第八十章 花蓮
三年が過ぎた。
世界は、いつも通りに動いていた。
朝になれば人々は目を覚まし、仕事へ向かう。
店には商品が並び、街には人が行き交う。
子供たちの声が、あちこちから聞こえる。
一見すれば、平和そのものだった。
けれど、水面の下では、世界の勢力図が大きく書き換えられていた。
この国が生み出した炉は、今や世界のエネルギー供給のおよそ六割を担っている。
その比率は、今も伸び続けていた。
◇
執政会、筆頭室。
御堂惣一郎は、壁に掛けた世界地図の前に立っていた。
炉の力が届く国々に、朱の印が打たれている。
その数は、三年前の倍を超えていた。
「……もう、誰にも頭を下げずに済む」
御堂は引き出しを開け、奥にしまった講和の条文の写しに、一度だけ触れた。
そして、静かに閉じた。
◇
炉から生み出されるエネルギーは、産業を押し上げ、国の財政を膨らませ、新しい産業を次々と生み出していった。
道路が整備され、工場が建ち、都市が広がる。
数年前まで瓦礫が残り、家屋がまだら模様のように点在していた街でさえ、今では大きな建物が立ち並ぶ都市へと変わりつつあった。
人々の暮らしも豊かになった。
食卓に並ぶものが増えた。
住む場所が増えた。
働く場所が増えた。
そして、子供が増えた。
街のあちこちで、子供たちの声が聞こえるようになった。
町外れに、一軒の家がある。
大きな家ではない。
庭も、それほど広くない。
けれど、そこには穏やかな時間が流れていた。
「ぱぱ!」
庭から声がした。
「ん?」
遊が振り返る。
小さな女の子が、こちらへ向かって走ってくる。
花蓮。
二歳になったばかりの娘だった。
色白の頬に、溢れそうなほど大きな瞳。
少しじっとしていないところはあるが、覚えるのも早い。
最近では二語文も話すようになり、大人の言葉をよく聞いている。
「ぱぱ、こっち!」
「こっちって、どっちだよ」
「こっち!」
花蓮が手を振る。
「そっちか」
遊が立ち上がる。
「走ると転ぶぞ」
「ころばない!」
「そう言って転ぶんだよ」
「ころばないもん!」
花蓮は笑いながら走っていく。
遊も後を追った。
「パパ、これ!」
花蓮が小さな石を拾って差し出す。
「なんだ、それ」
「たからもの」
「宝物か」
「うん!」
「じゃあ、大事にしろよ」
「うん!」
花蓮は嬉しそうに石を握った。
「花蓮」
家の方から、ひよりの声がする。
「ご飯よ」
「ごはん!」
花蓮が振り返る。
「たべる!」
「さっきまで宝物だった石は?」
「ここ!」
花蓮は庭の隅に石を置いた。
「あとでとる」
「はいはい」
ひよりが笑う。
遊も笑った。
こんな時間が、毎日のように続いている。
朝が来て。
昼になって。
夜には三人で食卓を囲む。
特別なことなど、何もない。
けれど遊には、それが不思議だった。
どうして今、自分はこんなにも幸せなのだろう。
花蓮を見る。
笑っている。
ひよりを見る。
笑っている。
自分も笑っている。
それだけのことなのに、胸の奥が満たされている。
そんな時、ふと由真のことを思い出す。
花蓮と由真が重なるわけではない。
顔も違う。
声も違う。
性格も違う。
花蓮は花蓮で、由真は由真だ。
まったく違う。
それでも、娘を見ていると、あの頃のことを思い出す。
自分は薄情な男なのだろうか。
そんなことを考えたこともあった。
過去を忘れて、新しい幸せを受け入れている。
けれど、違う。
忘れたわけではない。
由真のことを忘れたわけではない。
あの時間をなかったことにしたわけでもない。
ただ、人は生きていかなければならない。
失ったものを抱えたままでも、笑うことはできる。
それを遊は、少しずつ理解し始めていた。
かつて、ひよりに言われた言葉があった。
あの時には、よく分からなかった。
けれど今なら、少しだけ分かる気がする。
過去がなくなるわけじゃない。
過去を抱えたままでも、人は前へ進める。
「パパ!」
「ん?」
「おそと!」
「もう外にいるだろ」
「もっと!」
「もっとって、どこ行くんだよ」
「おさんぽ!」
「散歩か」
「おさんぽ!」
花蓮が遊の手を引っ張る。
「はいはい」
遊が笑う。
ひよりも庭へ出てきた。
「ねえ、遊」
「ん?」
「そういえばね」
ひよりが何気なく言った。
「鷹宮さん、祝言を挙げるんだって」
「……は?」
遊の手が止まった。
「誰が?」
「鷹宮さん」
「あの堅物が?」
「そう」
「冗談言ってんじゃねぇよ」
「冗談じゃないって」
「え? 本当なのか?」
「だから、そう言ってんじゃん」
「アイツがねー……」
ひよりが大きくため息をついた。
「何このやり取り。やっとまともに話せるの? はー……」
「いや、だってよ」
「そんな柄じゃないって?」
「だろ?」
「まあ、分からなくはないけど」
