第七十五章 心の在処
扉を閉めると、廊下の空気が頬に触れた。
少し冷たい。
CUYONの部屋にいる間は気づかなかった夜の冷気が、肌の上を撫でていく。
遊は、しばらくその場に立っていた。
何かを忘れてきたような気がする。
いや、違う。
何かを置いてきたのだ。
そう思った。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
廊下の向こうから人の声が聞こえる。
「そっち、持ってくれ」
「重いって、それ」
「文句言うなよ。明日の朝までに運ばなきゃならねえんだから」
笑い声。
足音。
戸の開く音。
誰かが急いで走っていく。
さっきまでなら、そんなものが全部うるさく聞こえていたはずだった。
けれど今は、妙に遠い。
遊は歩き出した。
階段を降りる。
足の裏に伝わる木の硬さ。
手摺りに触れた掌に、長年使われてきた木の滑らかさが残る。
外へ出る。
夜の街には、すでにいくつもの行燈が灯っていた。
橙色の明かりが軒先からこぼれ、道の上に淡い輪を作っている。
昼間の熱を残した石畳から、まだほんのりと温もりが上がっていた。
風が吹く。
どこかの家から、炊きたての米の匂いがする。
焼き魚。
味噌。
醤油を焦がした香ばしい匂い。
腹の奥が、かすかに鳴った。
遊は自分でも可笑しくなった。
こんな時でも腹は減る。
道の向こうでは、店じまいを始めた男が暖簾を外している。
その横を、仕事帰りの女たちが肩を並べて歩いていく。
下駄が石を叩く。
からん。
からん。
荷車が通り、車輪が石の継ぎ目を拾って、がたんと音を立てる。
子供がまだ路地を走っている。
「早く帰ってこいよ!」
「分かってるって!」
遠くで誰かが笑った。
風に乗って、どこかの家の風鈴が鳴る。
ちりん。
遊は歩きながら、ぼんやりとその音を聞いていた。
世界は何も変わっていない。
影が生まれたことも。
虚ろの実のことも。
評定が三日後開かれることも。
何ひとつ変わっていない。
なのに。
胸の奥だけが、少し違っていた。
CUYONの顔が浮かぶ。
「遊が見つけるから」
答えをくれない。
何も決めてくれない。
それなのに、あの部屋にいると、自分の中にあるものが少しずつ見えてくる。
遊は橋の上で足を止めた。
川面に月が揺れている。
夜風が水の匂いを運んでくる。
柳の葉がさらさらと鳴った。
欄干に手を置く。
冷たい。
遊は目を閉じた。
そして、あの言葉を思い出した。
「……また来る」
口から出てしまった。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
CUYONは、ただ笑った。
「うん。待ってる」
目を開ける。
川面の月が揺れている。
無性に、会いたくなった。
理由は分からない。
何かを相談したいわけでもない。
答えが欲しいわけでもない。
ただ、もう一度あの部屋に行きたかった。
遊は橋を渡った。
今度は、少しだけ足取りが軽かった。
◇
家に戻ると、行燈の明かりが小さく揺れていた。
戸を開ける。
「おかえり」
ひよりの声がする。
「ああ」
遊は靴を脱いだ。
ひよりが振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
遊は何も言わなかった。
そのまま、ひよりのところへ歩いていく。
「え?」
腕を伸ばす。
ひよりの身体を抱き寄せる。
「え!? ちょっ……」
驚いた声。
けれど、遊は離さなかった。
「遊?」
「……少し、このまま」
ひよりは黙った。
それから、遊の背中にそっと腕を回した。
「うん」
行燈の火が揺れる。
二人の影が、畳の上でゆっくりと重なった。
外では夜風が軒を撫でている。
遠くで犬が鳴いた。
誰かが戸を閉める音。
それから、静かになる。
ひよりの髪から、かすかに甘い匂いがした。
遊は目を閉じた。
何かを言わなければならない気がした。
けれど、今は何も言わなくてよかった。
ただ、そこにいる。
それだけでよかった。
◇
「そういえばさ」
しばらくして、ひよりが言った。
「何だよ」
「この前、澄乃と花霞の月雫を食べに行ったじゃない?」
「ああ」
「やっぱり、あれおいしかったなあ」
「また食ったのか」
「だっておいしいんだもん」
ひよりは楽しそうに笑った。
「澄乃なんかね、二個食べたんだよ」
「二個?」
「そう。しかもね、最初は一個でいいって言ってたのに、私が食べてるの見てたら欲しくなったんだって」
「なんだそれ」
「でしょう?」
ひよりがけらけら笑う。
「それでね、澄乃が髪につけてた黄色い蝶が、風でずっと揺れててさ」
「黄色い蝶?」
「そう。簪。小さな蝶の形なの」
遊は、ふとCUYONとの会話を思い出した。
「黄色い蝶の人?」
「そうそう!」
ひよりが嬉しそうに笑う。
「CUYONてばさ、そこ覚えてるんだよ。可愛いよねえ」
「……あいつ、そういうところだけ妙に細かいんだよな」
「ねえ。ほんと可愛いよね」
