第八十一章 揺らぎ
朝の光が、窓から差し込んでいた。
遊は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。
隣では、ひよりがまだ眠っている。
その向こうから、小さな寝息が聞こえていた。
花蓮だ。
三歳になった娘は、昨夜もいつの間にか二人の間へ潜り込んできていた。
遊は身体を起こし、花蓮の顔を覗き込む。
頬には、寝ている間についた布団の跡が残っている。
「……また来やがったな」
小さく呟く。
すると、花蓮が目を開けた。
「おとうさん……」
「起きたか」
「おなかすいた」
「第一声がそれかよ」
花蓮は答えず、布団の中でもぞもぞと動いた。
「おとうさん、ごはん」
「はいはい」
遊が立ち上がる。
その背後から、ひよりの眠そうな声が飛んできた。
「遊……」
「あ?」
「花蓮の朝ごはん、お願い」
「分かってるって」
「あと……」
「なんだよ」
「私の分も」
遊は振り返った。
「自分で作れ」
「ひどい」
ひよりが布団を頭までかぶる。
花蓮が笑った。
「おかあさん、だめだね」
「お前もそのうち分かる」
「なにが?」
「……なんでもねえ」
遊は苦笑しながら部屋を出た。
窓の外では、街がもう動き始めていた。
かつてとは違う景色だった。
道には荷を運ぶ乗り物が走り、人々はそれぞれの仕事へ向かっている。
炉から生まれる力は、今や暮らしの隅々にまで行き渡っていた。
灯りが消えることはない。
冬でも暖かい家が増えた。
遠くの町へ行くことも、昔ほど難しくはない。
人々は、明日のことを考えて暮らしている。
それは、とても当たり前のことだった。
そして、その当たり前こそが、遊にとっては何より大切だった。
街の中央では、今日も炉が働いている。
巨大な炉から送り出された力が、建物へ、工場へ、乗り物へと流れていく。
炉が止まることはない。
止める必要もない。
そう考えられるほど、今の暮らしは炉に支えられていた。
三年前には、こんな景色はなかった。
あの頃は、炉を恐れる者も多かった。
けれど今では違う。
炉があるから、夜でも街は明るい。
炉があるから、遠く離れた町とも行き来できる。
炉があるから、食べ物も、薬も、必要なものも、以前よりずっと多くの人に届く。
人々は炉を信じ始めていた。
その朝。
街の一角にある小さな工房で、ひとつの機械が止まった。
ほんの数秒だった。
灯りが消えたわけでもない。
炉が止まったわけでもない。
ただ、機械の針が一度だけ大きく振れた。
作業をしていた男が顔を上げる。
「……今の、なんだ?」
隣の男が機械を覗き込む。
「分からん。記録は?」
「異常なし」
「じゃあ、気のせいだろ」
男は肩をすくめた。
機械は、何事もなかったように動き続けている。
同じ頃。
別の町でも、小さな異変が起きていた。
炉から送られた力を受け取る装置が、一瞬だけ出力を落とした。
また戻る。
誰かが気づくほどではない。
誰かが騒ぐほどでもない。
けれど、それは一つではなかった。
いくつもの場所で。
ほんのわずかに。
炉から届く力の流れに、これまでにはなかった揺らぎが生まれていた。
そして、その揺らぎは人々の暮らしを壊すほど大きくはなかった。
むしろ、暮らしが豊かになったことで、誰もそれを気に留めなかった。
「おとうさん!」
背後から花蓮の声がする。
「早く!」
「分かったよ」
遊は振り返った。
小さな足音が、こちらへ駆けてくる。
その姿を見ながら、遊はふと思った。
三年前には、こんな朝が来るなんて想像していなかった。
世界が変わった。
人も変わった。
そして、自分も変わった。
それでも。
こうして娘に急かされながら朝飯を作っている。
それだけで、十分だった。
そんな日々が、続いていた。
少なくとも。
この時までは。
「おとうさん、これ!」
花蓮が椅子の上から身を乗り出した。
「こぼすなよ」
「こぼさない」
「昨日こぼしただろ」
「きのうは、こぼした」
「だろ?」
花蓮は少し考えてから、胸を張った。
「今日はこぼさない」
「……信用できねえな」
「遊」
ひよりが横から口を挟む。
「朝から娘に厳しすぎ」
「厳しくねえよ。こいつが危なっかしいんだ」
「花蓮は大丈夫だもんね」
「うん!」
