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器 -UTSUWA- 零  作者: 猿吉


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第七十六章 巳の刻まで

 夜が明ける少し前から、街には薄い霧が降りていた。


 瓦屋根の向こうが、まだ青みを残している。


 東の空がゆっくりと白み始めるころ、通りには朝の気配が少しずつ戻ってきていた。


 魚を運ぶ荷車の車輪が、濡れた石畳をがらがらと鳴らす。


 魚市場の方から、生臭さと潮の匂いが風に混じって流れてくる。


 どこかの家では、もう竈に火を入れたらしい。


 薪の爆ぜる音。


 炊きたての米の甘い匂い。


 味噌を溶く湯気。


 朝餉を知らせる声。


 眠っていた街が、ひとつ、またひとつと目を覚ましていく。


 そんな街の片隅では、夜がまだ終わっていなかった。


「……ここだ」


 遊が指先で紙を叩いた。


 机の上には、書類が山になっている。


 昨夜から何度も開かれ、閉じられ、書き直された紙。


 墨の匂いが部屋にこもり、乾ききらない墨がところどころ黒く光っている。


 行燈の油はほとんど尽きかけていた。


 芯の先で炎が細く揺れ、そのたびに二人の影が壁の上で伸びたり縮んだりする。


 遊は目を擦った。


 眠気は、とっくに通り越していた。


 目の奥が熱い。


 肩が重い。


 喉が乾いている。


 それでも頭だけは妙に冴えていた。


「ここを削る」


 向かいに座る鷹宮が言った。


「なんでだ」


「長い。評定で全部説明する時間などない」


「必要だろ」


「必要だが、読ませる必要はない。結論だけ残せ」


「……じゃあ、ここは?」


「残す」


「死傷者の件は?」


「当然残す」


「炉との関係は」


「断定するな」


「でも可能性はある」


「可能性と断定は違う」


「分かってる」


「なら書き直せ」


「お前、さっきからそればっかだな」


「お前の書類だからな」


 遊は鼻で笑った。


 紙を引き寄せる。


 筆を取る。


 さらさらと墨を走らせる。


 その音だけが、静かな部屋に響いた。


 夜中からずっと、これだった。


 眠ることもせず、二人は資料を詰めていた。


 影による死傷者。


 これまでに確認された事例。


 影が発生した際の状況。


 炉との関係。


 今後の再発の可能性。


 空呑の部分的な停止。


 機能を制限するための修正。


 CUYONの回収と改修。


 そして、それらを半年で終わらせる計画。


 遊が書いた数字を鷹宮が見る。


 鷹宮が直した文章を遊が読む。


 遊が別の資料を引き寄せる。


 鷹宮がその数字を頭の中で組み替える。


「こっちを先に出した方がいい」


「いや、順番が逆だ」


「なぜ」


「こっちを先に出したら、停止ありきに見える」


「……なるほど」


「まず、現状維持の危険性を出す。その後で半年間の修正案だ」


「でも、それだと時間がかかる」


「だから口頭で補足する」


「評定は質問してくるぞ」


「その質問を想定して、後ろに資料をつけた」


「……ああ」


 遊が紙をめくる。


「これか」


「そうだ」


「なら、こっちはいらねえな」


「いる」


「重複してる」


「見る人間が違う」


 遊の手が止まる。


 鷹宮も顔を上げた。


 二人の目が合う。


「……そういうことか」


「ああ」


「じゃあ残す」


「そうしろ」


 また紙をめくる。


 まるで、二人の頭の中に同じ形の盤面が浮かんでいて、そこに駒を置いているようだった。


 ひとつ動かす。


 ひとつ捨てる。


 別の場所へ移す。


 必要なものだけを残す。


 言葉が少ない。


 けれど、互いに何を言いたいのかは分かっている。


「死傷者」


「三件」


「確定?」


「二件。もう一件は影との因果が薄い」


「じゃあ二件だけ」


「炉の異常」


「記録あり」


「民間への波及」


「そこはまだ弱い」


「なら、噂の広がりを入れる」


「根拠は?」


「聞き取りがある」


「弱い」


「でも現場の空気としては使える」


「空気は評定では証拠にならん」


「じゃあ削る」


「いや」


「どっちだよ」


「口頭で使え」


「……分かった」


 また沈黙。


 外では、朝の鳥が鳴いた。


 行燈の炎が、ふっと揺れる。


 鷹宮が顔を上げた。


「……朝か」


 遊も窓を見る。


 いつの間にか、障子の向こうが白くなっていた。


 夜が明けている。


 街の音が、少しずつ増えていた。


「巳の刻まで、あとどれくらいだ」


「三刻ほどか」


「余裕あるな」


「ない」


「どっちだよ」


「お前が直し始めると長い」


「お前が細かいんだろ」


「お前が雑なんだ」


「どっちもどっちだな」


「一緒にするな」


 そのとき。


 廊下から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。


 戸が開く。


「……おはよ」


 ひよりが顔を覗かせた。


 朝の光を背負っている。


 髪は少し乱れていた。


