↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/83

第八十三章 頭を下げる者

その朝、都の港には霧が出ていた。


海と空の境が、白く溶けている。

桟橋に打ち寄せる波の音だけが、規則正しく聞こえていた。


やがて、霧の向こうから、黒い船影がゆっくりと姿を現した。


帆ではない。

炉の力で動く、新しい型の船だった。


この国から送られた力で、この国へやって来る船。


桟橋の上で、それを待つ一団があった。


執政会の役人たち。

儀仗の兵。

通詞。


その先頭に、御堂惣一郎が立っていた。


背筋を伸ばし、両手を後ろで組んでいる。

潮風が、羽織の裾をわずかに揺らした。


船が岸に着く。


渡し板が掛けられる。


最初に降りてきたのは、一人の女だった。


背が高い。

深い藍色の外套。

銀色の髪を、首の後ろで一つにまとめている。


海の向こうの国、エルダの使節長。


セラ・ヴァンデル。


彼女は桟橋に降り立つと、この国の作法どおりに、深く頭を下げた。


御堂も頭を下げる。


同じ深さで。


それより深くも、浅くもなく。


◇


「ようこそ、お越しくださいました」


「お招きいただき、感謝いたします」


ヴァンデルの言葉は、通詞を介さなかった。


この国の言葉だった。

訛りはほとんどない。


御堂は、わずかに目を細めた。


「見事なものですな」


「父に、厳しく仕込まれました」


ヴァンデルは微笑んだ。


「いつか必ず、この国の方々と、同じ言葉で話す日が来ると」


御堂の表情は変わらなかった。


ただ、後ろで組んだ指先に、少しだけ力が入った。


ヴァンデル。


その名を、御堂は知っていた。


忘れたことは、一日もなかった。


◇


協議の間は、執政会の奥にある。


長い机の片側に、この国の者たち。

もう片側に、エルダの使節団。


窓の外には、遠く炉の塔が見えている。


霧が晴れ始め、塔の先から伸びる細い光が、空に白く滲んでいた。


協議は、穏やかに始まった。


供給量。

送電の経路。

支払いの条件。


数字が交わされる。


どれも、事前に詰めてあった話だった。


御堂は、ほとんど口を開かなかった。


必要なときだけ、短く答える。

それで十分だった。


今、力を持っているのは、こちらだ。


炉の力がなければ、エルダの工場は止まる。

町の灯りは消える。

冬を越せない者が出る。


彼らは、それを知っている。


だから、ここにいる。


◇


「最後に、一つ」


協議がひととおり終わりかけたとき、ヴァンデルが言った。


「これは、協議の議題ではありません」


「伺いましょう」


「我が国の受電所で、この数か月、わずかな揺れが記録されています」


部屋の空気が、止まった。


「ほんの一瞬のものです。暮らしに障りが出るほどではありません」


ヴァンデルは手元の紙を一枚、机の上へ滑らせた。


数字と、日付。


「ただ、少しずつ増えています」


御堂は、その紙を見なかった。


見る必要がなかった。


見れば、自分が知らなかったことが、顔に出る。


「送電の経路が長くなれば、多少の揺れは出ましょう」


御堂は言った。


声は平らだった。


「海を越えるのですから」


「ええ。我々も、最初はそう考えました」


ヴァンデルは頷いた。


「ですが、同じ揺れが、貴国の北の郡でも出ていると聞きました」


御堂は答えなかった。


「経路の長さでは、説明がつきません」


ヴァンデルは、責めるようには言わなかった。


むしろ、気遣うような声だった。


「我が国の民は、貴国の炉に命を預けています」


「承知しております」


「ですから、お願いがあるのです」


ヴァンデルは、まっすぐに御堂を見た。


「貴国の炉の仕組みを、我が国の技術者にも見せていただけないでしょうか」


「……」


「万が一のとき、我々の側でも備えができるように」


◇


御堂の耳の奥で、何かが鳴った。


波の音だった。


ずっと昔の、別の港の。


◇


講和の席は、海向こうの国の港町で開かれた。


戦が終わってひと月。

この国には、もう燃料がほとんど残っていなかった。


御堂は、そのとき二十六だった。


全権大使の後ろに控える、随員の一人。


書類を運び、言葉を記録し、黙っているのが役目だった。


交渉の相手は、エルダの全権だった。


白い髭。

穏やかな声。

流暢な、この国の言葉。


「燃料の供給は、再開いたしましょう」


全権はそう言った。


「ただし、条件があります」


北の港の租借。

関税の撤廃。

軍備の制限。


一つひとつは、呑めない条件ではなかった。


だが、並べれば、それは一つの意味を持っていた。


この国は、これから先、エルダの許しなしには何もできない。


全権大使は、長い間黙っていた。


それから、ゆっくりと立ち上がった。


机に両手をつき。


深く。


頭を下げた。


御堂は、その背中を後ろから見ていた。


痩せた背中だった。

羽織の下で、肩の骨が浮いていた。


その背中が、震えていた。


泣いていたのか。

怒っていたのか。


御堂には分からなかった。


ただ、頭を下げたまま、全権大使は小さく言った。


「……国元では、今夜も誰かが凍えています」


エルダの全権は、穏やかに頷いた。


「存じております」


そして、微笑んだ。


「ですから、お急ぎになったほうがよろしい」


その全権の名が、ヴァンデルといった。


◇


帰りの船の上で、御堂は甲板に立ち続けた。


冷たい風が、頬を打った。


海の向こうに、自分の国が見えてくる。


灯りが、ほとんどない国。


御堂は、その暗い岸を見つめながら決めた。


二度と。


二度と、力の源を他国に握らせない。


二度と、この国の誰にも、あんなふうに頭を下げさせない。