二人に挟まれた花蓮が、嬉しそうに笑う。
その笑い声が、部屋の中に広がった。
遊は湯気の立つ皿を並べながら、窓の外へ目をやった。
街はすっかり明るくなっていた。
遠くに見える炉の塔から、細い光が空へ伸びている。
昔なら、あの光を見て不安になる者もいただろう。
今では、違った。
あの光は、豊かさの象徴だった。
街灯が灯る。
工場が動く。
家々に暖かさが届く。
水を汲みに遠くまで歩く必要もない。
子供たちは夜でも明るい道を歩ける。
人々は、炉があることを疑わなくなっていた。
「ねえ、おとうさん」
花蓮が言った。
「ん?」
「あのひかり、なに?」
「炉だ」
「ろ?」
「そうだ」
「おっきい?」
「ああ。めちゃくちゃでかい」
花蓮は窓の外を見た。
「見に行きたい」
「そのうちな」
「今日?」
「今日は駄目だ」
「なんで?」
「仕事がある」
「おとうさん、仕事きらい?」
遊の手が止まった。
「……嫌いじゃねえよ」
「じゃあ、行こう」
「話聞いてたか?」
ひよりが吹き出す。
「花蓮、遊は仕事があるの」
「おかあさんは?」
「お母さんもあるの」
「じゃあ、花蓮は?」
「花蓮は…」
ひよりが少し考えた。
「遊とひよりを困らせる仕事」
「それ、お前の仕事じゃねえか」
「私はそんな仕事してないよ」
「してるだろ」
また笑い声が上がった。
そのときだった。
家の灯りが、一度だけ明滅した。
ほんの一瞬。
花蓮が瞬きをする。
「……?」
遊も窓を見た。
「今、消えた?」
「え?」
ひよりが顔を上げる。
「いや……」
遊は部屋を見回した。
灯りは何事もなかったように点いている。
「気のせいか」
「たぶんね」
ひよりもそう言って、食事へ戻った。
花蓮だけが、天井を見上げていた。
小さな指で、何かを数えるように動かしている。
「花蓮?」
「……いっかい」
「何が?」
「ひかり、ぱってしたよ?」
遊は娘の顔を見た。
「そうだな」
「なんで?」
「分からねえ」
遊はそう答えてから、少しだけ考えた。
「たぶん、疲れてんだろ」
「ひかりが?」
「そうだ」
「ひかりも、つかれるの?」
「……さあな」
ひよりが笑う。
「遊、適当」
「うるせえ」
花蓮も笑った。
それで終わった。
誰も気にしなかった。
街では、もっと大きなことが起きていたからだ。
炉の力によって、新しい工場が建てられていた。
遠くの町を結ぶ道も整えられていた。
病で苦しむ人も減っていた。
子供たちが学校へ通えるようになり、夜遅くまで灯りの下で本を読むこともできる。
人々は未来の話をするようになった。
十年後。
二十年後。
その先の暮らしを。
炉は、人々に「これから」を与えていた。
だからこそ。
誰も、その小さな揺らぎを見ようとはしなかった。
その頃。
街の中心から少し離れた場所にある施設では、ひとりの男が記録を眺めていた。
画面に並んだ数字を、何度も確認する。
「……またか」
昨日も同じだった。
一昨日も。
そして、その前の日も。
炉そのものに異常はない。
出力も安定している。
大きな変化はない。
それなのに。
炉から各地へ送られた力の一部だけが、わずかに揺れている。
男は眉を寄せた。
「こんな記録……前にはなかったよな」
隣にいた者が答える。
「誤差じゃないのか?」
「だったら、同じ場所で何度も出るか?」
返事はなかった。
男は記録を拡大した。
揺らぎは、少しずつ増えている。
ほんのわずかに。
誰も困らない程度に。
けれど確かに。
増えていた。
男はしばらく画面を見つめた。
そして、記録を保存した。
「一応、上に回しておく」
「大げさじゃないか?」
「そうかもしれん」
男は苦笑した。
「でも、こういうのは早めに見つけた方がいい」
彼はまだ知らなかった。
その「小さな揺らぎ」が、何を意味しているのか。
そしてそれが、炉の外側ではなく。
炉の中で起きていることを。
◇
その記録は、いくつかの部署を経て、一つの机に届いた。
影の一件以来、炉に関わる異常の報せは、すべて一か所へ集められることになっている。
国防部門、情報管理室。
書類の束の一番上に、それは置かれた。
榊透子は、まだそれを開いていない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