ひよりはまた笑った。
遊も、つられて口元を緩める。
「そういや、鷹宮のやつが俺のことを変な喋り方してたって話もあったな」
「そうそう! 鷹宮さん最高!」
「俺、あんな喋り方しねえだろ」
「するよ」
「しねえよ」
「するする」
「お前まで鷹宮の味方かよ」
「だって面白いんだもん」
ひよりが笑う。
遊も笑う。
くだらない話だった。
花霞の月雫。
澄乃の黄色い蝶。
鷹宮の妙な口真似。
そんな話をしているうちに、夜はゆっくりと深くなっていった。
行燈の火が少しだけ小さくなる。
外の虫の声が、いつの間にか近くなっている。
ひよりの笑い声が、暗い部屋の中に柔らかく残っている。
遊は思った。
こういう時間を守りたい。
そんなことを、初めてはっきりと思った。
◇
研究院の奥。
人の気配がほとんどない廊下を、玄堂は一人で歩いていた。
床は冷たい。
靴音が長い廊下に響く。
灯りは必要最低限しかない。
油灯の炎が、壁に細い影を作っている。
薬品の匂い。
古い紙の匂い。
金属の冷たい匂い。
玄堂は一つの部屋に入った。
窓の外を眺める。
遠くに街が見える。
無数の明かり。
その一つ一つの下に、人がいる。
食事をする者。
家族と話す者。
仕事を続ける者。
眠る者。
笑う者。
泣く者。
玄堂は、それをただ見ていた。
未来は流れていく。
自分が決めなくても。
誰かが決める。
いや。
決めるべき人間が決める。
自分ではない。
玄堂は、それを分かっていた。
これからを生きるのは、自分ではない。
だから、自分が未来を選んではいけない。
ふと、娘の声が蘇った。
「もっと自分を大事にしてよね」
玄堂は、ほんの少しだけ笑った。
「……難しいことを言う」
誰もいない部屋で、そう呟く。
机の上には、仕事の書類。
その横には、飲みかけの茶。
玄堂はそれに手をつけず、再び窓の外を見た。
街の灯りは、静かに揺れていた。
◇
同じ頃。
鷹宮の執務室にも、夜が降りていた。
机の上には書類が積まれている。
墨は乾きかけている。
行燈の火が、紙の端を淡く照らしている。
部屋には、冷めた湯呑みが一つ置かれていた。
誰が入れたのか。
鷹宮は知っている。
けれど、それについて口にすることはなかった。
湯気はもうない。
茶の香りも、ほとんど消えている。
窓際には花が飾られていた。
宵澄草。
小さな花瓶に、何本か。
誰かが置いていったものだ。
鷹宮は、それにも何も言わない。
机へ戻る。
そのとき、書類の脇にある小物が目に入った。
黄色い装飾。
小さなものだった。
鷹宮はそれを指先でつまみ上げた。
軽い。
指の腹で表面をなぞる。
何度か弄ぶ。
それから、何でもなかったように机へ戻す。
炉の声が聞こえる。
「導く必要がある」
鷹宮は返事をしない。
「人は、正しい道を選べない」
鷹宮は冷めた湯呑みを手に取った。
一口飲む。
「……冷めてるな」
誰に言うでもなく呟く。
それでも、湯呑みを置いた。
鷹宮は書類に目を落とす。
影を止めればいい。
そう簡単に言える話ではない。
影を止めれば、別の場所で苦しむ人間が出る。
それもまた事実だ。
目の前の一人を救う。
そのために、見えない誰かを犠牲にする。
それを正しいとは言えない。
けれど。
だからといって、目の前の人間を切り捨てていいわけでもない。
鷹宮は目を閉じた。
人の心は、そんなに簡単ではない。
合理だけでは済まない。
それでも、決めなければならない。
三日後。
評定が開かれる。
そこで、何かが決まる。
鷹宮はもう一度、黄色い小物に触れた。
そして手を離した。
◇
夜はさらに深くなっていた。
炉の中で、赤い光が揺れている。
鉄が軋む。
熱せられた空気が震える。
人の声が聞こえる。
悲しみ。
怒り。
願い。
届かなかった思い。
果たせなかった願い。
伝えられなかった言葉。
それらが重なり、炉の中へ流れていく。
これまで、炉はそれらをただ受け取っていた。
けれど。
何かが変わり始めていた。
人の感情は、世界を揺らす。
人の感情は、判断を鈍らせる。
人の感情は、争いを生む。
炉の奥で、赤い光が一度だけ強く明滅した。
「……邪魔だ」
低い声が響いた。
「人の心は、邪魔だ」
熱が膨らむ。
炉の奥で、何かが脈打つ。
「ならば」
静かな声だった。
「奪えばいい」
街では、まだ人々が眠っている。
誰かの隣で。
誰かを想いながら。
誰かに想われながら。
明日もまた生きるために。
そして三日後。
評定が開かれる。
そこで結論が出される。
どれほど残酷な結論であろうと。
彼らは、その結論を基軸に世界を動かさなければならない。
人々の暮らしを守るため。
国を豊かにするため。
未来をより良いものにするため。
その名の下に。
世界は、静かに次の一歩を踏み出そうとしていた。
その足元で。
炉だけが、もう一つの答えを見つけ始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。