「だよなぁ」
「でも本当なの」
「……マジか」
遊は腕を組んだ。
「そんな柄じゃねえな!」
ひよりが呆れた顔をする。
「あんたねー」
「なんだよ」
「あんたもそんなこと言えた柄じゃないじゃない」
「俺はいいんだよ」
「何がいいのよ」
「……」
遊が黙る。
ひよりが花蓮を見る。
「ねー。花蓮ちゃん!」
「パパ、らめらよー」
「……」
「わるぐち、いっちゃー」
遊は完全に言葉を失った。
返す言葉がない。
「あらー」
ひよりが花蓮の頭を撫でる。
「えらいわねー」
「ままー」
「ん?」
「おそと、いきたい」
「はいはい。行きましょうね」
ひよりが花蓮を連れて歩き出す。
「おい、ちょっと待て!」
遊が慌てて追いかける。
「俺だけ悪者みたいになってねぇか?」
「知らないよ」
ひよりが振り返る。
「しらないよー」
花蓮まで真似をする。
「おい!」
遊が追いかける。
その時だった。
背後から、咳払いが聞こえた。
「……」
遊の足が止まる。
「悪かったな」
聞き覚えのある声。
「柄じゃなくて」
「ごほっ!」
遊がむせた。
「ごほ! ごほ!」
勢いよく振り返る。
「うお!」
そこに鷹宮が立っていた。
「脅かすんじゃねぇ!」
「俺は普通に来ただけだ」
「あ……鷹宮」
「さっきから俺の話をしていただろう」
「いや、それは……」
遊が目を逸らす。
ひよりは笑いをこらえている。
「知らないよ」
花蓮も続ける。
「しらないよー」
「お前ら……」
遊が二人を見る。
「おい、待ってくれ!」
ひよりと花蓮は、そのまま歩いていく。
「いやー!」
遊が追いかけようとした。
その時だった。
鷹宮の後ろから、ひとりの少女が姿を現した。
黄色い髪飾りが、陽の光を受けて揺れている。
柔らかな空気をまとった、おっとりとした少女だった。
ひよりが先に気づく。
「あ」
顔が明るくなる。
「あ。澄乃!」
「ひよりさん」
「来てたんだ」
「はい」
澄乃は少し恥ずかしそうに笑った。
「びっくりしたわよ!」
「え?」
「あなたが、あの鷹宮さんとだなんてねぇ」
澄乃の頬が赤くなる。
「……私も、まだ少し不思議です」
そう言って、照れたように笑う。
ひよりが澄乃の隣へ行く。
「でも、お似合いじゃない」
「そうですか?」
「うん」
ひよりは鷹宮を見る。
「ねえ?」
「……そういう話を俺に振るな」
「ほら、照れてる」
「照れていない」
「顔、ちょっと赤いわよ」
「赤くない」
遊が横から口を挟む。
「いや、ちょっと赤いぞ」
「遊」
「はい」
遊はすぐに黙った。
澄乃が笑う。
その髪には、黄色い小さな髪飾りがあった。
遊は、それを見つめた。
見覚えがある。
ずっと前。
玄堂が手元で弄んでいた、小さな黄色い飾り。
あれだった。
「……それ」
遊が言う。
「はい?」
澄乃が髪に触れる。
「その髪飾り」
「ああ、これですか?」
「それ、玄堂が?」
「はい」
澄乃は少し嬉しそうに笑った。
「父からもらったものです」
遊は黙った。
「昔から大切にしているんです」
澄乃が黄色い飾りをそっと撫でる。
「父が、私にくれたものなので」
遊は何も言わなかった。
ただ、その小さな黄色を見つめた。
あの時、玄堂の指先にあったもの。
それが今、娘の髪にある。
それだけのことだった。
けれど、長い間引っかかっていたものが、一つ繋がった。
「花蓮ちゃん」
澄乃がしゃがみ込む。
花蓮が澄乃を見る。
「こんにちは」
「こんにちは」
「かわいいね」
「かわいい?」
「うん」
花蓮が澄乃の髪を見る。
「きいろ」
「そう。黄色だね」
「きれい」
「ありがとう」
澄乃が笑う。
花蓮も笑った。
ひよりがその様子を見ている。
遊も、その二人を見ていた。
世界は変わった。
街は大きくなった。
人々の暮らしは豊かになった。
子供たちの声が増えた。
そして自分にも、家族がいる。
失ったものは戻らない。
けれど、それでも人は新しいものを手にすることができる。
それは、過去を忘れることではない。
失ったものを捨てることでもない。
抱えたまま、生きていくことだ。
「パパ」
「ん?」
「おさんぽ!」
「おう」
遊が花蓮の手を握る。
「行くか」
「うん!」
ひよりが隣に並ぶ。
その少し後ろを、鷹宮と澄乃が歩き始めた。
穏やかな午後だった。
子供の笑い声が、町の中へ消えていく。
誰も知らない。
この国が、世界のエネルギーの大半を握りつつあることも。
その力が、世界の形を変え始めていることも。
そして。
人々が幸せを手に入れた、そのすぐ足元で。
別の何かが、少しずつ積み重なっていることも。
今はまだ。
誰も、それに気づいていなかった。
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