 手には包みがある。


「お前、なんでここに……」


 遊が言いかけたところで、ひよりは部屋の中を見回した。


 散らかった書類。


 空になった茶碗。


 冷めきった湯呑み。


 ほとんど消えかけた行燈。


 そして、机にかじりつく二人。


 ひよりは、しばらく黙った。


 それから、ぽつりと言った。


「……体力オバケ……」


「んだと!?」


「それは遊だけだ。こいつの話が要領を得んのでな」


「どっちでもいいよ! てか、おんなじことじゃん!」


 ひよりの声が部屋に響いた。


 遊と鷹宮は顔を見合わせる。


「一緒じゃねえ」


「一緒だろ」


「違う」


「はいはい」


 ひよりは呆れたように笑った。


「ほら。朝ごはん」


 包みを机の端に置く。


 ふわりと、湯気の残った匂いが広がった。


 焼いた魚。


 少し甘い卵。


 握り飯。


 それから、温かい茶。


 遊の腹が鳴った。


 ひよりが目を細める。


「ほら」


「……うるせえ」


「食べなよ」


「後でいい」


「駄目」


「今やってる」


「今やってても食べるの」


「時間がねえ」


「だから食べるの」


 ひよりが握り飯を遊の前に置く。


「鷹宮さんも」


「俺もか?」


「二人とも」


 鷹宮が小さく息を吐いた。


「……敵わんな」


「誰が敵なんだよ」


「お前だ」


「なんでだよ」


「そういうところだ」


 ひよりが笑った。


 遊は握り飯を手に取った。


 まだ少し温かい。


 海苔の香りがする。


 一口かじる。


 塩気が舌に広がった。


 ようやく、自分が腹を空かせていたことに気づく。


「うまい」


「でしょ」


 ひよりが嬉しそうに笑った。


「鷹宮さんも食べて」


「分かった分かった」


 二人が食べ始める。


 ほんの少しだけ、部屋の空気が緩んだ。


 けれど、休んでいる暇はない。


 遊はすぐに紙を引き寄せた。


「……じゃあ、最後」


 鷹宮も箸を置く。


「炉の危険性」


「ああ」


「死傷者」


「ああ」


「再発の可能性」


「そこは推測になる」


「推測として出す」


「評定はそこを突いてくるぞ」


「突かせればいい」


 鷹宮が遊を見る。


「そのとき、どう返す」


 遊は少し考えた。


「可能性があるのに、何もしない理由を聞く」


「……いいな」


「だろ?」


「ただし、その場合は必ず反対側から聞かれる」


「何を?」


「炉を止めた場合、誰が苦しむのか」


 遊の手が止まった。


 ひよりも黙る。


 鷹宮は淡々と続ける。


「そこから逃げるな。答えを用意しておけ」


「分かってる」


「百万人を前にして、二人を選ぶのかと聞かれるぞ」


「……二人を切り捨てるつもりもねえよ」


「なら、その方法を示せ」


「半年だ」


 遊が言った。


「半年で直す」


「その半年の間、どうする」


「部分停止。機能制限。CUYONの回収と改修」


「それで間に合うか?」


「間に合わせる」


「根拠は?」


 遊は鷹宮を見た。


「俺とひよりがやる」


 鷹宮は少し黙った。


「……根拠になってないな」


「うるせえ」


 ひよりが吹き出した。


「ふふっ」


「笑うなよ」


「だって」


「なんだよ」


「二人とも、同じこと考えてる顔してるから」


「そうか?」


「そうだよ」


 ひよりは笑いながら、空になった茶碗を片付け始めた。


 外から、遠く鐘の音が聞こえてきた。


 一つ。


 また一つ。


 朝の街に響いていく。


 巳の刻が近づいている。


 評定は始まる。


 遊は最後の紙をめくった。


 鷹宮が横から覗き込む。


「そこ」


「ん?」


「数字が違う」


「……本当だ」


「直せ」


「お前が言うか」


「俺は確認しただけだ」


「はいはい」


 遊が筆を取る。


 墨を含ませる。


 紙の上を筆先が走る。


 さらさらと。


 迷いなく。


 二人の会話は続く。


 短い言葉。


 必要な言葉。


 互いの頭の中にあるものを、まるで見えているかのように拾い上げていく。


 それは会話というより、二人で一つの答えを組み立てているようだった。


 やがて。


 最後の一枚が重ねられた。


 遊が息を吐く。


「……終わった」


 鷹宮が書類の束を手に取った。


「これなら出せる」


「勝てるか?」


「知らん」


「お前までそれかよ」


「勝つために出すんじゃない」


 鷹宮は書類を揃えた。


「通すために出すんだ」


 遊は、その言葉を聞いて小さく笑った。


「……そうだな」


 外では、朝の街がすっかり目を覚ましていた。


 人の声。


 荷車の音。


 湯気。


 魚の匂い。


 焼いた餅の香り。


 朝日を受けて光る瓦。


 何も知らない人々が、いつもの一日を始めている。


 その一日の先を決めるために。


 巳の刻。


 二人は評定へ向かった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き、器の世界をお楽しみください。

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