第八十三章 頭を下げる者
その朝、都の港には霧が出ていた。
海と空の境が、白く溶けている。
桟橋に打ち寄せる波の音だけが、規則正しく聞こえていた。
やがて、霧の向こうから、黒い船影がゆっくりと姿を現した。
帆ではない。
炉の力で動く、新しい型の船だった。
この国から送られた力で、この国へやって来る船。
桟橋の上で、それを待つ一団があった。
執政会の役人たち。
儀仗の兵。
通詞。
その先頭に、御堂惣一郎が立っていた。
背筋を伸ばし、両手を後ろで組んでいる。
潮風が、羽織の裾をわずかに揺らした。
船が岸に着く。
渡し板が掛けられる。
最初に降りてきたのは、一人の女だった。
背が高い。
深い藍色の外套。
銀色の髪を、首の後ろで一つにまとめている。
海の向こうの国、エルダの使節長。
セラ・ヴァンデル。
彼女は桟橋に降り立つと、この国の作法どおりに、深く頭を下げた。
御堂も頭を下げる。
同じ深さで。
それより深くも、浅くもなく。
◇
「ようこそ、お越しくださいました」
「お招きいただき、感謝いたします」
ヴァンデルの言葉は、通詞を介さなかった。
この国の言葉だった。
訛りはほとんどない。
御堂は、わずかに目を細めた。
「見事なものですな」
「父に、厳しく仕込まれました」
ヴァンデルは微笑んだ。
「いつか必ず、この国の方々と、同じ言葉で話す日が来ると」
御堂の表情は変わらなかった。
ただ、後ろで組んだ指先に、少しだけ力が入った。
ヴァンデル。
その名を、御堂は知っていた。
忘れたことは、一日もなかった。
◇
協議の間は、執政会の奥にある。
長い机の片側に、この国の者たち。
もう片側に、エルダの使節団。
窓の外には、遠く炉の塔が見えている。
霧が晴れ始め、塔の先から伸びる細い光が、空に白く滲んでいた。
協議は、穏やかに始まった。
供給量。
送電の経路。
支払いの条件。
数字が交わされる。
どれも、事前に詰めてあった話だった。
御堂は、ほとんど口を開かなかった。
必要なときだけ、短く答える。
それで十分だった。
今、力を持っているのは、こちらだ。
炉の力がなければ、エルダの工場は止まる。
町の灯りは消える。
冬を越せない者が出る。
彼らは、それを知っている。
だから、ここにいる。
◇
「最後に、一つ」
協議がひととおり終わりかけたとき、ヴァンデルが言った。
「これは、協議の議題ではありません」
「伺いましょう」
「我が国の受電所で、この数か月、わずかな揺れが記録されています」
部屋の空気が、止まった。
「ほんの一瞬のものです。暮らしに障りが出るほどではありません」
ヴァンデルは手元の紙を一枚、机の上へ滑らせた。
数字と、日付。
「ただ、少しずつ増えています」
御堂は、その紙を見なかった。
見る必要がなかった。
見れば、自分が知らなかったことが、顔に出る。
「送電の経路が長くなれば、多少の揺れは出ましょう」
御堂は言った。
声は平らだった。
「海を越えるのですから」
「ええ。我々も、最初はそう考えました」
ヴァンデルは頷いた。
「ですが、同じ揺れが、貴国の北の郡でも出ていると聞きました」
御堂は答えなかった。
「経路の長さでは、説明がつきません」
ヴァンデルは、責めるようには言わなかった。
むしろ、気遣うような声だった。
「我が国の民は、貴国の炉に命を預けています」
「承知しております」
「ですから、お願いがあるのです」
ヴァンデルは、まっすぐに御堂を見た。
「貴国の炉の仕組みを、我が国の技術者にも見せていただけないでしょうか」
「……」
「万が一のとき、我々の側でも備えができるように」
◇
御堂の耳の奥で、何かが鳴った。
波の音だった。
ずっと昔の、別の港の。
◇
講和の席は、海向こうの国の港町で開かれた。
戦が終わってひと月。
この国には、もう燃料がほとんど残っていなかった。
御堂は、そのとき二十六だった。
全権大使の後ろに控える、随員の一人。
書類を運び、言葉を記録し、黙っているのが役目だった。
交渉の相手は、エルダの全権だった。
白い髭。
穏やかな声。
流暢な、この国の言葉。
「燃料の供給は、再開いたしましょう」
全権はそう言った。
「ただし、条件があります」
北の港の租借。
関税の撤廃。
軍備の制限。
一つひとつは、呑めない条件ではなかった。
だが、並べれば、それは一つの意味を持っていた。
この国は、これから先、エルダの許しなしには何もできない。
全権大使は、長い間黙っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
机に両手をつき。
深く。
頭を下げた。
御堂は、その背中を後ろから見ていた。
痩せた背中だった。
羽織の下で、肩の骨が浮いていた。
その背中が、震えていた。
泣いていたのか。
怒っていたのか。
御堂には分からなかった。
ただ、頭を下げたまま、全権大使は小さく言った。
「……国元では、今夜も誰かが凍えています」
エルダの全権は、穏やかに頷いた。
「存じております」
そして、微笑んだ。
「ですから、お急ぎになったほうがよろしい」
その全権の名が、ヴァンデルといった。
◇
帰りの船の上で、御堂は甲板に立ち続けた。
冷たい風が、頬を打った。
海の向こうに、自分の国が見えてくる。
灯りが、ほとんどない国。
御堂は、その暗い岸を見つめながら決めた。
二度と。
二度と、力の源を他国に握らせない。
二度と、この国の誰にも、あんなふうに頭を下げさせない。