そのためなら、何でもする。


◇


「御堂殿?」


ヴァンデルの声で、御堂は顔を上げた。


協議の間。


窓の外の炉の光。


長い机の向こうに、あの男の娘が座っている。


穏やかな声で。

流暢な、この国の言葉で。


炉の仕組みを見せてほしいと、言っている。


「お断りいたします」


御堂は言った。


即答だった。


使節団の間に、小さなざわめきが走る。


ヴァンデルだけは、表情を変えなかった。


「理由を、伺ってもよろしいですか」


「炉は、この国の心臓です」


御堂は、静かに言った。


「心臓の仕組みを、他人に見せる者はおりません」


「我々は、他人ではないつもりです」


「承知しております」


御堂は、わずかに頭を下げた。


同じ深さで。


それより深くも、浅くもなく。


「ですから、供給は続けます」


顔を上げる。


「貴国が、これまでどおりの条件を守ってくださる限り」


ヴァンデルは、しばらく御堂を見つめていた。


それから、小さく笑った。


寂しそうな笑い方だった。


「父から、聞いていたとおりの方です」


「……」


「あの講和の席に、若い随員がいた、と」


御堂の指先が、止まった。


「最後まで、一度も頭を下げなかった随員がいた、と」


ヴァンデルは立ち上がり、この国の作法どおりに、深く頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました」


◇


使節団が去ったあと、御堂は協議の間に一人で残った。


机の上に、ヴァンデルが置いていった紙が一枚。


数字と、日付。


御堂は、ようやくそれを手に取った。


読む。


揺れは、確かに増えていた。


少しずつ。

けれど、確かに。


「……なぜだ」


声が漏れた。


揺れのことではなかった。


なぜ、それを。


他国の口から、聞かされなければならなかったのか。


◇


日が暮れる前に、御堂は国防部門へ使いを出した。


黒瀬玄真は、すぐにやって来た。


「揺れの件を、知っていたか」


御堂は、前置きなしに言った。


黒瀬は、紙を受け取り、目を通した。


その眉が、わずかに動いた。


「……いえ」


「国防の情報を預かるのは、そちらだろう」


「そのはずです」


黒瀬は紙を置いた。


「少し、お時間をください」


◇


榊透子が呼ばれたのは、それから半刻後だった。


執政会の一室。


御堂と黒瀬の前に立つ。


御堂は、ヴァンデルの紙を机の上へ置いた。


榊は、それを見た。


一瞬だけ。


目を閉じた。


「知っていたのだな」


御堂が言った。


「はい」


榊は、ごまかさなかった。


「十日前から、情報管理室で非公開のまま裏付けを進めております」


「なぜ、上げなかった」


「原因が分からないからです」


榊は、まっすぐに御堂を見た。


「原因の分からない揺れを上げれば、話は必ず広がります。広がれば、必ず外へ漏れる。そうなれば、この国の弱みを他国に…」


言葉が、止まった。


机の上の紙を見る。


エルダの受電所の記録。


榊の顔から、血の気が引いていった。


「……伏せても、意味がなかったのだ」


誰に言うでもない声だった。


「炉の力は、海の向こうにも届いている」


「そうだ」


御堂は言った。


「揺れは、向こうの受電所でも起きている。向こうは向こうで、自分の目で見ている」


「……」


「伏せた相手は、この国の者だけだ」


榊は何も言わなかった。


黒瀬が、静かに口を開いた。


「榊の判断は、筋は通っています」


「分かっている」


御堂は、机に両手をついた。


「筋が通っているから、厄介なのだ」


部屋に沈黙が落ちた。


誰も悪くない。


誰も、国を裏切ろうとしたわけではない。


それでも、この国の筆頭は、自国の弱みを他国の口から聞かされた。


◇


「今後、揺れの件はすべて執政会へ上げろ」


御堂は言った。


「裏付けがなくてもだ」


「……承知いたしました」


榊が頭を下げる。


「それから」


御堂は、黒瀬を見た。


「研究院には、まだ伏せておけ」


黒瀬の目が、わずかに動いた。


「研究院に、ですか」


「斎原遊は、揺れの話を聞けば、必ず止めると言い出す」


御堂の声は、静かだった。


「今、炉を止めれば、明日の協議でエルダは何と言うと思う」


「……」


「この国の心臓は弱っている、と言うのだ」


御堂は窓の外を見た。


夜の中に、炉の光が細く立っている。


「そうなれば、次に頭を下げるのは、こちらだ」


黒瀬は、何も言わなかった。


榊も、何も言わなかった。


二人とも、それぞれの冬を思い出していた。


◇


二人が去ったあと、御堂は筆頭室へ戻った。


壁に掛けた、世界地図。


朱の印が打たれた国々。


その一つ、海の向こうの国の上に、指を置く。


エルダ。


引き出しを開ける。


奥にしまった、講和の条文の写し。


御堂は、それを取り出さなかった。


ただ、指先で一度だけ触れた。


「……頭は、下げさせん」


誰もいない部屋で、そう言った。


それが、国のためなのか。


あの日の、痩せた背中のためなのか。


御堂にも、もう分からなかった。


◇


同じ夜。


北の郡。


雪にはまだ早い、冷たい風が吹く宿場町。


一軒の宿の灯りが、ふっと消えた。


一つ、数えるほどの間。


それから、また灯った。


宿の主人は首を傾げ、行燈の芯を確かめた。


どこにも、異常はなかった。


帳場の奥で、書き物をしていた若い男が、顔を上げた。


上着の袖口に、目立たない継ぎが当ててある。


男は、しばらく灯りを見つめていた。


「……今年も、冬が来るな」


そう呟き、筆を置いた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。