これは違う。

どこにも原因がなく、どこにでも起きている。


「……炉の、外じゃない」


小さく呟いた。


誰に聞かせるでもない声だった。


◇


「まだいらしたんですか」


戸口から声がした。


早瀬だった。

情報管理室に入って二年目の若い部下で、まだ肩に力が入っている。

両手に湯呑みを二つ持っていた。


「あなたこそ」

「室長が帰らないので」

「私は帰らなくていいの」

「では、私も帰らなくていいことになります」


榊は小さく息を吐いた。


早瀬は湯呑みを一つ机に置き、地図を覗き込んだ。


「……揺らぎの件ですか」

「ええ」

「上へ上げますか」


榊は答えなかった。


早瀬は印の数を目で追う。


「研究院にも知らせたほうが……」

「何を?」


早瀬が口をつぐむ。


「原因も分からない。どこで起きるかも分からない。炉そのものには異常がない」


榊は地図から目を離さない。


「それを、何と言って知らせるの」


「……揺らいでいる、と」


「そうね」


榊は湯呑みを手に取った。

温かい。

だが、口はつけなかった。


「それを聞いた人は、どう思うかしら」


◇


早瀬が帰ったあとも、榊は地図の前に座り続けていた。


考えていた。


炉は今、この国だけのものではない。


世界の灯りの、六割。


海の向こうの国々は、この国から送られる力で工場を動かし、町を照らし、冬を越している。


もし、「その力が揺らいでいる」と漏れたら。


市場は、揺らぎそのものより先に動く。

値が跳ねる。

備蓄に走る者が出る。

買い占めが起きる。

困るのは、蓄える余裕のない者たちだ。


そして。


榊は、机の端に置かれた一枚の通達へ目をやった。


来月、海向こうの国から使節団が来る。


表向きは、供給量をめぐる協議。


だが、あの国がなぜ今、使節を寄こすのか。

榊には見当がついていた。


彼らは知りたいのだ。


この国の炉が、どこまで確かなものなのかを。

そして、どこに弱みがあるのかを。


完成していない技術ほど、欲しがる者はいる。


いつか、自分が評定の席で口にした言葉だった。


揺らいでいる炉は、完成していない炉と同じだ。


この報告書は、今この国で最も価値のある紙かもしれない。


◇


伏せればいい。


そう考える自分がいた。


裏付けが揃うまで、上には上げない。

研究院にも知らせない。

表に出るのは、原因が分かり、手を打つ算段がついてからでいい。


それが、情報を扱う者の務めだ。


一つの報せで、人は動く。

一つの報せで、人は死ぬ。


榊は、それを知っている。


誰よりも。


◇


あの冬のことを、榊はほとんど誰にも話したことがない。


白嶺。


国の北の果て、雪に閉ざされた防衛線。


榊は、そこから遠く離れた伝令室にいた。


前線から上がってくる報せを受け、整え、上へ送る。

上から降りてくる命令を受け、整え、前へ送る。


それが仕事だった。


燃料が届かなくなって、ひと月が経っていた。


前線からの報せは、日に日に短くなっていった。


『凍死者、本日十二』

『動力停止、第三陣地』

『暖を取る手段なし』


紙の上の数字が、増えていく。


伝令室の誰もが、それを読みながら、何もできなかった。


◇


その報せが届いたのは、雪の夜だった。


敵国の新しい兵器。

その設計の一部を手に入れた、という報せ。


兵器は、まだ完成していない。

試作の拠点が、白嶺の北の林の奥にある。

守りは手薄。


今なら、叩ける。


伝令室が、にわかに色めき立った。


上官が言った。


「すぐ前線へ回せ」


榊は、その報せの出所を確かめようとした。


一つしかなかった。


一人の密偵からの、一通の報せ。

それだけだった。


「裏付けが取れていません」


榊は言った。


「もう一日だけ――」


「一日で、何人凍えると思っている」


上官の声は、怒鳴り声ではなかった。

疲れ切った声だった。


「この冬を越すには、何か一つ、勝ちが要るんだ」


榊は、それ以上言えなかった。


伝令文を書いた。


筆が震えないように、手首を机に押しつけて書いた。


『北の林の奥、敵試作拠点。守備手薄。速やかに制圧されたし』


宛先。


前線、真壁隊。


◇


罠だった。


未完成の兵器など、なかった。


あったのは、待ち構えていた敵の部隊だけだった。


