第七十四章 空気の向こう側
廊下の板張りを踏む音が、やけに大きく聞こえた。
かつ、かつ、と靴底が鳴る。
前から人が来る。
避ける。
すれ違いざまに、誰かの袖が腕に触れた。
「悪い」
「……ああ」
振り返る暇もなく、また歩く。
廊下の窓から差し込む午後の光が、床の上で細長く伸びている。光の中に細かな埃が浮かび、風が通るたびに、ゆっくりと揺れた。
誰かが笑っている。
遠くで戸が閉まる。
その向こうから、何かを運ぶ掛け声が聞こえる。
いつもの日常。
いつもと変わらない。
なのに、遊にはそれらすべてが妙に騒がしく感じられた。
喉が渇いていた。
口の中が乾いて、舌がざらつく。
さっきから何度も奥歯を噛んでいることに気づいて、遊は顎の力を抜いた。
評定が開かれる。
そのことばかりが頭の中を回っていた。
止めるべきだ。
そう思う。
けれど、鷹宮の言葉も消えない。
止めれば、それで終わるわけじゃない。
別の誰かが苦しむ。
何十万、何百万という人間の暮らしが、その先にある。
分かっている。
分かっているからこそ、腹が立つ。
誰かの命を秤に載せて、どちらを選ぶかなんて。
そんなもの、簡単に決められるわけがない。
だったら、どうする。
考えろ。
考えろ。
足だけが先へ進む。
気づけば、いつもの場所の前に立っていた。
遊は一度、扉に手を伸ばした。
指先が止まる。
冷たい。
木の感触が、妙にはっきりと伝わってくる。
何をしに来た。
自分でも分からない。
それでも、扉を開けた。
「遊」
CUYONが顔を上げた。
柔らかな声だった。
外の音が、扉一枚隔てただけで遠くなった気がした。
「……いたのか」
「いるよ」
「見りゃ分かる」
「うん」
遊は小さく息を吐いた。
部屋の中には、薄い木の匂いがあった。
外より少しだけ暖かい。
窓から入った風が頬を撫で、首筋に残っていた汗を冷ました。
「座る?」
「あぁ」
「お茶、いる?」
「大丈夫だ」
「それどう言う意味?」
「いらねえってこった」
「そう」
CUYONは、それ以上何も言わなかった。
遊は向かいに座った。
木の椅子が、体重を受けて小さく軋む。
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外から、人の声がする。
遠い。
さっきまであれほど耳障りだった声が、今は薄い膜の向こうにあるようだった。
遊は自分の手を見る。
指先に力が入っている。
ゆっくり開く。
また握る。
「……なあ」
「うん?」
「影のことなんだけどな」
「うん」
「俺は、止めた方がいいと思ってる」
「うん」
「鷹宮は、そう簡単には止められねえって言った」
「うん」
「国がどうとか、今の生活がどうとか、別の場所で困る人間が出るとか……」
「うん」
「……お前、さっきから『うん』しか言ってねえな」
「聞いてるよ」
「聞いてるだけかよ」
「うん」
遊は眉間を押さえた。
「そこは否定しろよ」
CUYONが首を傾げる。
「聞いてるだけじゃ、だめ?」
「……」
遊は息を吐いた。
口元が、ほんの少し緩む。
「いや……まあ、いい」
「うん」
「それでいいのかよ」
「うん」
「お前な……」
笑いそうになる。
こんな時に。
こんなことを考えている場合じゃないのに。
それでも、ほんの少しだけ、胸の奥に溜まっていたものがほどけた。
「……俺、怒ってんのかな」
「うん」
「即答かよ」
「怒ってるよ」
「何に?」
「いっぱい」
「いっぱいって何だよ」
「分かんない」
「お前が分かんねえのかよ」
「うん」
遊は鼻から短く息を吐いた。
呆れた。
けれど、嫌じゃなかった。
むしろ、少しだけ楽だった。
「……そうだな」
遊は窓の外へ目を向けた。
陽の光が白く滲んでいる。
風に揺れた木の葉が、細かな影を床に落としていた。
「怒ってる」
「うん」
「影に」
「うん」
「空呑に」
「うん」
「……俺自身にも、かもしれねえ」
「うん」
遊は黙った。
「……俺、怖いのかもしれねえな」
「うん」
「何が怖いんだろうな」
「分からない?」
「……分からねえ」
CUYONは少しだけ体を前に傾けた。
「じゃあ、考えよう」
「一緒に?」
「うん」
その言葉が、妙に静かに胸へ落ちた。
「……お前が答え出してくれるんじゃねえのか」
「出さないよ」
「なんでだよ」
「遊が見つけるから」
「俺が?」
「うん」
「じゃあ、お前はいらねえじゃねえか」
「そう?」
「そうだろ」
「じゃあ、帰る?」