そのためなら、何でもする。
◇
「御堂殿?」
ヴァンデルの声で、御堂は顔を上げた。
協議の間。
窓の外の炉の光。
長い机の向こうに、あの男の娘が座っている。
穏やかな声で。
流暢な、この国の言葉で。
炉の仕組みを見せてほしいと、言っている。
「お断りいたします」
御堂は言った。
即答だった。
使節団の間に、小さなざわめきが走る。
ヴァンデルだけは、表情を変えなかった。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「炉は、この国の心臓です」
御堂は、静かに言った。
「心臓の仕組みを、他人に見せる者はおりません」
「我々は、他人ではないつもりです」
「承知しております」
御堂は、わずかに頭を下げた。
同じ深さで。
それより深くも、浅くもなく。
「ですから、供給は続けます」
顔を上げる。
「貴国が、これまでどおりの条件を守ってくださる限り」
ヴァンデルは、しばらく御堂を見つめていた。
それから、小さく笑った。
寂しそうな笑い方だった。
「父から、聞いていたとおりの方です」
「……」
「あの講和の席に、若い随員がいた、と」
御堂の指先が、止まった。
「最後まで、一度も頭を下げなかった随員がいた、と」
ヴァンデルは立ち上がり、この国の作法どおりに、深く頭を下げた。
「本日は、ありがとうございました」
◇
使節団が去ったあと、御堂は協議の間に一人で残った。
机の上に、ヴァンデルが置いていった紙が一枚。
数字と、日付。
御堂は、ようやくそれを手に取った。
読む。
揺れは、確かに増えていた。
少しずつ。
けれど、確かに。
「……なぜだ」
声が漏れた。
揺れのことではなかった。
なぜ、それを。
他国の口から、聞かされなければならなかったのか。
◇
日が暮れる前に、御堂は国防部門へ使いを出した。
黒瀬玄真は、すぐにやって来た。
「揺れの件を、知っていたか」
御堂は、前置きなしに言った。
黒瀬は、紙を受け取り、目を通した。
その眉が、わずかに動いた。
「……いえ」
「国防の情報を預かるのは、そちらだろう」
「そのはずです」
黒瀬は紙を置いた。
「少し、お時間をください」
◇
榊透子が呼ばれたのは、それから半刻後だった。
執政会の一室。
御堂と黒瀬の前に立つ。
御堂は、ヴァンデルの紙を机の上へ置いた。
榊は、それを見た。
一瞬だけ。
目を閉じた。
「知っていたのだな」
御堂が言った。
「はい」
榊は、ごまかさなかった。
「十日前から、情報管理室で非公開のまま裏付けを進めております」
「なぜ、上げなかった」
「原因が分からないからです」
榊は、まっすぐに御堂を見た。
「原因の分からない揺れを上げれば、話は必ず広がります。広がれば、必ず外へ漏れる。そうなれば、この国の弱みを他国に…」
言葉が、止まった。
机の上の紙を見る。
エルダの受電所の記録。
榊の顔から、血の気が引いていった。
「……伏せても、意味がなかったのだ」
誰に言うでもない声だった。
「炉の力は、海の向こうにも届いている」
「そうだ」
御堂は言った。
「揺れは、向こうの受電所でも起きている。向こうは向こうで、自分の目で見ている」
「……」
「伏せた相手は、この国の者だけだ」
榊は何も言わなかった。
黒瀬が、静かに口を開いた。
「榊の判断は、筋は通っています」
「分かっている」
御堂は、机に両手をついた。
「筋が通っているから、厄介なのだ」
部屋に沈黙が落ちた。
誰も悪くない。
誰も、国を裏切ろうとしたわけではない。
それでも、この国の筆頭は、自国の弱みを他国の口から聞かされた。
◇
「今後、揺れの件はすべて執政会へ上げろ」
御堂は言った。
「裏付けがなくてもだ」
「……承知いたしました」
榊が頭を下げる。
「それから」
御堂は、黒瀬を見た。
「研究院には、まだ伏せておけ」
黒瀬の目が、わずかに動いた。
「研究院に、ですか」
「斎原遊は、揺れの話を聞けば、必ず止めると言い出す」
御堂の声は、静かだった。
「今、炉を止めれば、明日の協議でエルダは何と言うと思う」
「……」
「この国の心臓は弱っている、と言うのだ」
御堂は窓の外を見た。
夜の中に、炉の光が細く立っている。
「そうなれば、次に頭を下げるのは、こちらだ」
黒瀬は、何も言わなかった。
榊も、何も言わなかった。
二人とも、それぞれの冬を思い出していた。
◇
二人が去ったあと、御堂は筆頭室へ戻った。
壁に掛けた、世界地図。
朱の印が打たれた国々。
その一つ、海の向こうの国の上に、指を置く。
エルダ。
引き出しを開ける。
奥にしまった、講和の条文の写し。
御堂は、それを取り出さなかった。
ただ、指先で一度だけ触れた。
「……頭は、下げさせん」
誰もいない部屋で、そう言った。
それが、国のためなのか。
あの日の、痩せた背中のためなのか。
御堂にも、もう分からなかった。
◇
同じ夜。
北の郡。
雪にはまだ早い、冷たい風が吹く宿場町。
一軒の宿の灯りが、ふっと消えた。
一つ、数えるほどの間。
それから、また灯った。
宿の主人は首を傾げ、行燈の芯を確かめた。
どこにも、異常はなかった。
帳場の奥で、書き物をしていた若い男が、顔を上げた。
上着の袖口に、目立たない継ぎが当ててある。
男は、しばらく灯りを見つめていた。
「……今年も、冬が来るな」
そう呟き、筆を置いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。