完成していない技術ほど、人は欲しがる。

敵は、それを知っていた。


真壁隊は林の中で囲まれた。


そのあとのことを、榊は報告書でしか知らない。


退路を開くために、試作の爆薬が使われたこと。

それが、味方をも巻き込んだこと。

防衛線は、その部隊が敵を引きつけている間に立て直されたこと。


戦いのあと、帰還者の名簿が伝令室に届いた。


榊は、それを読んだ。


短かった。


◇


一度だけ、真壁陣を見たことがある。


戦が終わったあと。

都へ戻る兵たちの列の中に、彼はいた。


胸の前で、布に包んだ何かを抱えていた。


小さな金属の擦れる音がした。


認識札の束だと、あとから知った。


榊は声をかけようとした。


何を言うつもりだったのかは、自分でも分からない。


詫びるのか。

名乗るのか。


真壁が、ふとこちらを見た。


目が合った。


彼は榊が誰なのかを知っていたのだと思う。


何も言わなかった。


責めもしなかった。


ただ、小さく頭を下げて、通り過ぎていった。


その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。


◇


榊は、目を開けた。


情報管理室の灯りが、じじ、と小さく鳴った。


机の上。


書類の山の中に、数日前に回ってきた一枚の写しがある。


影の一件で見つかった人骨。

その土の中から出てきた、認識札。


『白嶺』

『真壁隊』


名前は、削れて読めなかった。


榊はその写しを、指先でそっと引き寄せた。


あの林だ。


自分が一通の紙で送り出した部隊が、雪の下に取り残された場所。


そこで、影が出た。


偶然かもしれない。

偶然でないのかもしれない。


分からない。


分からないものを、分からないまま流して、人を死なせた。


だから、確かめなければならない。


◇


だが。


榊は、地図の上の印を見た。


一つ。

また一つ。


報告書の日付を見る。


先月より、今月のほうが多い。


あの冬も、そうだった。


『凍死者、本日十二』


数字は、毎日少しずつ増えていった。


伝令室の誰もが、それを見ていた。

見ていながら、「まだ確かではない」と言い合っていた。


確かめている間にも、数字は増えた。


あの時、急いで殺した。


では、今度は。


待って殺すのか。


榊は、両手で顔を覆った。


指の隙間から、息が漏れる。


どちらを選んでも、白嶺がついてくる。


◇


どれほど、そうしていたのか分からない。


窓の外で、夜回りの拍子木が鳴った。


カン。

カン。


榊は顔を上げた。


筆を取る。


墨をすり、紙を引き寄せる。


手首を、机に押しつけた。


あの夜と同じように。


書いた。


『炉送出系統の揺らぎに関する件』

『本件、当面これを非公開とする』

『情報管理室において、独自に裏付けを行う』

『観測地点を倍に増やし、十日ごとに照合』

『研究院への照会は、行わない』


最後の一行で、筆が止まった。


研究院。


斎原遊。


炉を造った男。


彼に聞けば、何かが分かるのかもしれない。


だが、研究院に聞けば、研究院の中で話が広がる。

広がった話は、必ずどこかから漏れる。


そして来月、使節が来る。


榊は、その一行を消さなかった。


判を押した。


◇


紙を揃え、綴じる。


それから榊は、引き出しの一番奥から、一枚の古い紙を取り出した。


黄ばんだ伝令文の写し。


『北の林の奥、敵試作拠点。守備手薄。速やかに制圧されたし』


榊はそれを、机の上に置いた。


伏せて。


文字が見えないように。


それでも、そこにあることだけは忘れないように。


「今度は、確かめるわ」


誰もいない部屋で、そう言った。


「……間に合ううちに」


灯りを落とす。


部屋が闇に沈む。


伏せた紙だけが、机の上に残っていた。


◇


同じ夜。


炉の奥深く。


誰の目も届かない場所で、光の流れが、また一つ揺らいだ。


ほんのわずかに。


誰も困らない程度に。


けれど、昨日よりも少しだけ、長く。

ここまでお読みいただき、改めてありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。

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