「……いや」
「なんで?」
「……知らねえよ」
CUYONが笑った。
その笑い声は小さかった。
風鈴が風に触れて、一度だけ鳴ったような、そんな音だった。
「そういや」
遊が言った。
「この前、ひよりが言ってたぞ」
「なに?」
「花霞の月雫って菓子の話」
「うん。知ってる」
「お前、知ってんのか」
「ひよりが話してた」
「ああ……そうか」
遊は少し考えた。
「澄乃ってやつと食ったらしい」
「すみの?」
「そう。澄乃」
「どんな人?」
「知らねえよ。俺も会ったことねえ」
「ひよりは知ってる?」
「知ってるだろ。友達なんだから」
「ふうん」
CUYONは考えるように、少しだけ目を伏せた。
「黄色い蝶の人?」
「……なんだ、それ」
「ひよりが言ってた」
「ああ……」
遊も思い出した。
ひよりが楽しそうに話していた。
澄乃という友達。
髪に黄色い蝶の簪をつけているらしい。
小さな蝶が、髪にとまっているみたいで可愛いのだと。
「そういや、そんなのつけてるらしいな」
「きれい?」
「知らねえよ。見てねえんだから」
「見たい?」
「別に」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「遊、ちょっと見たいんじゃない?」
「見たこともねえ奴を見たいも何もねえだろ」
「そっか」
CUYONは素直に引き下がった。
遊はなぜか、それが少し物足りなかった。
「……で、その花霞の月雫ってのが、そんなにうまいのか」
「食べてみたい?」
「別に」
「じゃあ、いらないね」
「いや、そこまで言ってねえだろ」
「食べたい?」
「……お前、そういうところだけしつこいな」
「遊が分からないから」
「分からないって何がだよ」
「食べたいのか、食べたくないのか」
「……」
遊は黙った。
甘いものの味を想像する。
餡の甘さ。
柔らかな皮。
口の中でほどけるような食感。
考えているうちに、少し腹が減ってきた。
「……まあ、一個くらいなら食ってもいい」
「うん」
「なんだよ」
「遊、食べたかったんだね」
「違う」
「うん」
「絶対分かってねえだろ」
「うん」
「……ったく」
遊は笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
笑い終えると、部屋の静けさが戻ってきた。
さっきまでとは違う静けさだった。
耳を澄ませば、風の音がする。
木の葉が擦れる音。
遠くで誰かが呼ぶ声。
CUYONの呼吸。
自分の呼吸。
遊は、その一つ一つをぼんやりと聞いていた。
「なあ、CUYON」
「うん?」
「お前さ」
「うん」
「初めは話さなかったろ?でも、中身はこんなだったのか?」
CUYONは少し首を傾げた。
「最初から、こうだよ」
「……最初から」
「うん」
「じゃあ、俺が変わったのか」
「たぶん」
「たぶんってなんだよ」
「分からないから」
「お前な……」
遊は笑いかけた。
けれど、今度は笑わなかった。
昔の自分だったら。
誰にも話さなかった。
自分で考えて。
自分で掘って。
自分で答えを出して。
自分で歩いた。
誰かに寄りかかるなんて、考えもしなかった。
なのに今は。
ひよりの顔が浮かぶ。
笑っている顔。
少し困ったような顔。
それから、鷹宮の顔。
冷静な声。
腹の立つくらい正しい言葉。
そして、目の前にいるCUYON。
「……そうか」
「なに?」
「いや」
遊は立ち上がった。
椅子が、床を擦って小さく鳴った。
「帰る」
「うん」
扉へ向かう。
手を掛ける。
冷たい金具が掌に触れた。
そのまま開けようとして、遊は足を止めた。
「……また来るわ」
口から出てしまった。
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
CUYONは、ただ笑った。
「うん。待ってるね」
遊は振り返らなかった。
扉が閉じる。
廊下の空気が頬に触れた。
人の声が戻ってくる。
足音。
衣擦れ。
遠くで鳴る鐘。
さっきと同じ音なのに、不思議とさっきほど騒がしくない。
遊は歩き出した。
答えは出ていない。
影をどうするのかも。
空呑をどうするのかも。
評定が何を決めるのかも。
何ひとつ。
それでも。
胸の奥にあった何かだけが、ほんの少し、動いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。引き続き器の世界をお楽しみください。




